1.《迷宮》のはじまり - 4
界震が起きたのが今日でよかった、と真那子は思う。
第二グラウンドの隅には、葉桜になりかけた桜の木。空はよく晴れていて、日差しもぽかぽかと暖かく、そこへいい具合に涼しい春の風が吹いてくる。絶好のピクニック日和とでも言おうか。
これが雨の日なら。あるいは冬なら、夏なら。きっと、こうして訳も分からず待機させられていたら、苛立ちが募ったことだろう。けれどこんな日なら、少しは心も広く持てるというものだ。おまけに、すぐそばには幼なじみの笠井がいる。斜め前に座っている笠井をじっと見ていると、たまたま振り返った彼と目があった。面倒なことになったな、とその目が言っている。しょうがないよ、と苦笑を返す。
背筋を伸ばして、ぐるりと周囲を見てみる。先生たちはバタバタと駆け回っていたり、所在なげに立っていたり。自分達と隣のクラスを除けば、三年のA組とB組だけが体操着姿で、あとはみな制服だ。一年B組の生徒は、真那子たちが来たときにはもう第二グラウンドに座っていた。耳に入った会話からすると、どうやら音楽の授業中だったらしい。彼らがあの一年校舎を見たらどう思うのだろう、と想像して、真那子はくすりと笑った。きっとさっきの自分達のように、あるいはあのA組の生徒のように、ただ唖然とするに違いない。
――あの《迷宮化》という現象は、本当にとんでもない。
界震そのものには驚いたが、真那子は走っている途中だったせいか、そこまで恐ろしいとは思わなかった。地面に足がついていなくても身体が揺れる感覚には、地震とは違う独特の気持ち悪さがあったが、逆にだからこその安心感もあった。界震ならば地震と違い、『本物』の被害はない、と。
だから、視線の先にあった一年校舎の姿を見たとき、真那子は思わず引きつった悲鳴を上げてしまったのだ。
校舎が、揺らいでいた。
まるで、うずくまっていた大きな生き物が立ち上がるのを見ているようだった。今まで島だと思っていたものが、実は巨大な亀の背中だったのだと言われているような気分だった。
開いた窓から叫び声が聞こえた。A組かB組だから、二階の教室だ。だがもはや、その二階がどこにあるのか分からない。出来の悪いCG映像のように、新たな窓が、ドアが、次々と壁面に生まれていったからだ。
もはや授業どころではなかった。男子と女子、それぞれの授業を担当していた体育教師たちも、目の前の状況をなすすべなく見つめていた。誰かが「《迷宮化》だ」と呟くのが聞こえた。
どれくらいの時間、そうしていただろう。
一人の生徒が顔を出した窓は、元々あった位置から一階分、もしかするともっと高い場所にあった。水平方向の位置も、少し違うような気がする。
体育教師が真っ先に「無事か!」と訊ねたのも、当然のことといえよう。
■ ■ ■
「隊長! お宝を発見しました!」
「うむ、ご苦労!」
いつの間に隊長になったんだろう、という青海の内心のツッコミはさておき、朱凛は男子の報告に鷹揚に頷く。佐藤先生はもはや注意する気も失せたようで、時折投げやりに「気をつけなさい」と言うだけ。
一度はさらに下のフロアにたどり着いたものの、その先はすぐに行き止まり。目下、A組の生徒達は新たなルートを求めて彷徨っている真っ最中だ。
「おおっ! これはまさしくお宝! っていうかあたしのケータイ!」
ストラップがじゃらじゃらとついたピンク色の携帯電話を捧げ持ち、朱凛が嬉しそうに叫んでいる。
「むっ、しかし最愛のイチゴキャンディが行方不明ではないか! これは引き続き捜索を続けなければ!」
半開きになっていたロッカーから、口の開いたスクールバッグを取り出した朱凛は、くるくると表情を変えながら元気に騒いでいる。
(財布とか定期とかじゃなくて、まずそっちをチェックするんだ……)
そんな朱凛の様子を眺めながら、青海は妙に感心していた。
「なんかあったのか?」
「行方不明になってたロッカーが見つかったみたい。四十塚さん、カバンとかケータイとか、全部そっちに入れてたみたいだから、良かったね」
ああ、と頷いた白幡が、ふと思い出したように腰に巻いた制服の上着のポケットを探った。ワイシャツの襟には血の染みがついていて、見るからに痛々しいが、「制服を汚すと後が面倒だ」と上着を脱いだ白幡は意外に冷静なようだ。
「……やべっ」
「? どうしたの?」
「あー、いや……何でもない」
ポケットに何かを押し戻し、白幡はため息と共に額を押さえる。
「ねえ、その傷ホントに大丈夫なの?」
「頭のケガってこういうもんだろ。つーか、宝探しよりも、出口はどこだよ、マジで……」
この状況を前にして、誰もパニックにならないのはすごいな、と青海は思う。日本人らしい冷静さのあらわれなのか、あまりの事態に理解が追いついていないのか。自分は後者だな、と青海は小さく苦笑する。もはや、どうやってパニックになっていいのかすら分からない。
「そもそも、出口があるとは限らないぞ」
南が口を挟んでくる。
「自然現象だからな。これがゲームのマップなら、確実に出口までのルートはあるはずだけど、《迷宮化》でできた迷宮がそんなに聞き分けのいいものとは思えない」
「怖いこと言うんじゃねーよ!」
「別に、閉じ込められたわけじゃないんだから怖くもないだろう。出たいなら適当な窓から出ればいい。もちろんお前もだ、白幡。ケガ人は安静にするに越したことはないが、早く病院に行くのだって大事なことだからな」
「お前、なんでそんなに落ち着いてんだよ……」
「落ち着いてるように見えるか? それは良かった」
皮肉っぽい笑みと共に、南は眼鏡を押し上げる。
その膝が、かすかに震えていることに青海は気付いた。
「余裕があるなら、双見さんの心配をしてやってくれ。あの子が一番ヤバい気がする」
「え? なんで? 経験者なんでしょ」
「だからこそ、俺たちには分からない問題が、双見さんにはちゃんと見えてるんだろうよ」
歩き出しながら、南はちらりと手元の携帯電話に視線を落とした。画面には方位磁針が表示されている。秩序のない空間の中を歩いていると、たまに自分がどちらを向いているか分からなくなるのは確かだ。窓があれば外の景色で容易に判別できるが、方位磁針があれば少しは心強いだろう。
――あるいはひょっとして、そういうものがなければ不安に押し潰されそうなのか。
「あれ、コンパスなんて使えるんだ?」
「内蔵されてる機種は多いと思うぞ。写真を撮ったときに、地図と一緒に向きも記録してくれたりするだろ?」
「そういえばそうだね! でもさ、あの機能って正直いらなくない? 写真から住所がバレるっていうから、ずっとオフにしてるんだけど」
「……つーかさ、お前もずいぶん落ち着いてんじゃねーか、青海」
白幡に指摘されて、青海は「あれ? そうかも」と考え込む。すぐそばに南や白幡、あるいは藍がいるせいかもしれない。焦っている人間やパニックになりそうな人間を見ると、そばにいる者はかえって落ち着いてしまったりするものだ。
「隊長! 階段を発見したであります!」
「でかしたぞ! 褒美を取らせよう!」
朱凛が、先ほど発見した自分のカバンからミルクキャンディを取り出して男子に渡す。「ははーっ」とそのキャンディを受け取る男子もノリノリだ。
「……まあ、僕なんて、四十塚さんに比べればまだまだだよ」
「確かに、あの大物っぷりは見習いたいよな……」
その十分ほど後、探検隊は無事に出口を発見し、白幡は用意してあった教師の車で病院に運ばれていった。
彼の去り際にも、朱凛は「白幡隊員、きみの働きは忘れないぞ!」と彼にキャンディを握らせていた。先ほどとは違う色のアメだったような気がする。いったい、あのスクールバッグの中身はどうなっているのだろうか。
「つーかオレ、なんもしてないんだけど……」
「いやいや、そんなことないって! 何の価値もない人間なんて、この世にいるはずないんだよ! 元気出して!」
その時の会話は微妙に噛み合っていなかったが、励まされているということだけは伝わったようだ。白幡が笑顔で車に乗せられていったので、まあいいか、と青海は思う。
「お待たせしましたー!」
ノリノリの気分のまま第二グラウンドに向かった一年A組の面々は、その場に立ちこめる真面目な雰囲気と、「お前らを心配して待ってたのに、なんでそんなに楽しそうなんだ……」という無言の視線に気圧され、そそくさと生徒達の列の一番端に並ぶのだった。
「いやあ、一時はどうなることかと思ったよ。疲れたなぁ」
息を吐きながら、机に腰かけてぶらぶらと片足を振る青海。
結局、それ以上授業を続けることもできず、午後の授業は中止。上級生は早々に帰され、一年生もまた、自分の荷物を救出して別校舎の空き教室に移したあと、順次一斉下校となった。
あれほどの被害を受けたのは一年校舎だけだったようだ。他の校舎は、そのまま授業を続けても問題ない程度の被害にとどまっている。
「にしても、入学早々こんなことになるなんてビックリだよ」
「ええ。本当に」
藍がこくりと頷く。唇には笑み。だというのに、その顔色が悪いように見えたのは、さっき南に「双見さんの心配をしてやってくれ」と言われたせいかもしれない。
「白幡くんの荷物、誰かちゃんと持ってきてるんだよね?」
確認の声を飛ばしているのは、学級委員長でもある楓子だ。ほとんど仕事がないと言われる文化委員を狙ったジャンケンに負け、仕方なく余った学級委員長に収まったという経緯からして、あまりやる気があるようには見えなかったのだが……こうしてみると、案外さまになっている。墨香のすぐ後ろの席に座る彼女は、墨香とも親しくしているようで、変形した校舎から墨香の荷物を率先して運び出したのも彼女だった。
「教科書もカバンもあるよ。誰かあいつと同じ寮生のやつ、これ持っていってやってくれ」
「任せろ!」
皆がばたばたと出入りする光景に、入学式の直後の浮き足立った雰囲気を思い出す。
あの時はまだ、同じ中学校から来たメンバーで固まったり、塾の知り合いとつるんだりしながら、おっかなびっくり新しい人間関係に踏み込もうとしていたものだが――
(――なんだか、ずっとこのクラスにいたみたいだ)
あまり喋ったことのないクラスメイトとも言葉を交わし、一緒にピンチを乗り越えたせいだろうか。
いつの間にか、皆の距離が縮まっているような気がする。
「なんか……終わってみれば、ちょっと楽しかったような気もするよ」
「呑気なこと言いやがって。俺の家は終わってないんだぞ。帰っても断水してるんじゃ、学校にいたほうがマシだ」
肩をすくめる南。片手には携帯電話がある。本来、授業の時間帯には電源を切るようにと指導されているのだが、さすがにこの非常時には先生も注意はしてこなかった。
「終わり……か。そうよね。これでもう、終わったようなものなのよね」
藍が目を伏せる。
「……双見さん?」
「ああ、ごめんなさい、気にしないで。さ、そろそろ行きましょ、もうあとはうちのクラスだけよ」
そう言うと、藍は鞄を肩にかけ、逃げるように教室を出て行ってしまった。
――これで終わりなのだ。
このときはまだ、ずいぶん気楽にそう考えていたなと、後になって青海は思う。




