第一話 由良姫と宇羅彦
今年も庭の山藤が花をつけ始めていた。ほんのりジャスミンにも似た甘い香りが漂ってくる。
その日、由良姫と宇羅彦は学校から帰ると、狐のケンを連れ裏山へと向かった。
芥見の集落からほど近い、山はいつもよりやけに静かだった。鳥のさえずりさえなく、風も止まっていた。
「おい、由良、ほんまこっちなんか?」
狐を抱いた上下薄手のスウェットの女子高生に向かって、同じ年頃にしてはガタイのいい男子が尋ねる。
「ウーちゃん、間違いないって。なあ、ケン!」
狐は低く唸るように鼻先に皺を寄せると、クワッと鋭く鳴いた。
小狐の頃、ケンはケガレに喰われかけたことがある。それ以来、ケンはケガレの臭いに敏くなっていた。
目には見えなくてもわかる、父の奏司はよくそう言って笑っていた。その時と同じ鳴き方をしていた。
「ほら見い、そこも、あそこも、うちの山に無断で、こんで四個目やん」
チッと舌打ちしながら、ウーちゃんと呼ばれる男子が、四個目のくくり罠を引き抜いた。
「ケンが足ケガしたんは、コレやって」
狐のケンが唸った。先日ケンは、その罠をつけたまま山道を引きずって帰ってきた。
手製の簡易な罠だったおかげだが、もう少し遅ければどうなっていただろう。暴れた拍子に足首ごと持っていかれていたかもしれない。
罠にかかってしまったのは、どうやらケガレの臭いを追って、いつもなら近づかない藪の奥へ踏み込んだからだった。
恐怖でパニックになっただろう。それでもなんとか戻ってきて、土間に倒れ込んだ。
由良姫には、それがどうにも腹立たしかった。
「ウーちゃん、向こうに罠にかかっとる犬がおる」
犬は首輪もなく、少しほっそりして茶色いが大きかった。目がギラギラしている。吠えもせず、こちらを見て低く唸っていた。
「由良、ケンしっかり抱いとらんと!」
宇羅彦は唸る犬の目をまっすぐ見た。ちょうど眉間あたりに気を飛ばす。
すると犬は次の瞬間、力がふっと抜け倒れた。それを由良姫が抱きかかえる。
「ひでえことしやがる」
宇羅彦は、気を失っている犬の足から罠を取ってやると、傷ついた足の様子を見て一息ついた。
犬はよほど暴れたようだった。だが、罠のかかりが浅く、二人が来るのが早かったおかげで、千切れてはいなかった。
「ウーちゃん、どお?」
「由良、お前の方が得意だろ。足治してやれ」
由良姫は罠で傷ついた犬の足を、両手で包んで気を当てる。温かみのある彩光が放たれ、あっという間に傷ついた足は元通りに治った。
ケンの時はもっとひどかった。あの時は足だけでなく、全身をその光で包み込むようにして治した。
「こんで、五個目の罠やね」
「まあ、確かに最近、野犬が多なって目につくけど、コイツはひでえな」
するともっと藪の奥の方から、人の声らしきものが聞こえてきた。
よく耳をすますと、年配の男と若い女の声がした。男はくぐもったガサガサした声で、静かにするよう言っていた。
女の声は何かで口をふさがれているのか、言葉にならないうめき声のようだった。
宇羅彦は重なる人影に向かって、藪の上から地面を蹴った。
「おい、オッさん、なにやっとるんや」
そう言うと、もう一度地面を蹴った。石が男に当たる。
「うるせえガキだな、ジャマするな!」
狐のケンが一声鳴いた。
「そうか、おまえも臭うか」
風が戻らない。
代わりに、臭いだけが濃くなってくる。
宇羅彦が構えると、くくり罠を由良姫に預けた。宇羅彦は男を宙に浮かせ持ち上げ、近くの木に向かって放り投げた。
由良姫が手に持っていたくくり罠で男の両足首をくくった。そのまま跳んでワイヤーを木の枝に回すと、思い切り引っ張った。
ワイヤーが引っ張られ足首が締まる。男は両足首をくくられ吊り上げられ、足首にかかる痛みで叫んだ。
「うっぎゃぁあっっ!!」
男は身動きできず、宙吊りのまま罵声を浴びせていた。
若い女は二人と同じ制服を着ていた。しかも、どこかで見覚えのある顔だった。
「お父さん!」
女は思わずそう呼んだが、次の瞬間、体を折って胸の辺りを掻きむしった。
「うっ……!」
声にならない嗚咽とともに、体の奥から何かが込み上がってくる。
女はたまらず嘔吐した。その都度、切り裂くような悲鳴をあげていた。
体は小刻みに震え、肩口が不自然に波打つ。制服のブラウス越しにも、何かが移動しているのがわかった。
吐瀉物の中に、黒いものが混じっていた。
普通の人間には見えない。けれど由良姫と宇羅彦には、ハッキリと見えていた。
二人は、それを祓う側だった。
それは空気に触れた瞬間、一瞬だけ痩せる。細長くなったものは、すぐにまた形を取り戻し、宿主を求め跳ねる。
「モドキや」
男の体がミシミシと内側から軋み始める。
「ぎぁあああああっっ!!」
男の叫び声がした。
モドキは気の道に入り込み、巣喰うだけで全身に違和感を走らせる。
娘から溢れたそれらは、気枯れかけた男へ一斉にたかった。
逆さに吊られ、大きく開いた口のまわりに黒がたかる。顔の判別さえできないほどだった。
「ぎょうさん、いてはるわ」
それを見た由良姫は、呆れて呟いた。
娘は、宙吊りの父親が奇妙な形に動く姿に、半ばパニックになっていた。
「いやぁああっっ!! 助けてぇえーっっ!!」
叫ぶたびに、娘の体からもモドキが溢れた。
ケガレそのものではない。けれど、放っておけば宿主の気を喰い尽くす。
「コレ、どないしよう。ひとつは証拠で取っとかなあかんな」
由良姫は、手に持っていた袋の中のくくり罠を恨めしそうに見つめた。
「ケンの足、もう少しで千切れるとこやってん、許せんなあ」
ギャッ、ギャッ!と狐が威嚇し始めた。
「ンぎゃぁあああああっっ!!」
男の手足に縛られた罠が締まる。
罠が軋むたび、黒々とたかっているものが弾かれるように散った。地面に触れた瞬間、小刻みに跳ねたそれは、宿主へ戻ろうと伸びる。
男から漏れ出たモドキは、必死に男の体へ戻っていく。娘の体から溢れ出たモドキも、どんどんそちらへ引かれていった。
「い、い、いや、いやぁああああっっ!!」
娘にモドキが見えるはずはなかった。ただ、父親の奇妙な体の動きと顔の形相で、気味悪さは十分伝わっていた。
娘はそのまま走って逃げていった。
「アレ、ええのん? 行っちゃったよ」
「あの様子やと、ヤバいかも」
宇羅彦はしかたがないといった表情をした。
由良姫は男を見て、ゲンナリとした顔になった。男はたんまりとモドキを蓄えていた。
モドキにたかられた男は、気の道からみるみる気を奪われていく。
体が気枯れを起こしていた。
頬がこけ、顔の影が濃くなり、呼吸の形が崩れていく。服の上からでもよくわかるほど、体の張りが抜けていた。
そこに、ケガレ特有の生臭さが混じった。
腐りかけた魚のような臭いだった。
それがケガレ化の一歩手前の姿だった。
「貴代美……帰るぞ……」
「なに?」
由良姫が眉をひそめる。
その言葉だけが、男に残っていた父親の形だった。
まもなく、魂の蝕が始まる。蝕が終わればケガレと化す。
「うわぁ、くっさ!! いつもやけど、ほんま鼻曲がるわ」
「由良、そろそろ祓わんと、蝕が終わるで」
宇羅彦は輪紋と響紋で光の玉を作った。由良姫も同じように作った。
「じゃあ……」
「おう」
二人は男だったもの目がけて術を放った。二つの紋が重なる。
一瞬にしてケガレもモドキも祓われた。
男も、いない。
ただ、山の空気だけが残る。
そこに誰かがいた気配だけが、わずかに残った。
風が、ようやく通り抜けた。
祓いのあと、由良姫は手に持っていたくくり罠を見つめた。
「……誰やったんやろ」
由良姫は、視線を地面に落とした。
宇羅彦が遮る。
「忘れろ。罠は全部始末した。もう罠仕掛けるヤツはおらんようになった。それでええやんか」
「あの、逃げた子、どうするん?」
「アレ、うちの制服やろ。学校行けばすぐわかるんとちゃうか」
「せやね。何日もつかなあ」
「もたんやろな。あの調子やったら、学校でなってもおかしない」
由良姫は、女子高生が消えた山道の先をしばらく見ていた。制服の背中が木立の向こうへ吸い込まれていったあとも、残った臭いだけはなかなか消えなかった。
今すぐ追えば、どうにかなるものでもなかった。モドキも体の外へ出てくるのなら祓える。けれど、もう遅い気がした。
モドキは、臭いの濃い方へ寄る。気枯れかけた父親へ。次に枯れるかもしれない、あの娘へ。
どのみち、学校へ来れば、いずれかのタイミングで事件は起きるだろう。
由良姫と宇羅彦は何事もなかったように山道を下りていった。
「今夜は麻婆豆腐やって、眴ちゃん言うてた」
「あ、ケンのネズミ頼むの、忘れとったわ。帰ったら忘れずせなあかん」
ケーン! 狐の鳴く声が山に響いた。




