第1話 夏休み、母さんとの朝
玄関の鍵が、がちゃりと鳴った。
朝の六時半。
俺は味噌汁の火を止めて、玄関の方を見た。
「ただいまー」
聞こえてきた声は、やけに明るい。
けれど、その明るさが本物じゃないことくらいは、俺にもわかる。
母さんが夜勤明けで帰ってくる時は、いつもそうだ。
「おかえり。朝ご飯、できてるよ」
俺がそう言うと、母さんは靴を脱ぎながら顔を上げた。
「あれ、真琴。もう起きてたの?」
「うん。母さんが帰ってくる時間かなと思って」
「夏休み初日なのに?」
「せっかくなら、一緒に朝ご飯食べられた方がいいかなって思ってね」
「……そういうこと、さらっと言うんだから」
母さんはそう言って笑った。でも、その笑い方は少しだけ疲れている。目の下に薄く影があって、髪もほんの少し乱れていた。
それでも母さんは、靴をちゃんと揃える。疲れていても、だらしないところをあまり見せない。
そういうところは、昔から変わらない。
「先に顔、洗ってくるね」
「うん。ご飯準備しておくね」
「ありがとう」
母さんはふっと笑ったあと、洗面所に向かった。
春野美咲。三十四歳。俺の母親。
息子の俺が言うのも変だけど、母さんはかなり美人だと思う。後ろ姿を見ても、三十四歳にはあまり見えない。近所の人にも、たまに「お姉さんかと思った」と言われる。
ただ、俺にとっては昔から母さんなので、あまり特別な感じはしない。きれいな人、というより、夜勤明けで帰ってきて、疲れているのに笑ってくれる人。
その印象の方がずっと強い。
母さんが戻ってきたので、俺はご飯をよそった。
朝ご飯は、昨日の残りの炒め物と、卵焼きと、味噌汁。特別なものはない。
それでも母さんは、椀を両手で持って、ほっと息をついた。
「あー……お味噌汁、おいしい」
「よかった。少し濃かったかなと思ったけど、大丈夫そう?」
「うん。夜勤明けにはこれくらいがちょうどいいよ」
「それならよかった」
「夜勤明けのお味噌汁って、なんでこんなにありがたいんだろうね」
「疲れてる時に温かいものがあると、ちょっと落ち着くからじゃないかな」
「真琴、たまにおばあちゃんみたいなこと言うよね」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
母さんは小さく笑って、卵焼きを口に運んだ。
「今日も寝るの?」
「うん。お昼くらいまで寝るかな。夕方に起きて、夜はまた仕事」
「連勤なんだね。今日も夜勤だったのに」
「今日行ったら、明日は休みだから大丈夫よ」
「明日休みなら、少し安心だね」
その言葉を聞いて、少しだけほっとする。
母さんは介護施設で働いている。夜勤もあるし、急なシフト変更もある。
本人は「慣れてるから大丈夫」と言うけれど、夜勤明けの日は、箸を持ったまま眠りそうになることもある。
俺が心配そうにしていると、母さんはすぐに気づく。
「真琴、そんなに心配そうな顔しなくても大丈夫だよ」
「ごめんね。心配しすぎかな」
「ううん。心配してくれるのはうれしいよ」
「でも、母さんが疲れてるのは本当だと思うから」
「ちゃんと寝れば戻るから大丈夫よ」
「それならいいけど。寝る前に無理して片づけとかしなくていいからね。食器は俺が洗っておくから」
「本当に優しいね、うちの息子は」
母さんはそう言って、また笑った。
たぶん、本当に大丈夫なのだと思う。
でも、本当に疲れていないわけではない。そこは、たぶん別だ。
「夏休み、何か予定あるの?」
母さんが聞いてきた。
「まだちゃんとは決めてないかな」
「友達と遊びに行ったりしないの?」
「誘われたら行くと思うよ。こっちからも、少し声かけてみようかな」
「高校一年の夏休みなんて、一回しかないんだからしっかり楽しみなさいよ」
「そうだよね。ちゃんと楽しむつもり」
「本当に?」
「本当だよ。母さんに心配かけたいわけじゃないし」
「そういうところが、もう心配なんだけどね」
母さんが苦笑する。俺も少し笑った。
高校一年の夏休み。
部活に入っているクラスメイトは、今日も朝から練習があるらしい。
俺は部活には入っていない。別に、運動が嫌いなわけじゃないんだけど。
「真琴?」
「ごめん。少し考えごとしてた」
「夏休みの予定、そんなに難しい?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、時間があるなら、何かできることがあればいいなと思って」
「できること?」
「母さんが、少しでも楽になるようなこと」
言ってから、少しだけ後悔した。
母さんの顔が、ほんの少し困ったように変わったからだ。
こういう顔をさせたいわけじゃなかった。
「真琴」
「無理するつもりはないよ」
俺は慌てて続けた。
「ただ、夏休みだし、少し時間もあるから。できることがあるなら、探してみたいなって思っただけなんだ」
「……そうなんだね」
「うん。母さんに心配してほしいわけじゃないよ」
母さんは箸を置いて、俺を見た。
怒っているわけではなさそうだった。でも、少しだけ寂しそうにも見えた。
「ありがとう」
「まだ何もできてないから、ありがとうって言われると少し照れるね」
「思ってくれただけで、十分うれしいわよ」
「でも、思ってるだけだと何も変わらないから。ちゃんと、できる範囲で何か考えてみたいんだ」
「真琴は真面目ね」
「母さんほどじゃないと思うよ。疲れててもちゃんと笑って帰ってくるところ、すごいと思ってるよ」
母さんは一瞬、言葉を止めた。
それから、少しだけ視線を落として笑った。
「そういうこと言われると、泣きそうになるからやめて」
「ごめん。でも本当にそう思ってる」
「……もう」
母さんは困ったように笑った。
でも今度の笑顔は、少しだけやわらかかった。
朝ご飯を食べ終えると、母さんは食器を片づけようとした。
俺は先に手を伸ばす。
「食器は洗っておくから、母さんは寝てきていいよ」
「でも」
「大丈夫だよ。そんなに量もないし、このあと急ぐ予定はないから」
「……ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」
「うん。ゆっくり寝てね」
母さんは立ち上がった。
部屋に向かう途中で、一度だけ振り返る。
「真琴」
「なに?」
「何かしようって思ってくれるのはうれしいけど、自分がつらくなることはしないでね」
「うん。ちゃんと気をつけるよ」
「本当に?」
「本当だよ。母さんに心配されるようなことはしないつもり」
母さんはそう言って、自分の部屋に入っていった。扉が静かに閉まる。家の中が、急にしんとした。
食器を洗いながら、母さんの言葉を思い出す。
自分がつらくなることはしないで。
母さんはいつもそう言う。でも、母さん自身はどうなのだろう。
疲れていても笑う。
眠そうでも「大丈夫」と言う。
心配をかけないように、明るい声で帰ってくる。
それがつらくないはずはないと思う。食器を洗い終えて、手を拭いた。
夏休みは始まったばかりだ。
急に何かを変えられるとは思っていない。できることなんて、たぶんそんなに多くない。
それでも。
少しだけでも、母さんが楽になる方法があるなら。
この夏休みに探してみようと思った。
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