1.《迷宮》のはじまり - 3
西階段も一筋縄ではいかなかった。下り階段を踊り場まで降りると、そこで階段が途切れている。数メートル下にまた階段が続いているのが見えたが、さすがに飛び降りるわけにもいかず、このルートを断念。
「あ! 階段あった!」
目に付いたドアを片っ端から開けていた朱凛が、楽しそうな声を上げる。
明らかに、この状況を一番楽しんでいるのがこの四十塚朱凛であった。佐藤先生は「自分が生徒を引率しなければ」とは考えているようだが、どうすればいいのかと途方に暮れているように見える。膝にキャラクターものの絆創膏を貼り、友人に気遣われている女子は、会話からするとあの教室の後ろにあった穴に呑まれかけたようだ。怪我が一番深刻なのは、揺れたはずみにロッカーの角に頭をぶつけたという白幡大地で、頭に押し当てたタオルハンカチに血が滲んでいる。さすがに彼は安静にしているように言われたが、「これくらい大丈夫っす」と言い張って後をついて来ていた。クラスの雰囲気を辛うじて真面目なものに留めているのが、この負傷者の存在だろう。そうでなければ、すっかり秘境を探索する探検隊の趣である。
「何やってるの、藍?」
携帯電話で辺りの写真を撮っていた天音楓子が、手を止めて訊ねる。彼女の友人である藍の手には、黒板から持ち出したらしい数本の色チョークがあった。そのチョークを白い壁に押し付け、分岐点が来るたびに矢印を描いているのだ。矢印を辿っていけば、一年A組の教室に辿り着けるという寸法。
「後で戻ってくるときのために、目印があったほうがいいと思って」
「なるほど。たしかに、またグルグル迷うのは勘弁だしね」
頭いいなあ、と頷く楓子。
ただでさえ、この洋館は複雑な構造をしているのだ。昇降口から二階の教室に向かうとき、最初に目に付いた階段を上ると行き止まりというのだから意地が悪い。そもそもこの洋館は学校ではなかった建物を移築・転用したとのことで、設計にあちこち無理があるのだ。なぜそんな建物を校舎に使っているのかと言えば、どうもこの学校の理事長の趣味らしいともっぱらの噂である。
それにしても、ずいぶん冷静に先を見越した行動だ。さっきの藍の話も、青海が知らないことばかりだった。
「双見さん、ひょっとして……前にも、迷宮化に遭ったことがある?」
ふと思いついて青海が訊ねると、「わ、分かる?」と藍は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「むかし住んでたマンションが、ちょっとね。この校舎に比べたら全然大したことなかったんだけど、それでも住んでる人にとっては大変だった。……だから、学校見学に来たときから考えてたんだよね。この学校、迷宮化したらすごく大変だろうなって。まさか、本当にそうなるとは思わなかったけど」
なるほど、と青海は頷く。《迷宮化》などという出来事は、そうめったに遭遇するものではない。訳が分からず皆が混乱する中、彼女がすぐに状況を把握できたことには、やはりそれなりの理由があったのだ。
「下の階、行けるよ! みんな来て!」
階段の下から、朱凛たち先発隊の頼もしい声。さっきまでは確かに存在しなかったはずの階段を降りると、これもさっきまでは存在しなかったはずのフロアが出現していた。天井がやけに低く、長身の南は背を屈めていたが、しばらく行くと六段の下り階段があり、その必要もなくなった。しかし、まだしも廊下と教室という基本構造が保たれていた上の階と違い、この階は無秩序に廊下と壁が入り組んでいる。これだけ壁があれば崩れてくる心配はないか、と青海はぼんやり考えた。窓もむやみに多く、電気がなくても周囲を見渡せるだけの光量はあるが、これではすっかりゲームに出て来るダンジョンだ。
「これでモンスターでも現れたら、もうゲームそのものって感じだな」
南も青海と同じことを考えていたらしい。さすがに魔物と戦う力は持っていないが、いくらなんでも、そんなことはあり得ないだろう。
――本当に?
(……って、ありえないに決まってるよね。こんな時に何考えてんだ、僕)
心の中に湧いた小さな疑問を、青海は己の理性をもって笑い飛ばした。
「ねえねえ、ここから飛び降りればたぶん出られるよ!」
朱凛が窓の外を指さしている。その先には足場になりそうな屋根が張り出していた。地面までの高さは、ちょうど一階分ほど。下は柔らかそうな地面だから、うまく着地できれば怪我はしないかもしれないが、少々勇気のいる高さだ。
「あー……これはちょっとキツいかも」
頭をハンカチで押さえたままの白幡が、窓の外をのぞき込んで呟く。水色のタオルハンカチは、血を吸って重苦しい色に染まっていた。
「何とか、一階に出る道を探しましょう。誰か、そこから出て中の様子を伝えてくれますか?」
先生の指示に、数名の生徒が名乗りを上げた。真っ先に出て行くかと思われた朱凛は、どうやらまだダンジョン探索を続けたいらしい。「あたし達もすぐに行くからね!」と窓の外に手を振っている。
「それじゃ、行くよー!」
張り切った声で、朱凛は来た道を引き返し、別の階段を探しに出かけた。
■ ■ ■
二階(?)の窓から脱出してきたというA組の生徒が数人、他の教師や生徒たちに質問攻めに遭っている。どうやら、中の生徒も無事らしい。
「……よく生きてたな」
笠井劉生は感心するような表情で腕を組み、目の前に建つ校舎――のなれの果てを見上げた。二階建てと三階建ての二棟を貼り合わせたような形だったはずの校舎だが、今ではその境目も判然としない、四階半くらいの高さの建物になっている。あるべきでない場所に生まれた窓やドアに加え、壁の数カ所にぽっかり空いている四角い穴が、何とも言えない不気味さを醸し出す。元の洒落た姿を知っていると、なおさら痛々しい。
「すっかり魔王城だもんねぇ……でも、みんな無事でよかったね」
隣で校舎を見上げているのは、笠井と同じD組の生徒で、幼なじみでもある紅島真那子だ。周囲には他にも、ちょうど体育の授業でグラウンドにいたC組とD組の生徒が集まり、ざわつきながら言葉を交わしている。
笠井は《界震》という言葉にも《迷宮化》という現象にも馴染みはなかったが、目の前で異形の姿に変化していく校舎を見せつけられれば、それがどういう現象なのかは肌で理解できた。
「つーか、俺らの家も大丈夫かな」
「あんな風になっちゃってたらどうしよう……お母さんにメールしたいんだけど、ケータイ取りに行けるかな?」
「行けなきゃ困るだろ。制服とか教科書とか筆箱とか、全部あの中だっつうの」
「あ、そっか、更衣室は無事かなぁ」
女子更衣室も一年校舎の一階にあるはずだが、正直なところ、どこが彼らD組の教室なのかも分からない。最初にA組の生徒が顔を出したのは、明らかに元々A組があった場所ではなかった。
「つーかこれ、ヤバいよな? 町の方はどうなっちまってんだか」
「あっ、で、でもほら、あっちの校舎はそうでもないし……」
「アレと比べりゃマシってだけだろ」
待機を命じられているC組とD組の生徒だが、A組と違い携帯電話で情報を調べる機会もなかった彼らは、出入りする教師や脱出してきた生徒の話に耳を傾けるしかない。どうにかA組の生徒を一人捕まえて取り囲むが、彼も校舎の外観を見て絶句している。
彼が掲示板サイトやSNSから得たという話によれば、近隣地域ではあちこちで迷宮化が発生しているらしい。地下にも影響が及んだらしく、学校の近くに住んでいる生徒の中には、家が断水している者もいるそうだ。
「断水ねえ。そいつ、誰だか分かるか?」
「ええと、何て名前だっけ、眼鏡で背の高い、なんか頭よさそうな感じの……」
「南?」
「ああ、そうそう、確かそいつ」
笠井と真那子は顔を見合わせる。南葉一郎といえば、笠井たちとは小学校も中学校も同じだ。家もそう遠くない。彼の家が被害を受けているということは、ふたりの家も無事ではない可能性が高そうだ。
A組の生徒が校舎外観の写真を撮り、メールを送っている。おそらく相手は校舎内にいる友人だろう。
「あ、推測震源地、やっぱりこの辺だって」
彼が携帯電話を見てそう言ったところで、一年生は第二グラウンドへの移動を指示された。