第9話 本人の意思に、本人がいません
王立婚約調停局の朝は、紙の音から始まる。
扉の開く音。
革靴の音。
インク瓶の蓋を外す音。
封筒を切る音。
それらが少しずつ重なり、仕事の気配になっていく。
エレナ・ヴァイスは、自席で記録板の縁を拭いていた。
布は白い。
昨夜から何度も使ったせいで、端が少しだけ黒ずんでいる。
記録板の表面には傷ひとつない。
けれど、裏に差し込む魔石の受け口には、かすかに焦げたような跡が残っていた。
ミリア・ベルナが横から覗き込む。
「焼けていますね」
「使用には支障ありません」
「その言い方、怪我人にも使えそうです」
「使いません」
「よかったです」
ミリアは机の上に紙束を置いた。
王立掲示板の掲載確認書。
掲示管理室からの受領印。
王宮婚姻記録院の回覧受領控え。
監査院受付の控え。
そして、もう一枚。
暫定賠償算定表。
最後の一枚だけ、紙の厚みが違った。
金額が記された紙は、なぜかいつも少し重く見える。
エレナは、暫定賠償算定表を手に取った。
項目は、すでに並んでいる。
名誉毀損相当額。
精神的苦痛に対する慰謝料。
王立掲示板掲載費用。
写し作成費。
社交信用回復費。
ミリアが横から覗き込む。
「綺麗ですね」
「何がですか」
「金額の並び方が」
エレナは答えず、算定表を机に置いた。
ミリアは淡々と読み上げる。
「名誉毀損相当額、金貨五百枚」
紙の端をめくる。
「精神的苦痛に対する慰謝料、金貨三百枚」
さらに一行。
「王立掲示板掲載および写し作成に伴う名誉回復実費、金貨二百枚」
ミリアはそこで一度、指を止めた。
「暫定合計、金貨一千枚」
調停局の奥で、誰かのペン先が止まった。
エレナは表情を変えない。
「確定額ではありません」
「はい。ですが、発生はしています」
ミリアは算定表の下部を指した。
「なお、王族発言管理瑕疵については、王位継承審査記録への回付予定。婚姻関連公務からの一時除外、歳費配分の見直しも検討項目」
「読み上げなくて結構です」
「聞こえるように読んだ方が、書類はよく乾きます」
「乾きません」
「では、よく広がります」
エレナは暫定賠償算定表を閉じた。
「正式通知は、異議期間後です」
「承知しています」
「では、なぜ読み上げたのですか」
ミリアは、涼しい顔で紙束を揃えた。
「王子殿下の発言が、きちんと金額になったことを確認しただけです」
「確認は声に出さなくても可能です」
「はい。ですが、声に出すと周囲の理解が早まります」
エレナは何も言わなかった。
調停局の中で、止まっていたペン先が、少しずつ動き始める。
だが、空気は先ほどよりも重かった。
金貨一千枚。
ただの数字ではない。
王子が公の場で口にした言葉に、王国の手続きが値をつけた。
それだけだった。
ミリアは、別の紙を一枚抜いた。
「こちらは、セリーナ・メイベル令嬢に関する補助記録です」
エレナは視線を向ける。
「恐怖申告の扱いですね」
「はい」
ミリアは紙面を指で押さえた。
「恐怖を感じたこと自体は否定しない。ただし、その恐怖を他者の加害行為として提出した場合、虚偽報告および再発リスクとして扱う」
エレナは頷いた。
「感情は、罪の証拠ではありません」
「便利ですね。泣いても、もうそのままでは通りません」
「ミリア」
「失礼しました。正確には、泣いた場合は、その涙の提出先と使用目的を確認します」
エレナは、補助記録に目を落とした。
『情緒的不安定を理由とする証言変動について、虚偽報告再発リスクとして補助記録化』
文字は淡々としていた。
だが、その一行は、セリーナ・メイベルがこれまで使ってきた武器の刃を、静かに鈍らせていた。
「本人が異議を申し立てた場合は」
ミリアが尋ねる。
「聞きます」
「泣いた場合は」
「泣いた事実と、申立内容を分けます」
「倒れた場合は」
「医師の所見を求めます」
ミリアは少しだけ笑った。
「情緒に厳しいですね」
「記録は情緒で濡れると読めなくなります」
「名言です」
「記録しないでください」
「残念です」
机の端に、割れた魔石の欠片が置いてある。
昨夜、ロッセ家で砕けた私物の魔石。
廃棄する前に、供給異常の検証用として残していた。
ミリアがそれを指先でつまもうとする。
「触らないでください」
「証拠扱いですか」
「検証対象です」
「便利な言葉ですね」
「あなたに言われたくありません」
ミリアは薄く笑った。
その時、調停局の入口が少し騒がしくなった。
大きな声ではない。
むしろ、声を抑えようとして失敗している気配だった。
職員の一人が、扉の前で固まっている。
その向こうに、王宮の使者が立っていた。
濃紺の外套。
銀糸の紐。
胸には、王宮婚姻記録院の封印章。
使者は無表情だった。
その手には、黒い革筒がある。
ミリアの目が細くなる。
「噂をすれば、次の火種ですか」
「まだ火種とは限りません」
「火種でなかった書類が、最近ありましたか」
エレナは答えなかった。
使者はエレナの席へ進んできた。
周囲の職員が、少しずつ視線を逸らす。
見ていないふりをしている。
けれど、耳だけはこちらを向いていた。
使者は一礼する。
「エレナ・ヴァイス調停官」
「はい」
「王宮婚姻記録院、記録監査室より、特別調停案件の送付です」
ミリアが紙束を抱え直した。
エレナは、革筒を見た。
黒革。
銀の封蝋。
王宮婚姻記録院の正式封。
そして、もう一つ。
記録監査室の小さな印。
ローレン・アシュフォードの部署印だった。
「受領します」
エレナは言った。
使者は革筒を差し出す。
「こちらは、エレナ調停官を担当者として指定する旨、記録院より通達済みです」
ミリアの眉が、ほんの少し動いた。
「指定」
「はい」
使者は淡々と続ける。
「なお、案件の性質上、速やかな処理が望ましいとのことです」
「処理期限は」
「三日以内」
調停局の奥で、また誰かが紙を落とした。
今度も、ミリアが拾いに行く気配はない。
「内容を確認します」
エレナは革筒を受け取った。
封蝋に指を添える。
青銀ではない。
黒に近い銀。
王宮内部案件に使われる色だった。
封を切ると、中から数枚の文書が出てきた。
一枚目。
特別調停依頼書。
二枚目。
婚約継続確認書。
三枚目。
本人意思確認済みの証明書。
四枚目。
当事者欠席許可申請。
五枚目。
面会制限に関する報告書。
エレナの指が止まった。
ミリアが隣から覗き込む。
「また、良い匂いのする紙ですね」
「香料はありません」
「では、嫌な匂いは内容からですね」
エレナは二枚目を机に置いた。
婚約継続確認書。
当事者名。
ラウル・エインズワース侯爵令息。
イレーネ・カーディル伯爵令嬢。
婚約継続を双方の意思として確認。
家同士の同意あり。
王宮婚姻記録院確認済み。
書面は整っていた。
整いすぎていた。
罫線の乱れも、署名欄のにじみも、訂正印もない。
綺麗だった。
綺麗すぎる文書は、時々、汚れた現場より扱いにくい。
ミリアが口元をわずかに歪める。
「美しいですね」
「ええ」
「嫌いでしょう」
「はい」
エレナは三枚目を見た。
本人意思確認済みの証明書。
そこには、イレーネ・カーディル伯爵令嬢の意思として、
『婚約継続を望む』
と記載されている。
署名もある。
だが、本人確認欄には別の名前が並んでいた。
カーディル伯爵。
エインズワース侯爵家家令。
王宮婚姻記録院補助官。
本人立会欄は、空欄。
代わりに、こう書かれていた。
『体調悪化の懸念により、本人立会い省略』
エレナは、その一文をしばらく見た。
ミリアが紙を斜めにかざす。
「……エレナ調停官。この署名、少し軽すぎませんか」
「軽い」
「線は綺麗です。迷いもない。けれど、インクが紙の奥へ沈んでいません」
エレナは証明書を受け取り、紙を裏返した。
署名欄の裏へ、指の腹を滑らせる。
滑らかだった。
滑らかすぎた。
震える手で書いた文字なら、紙の繊維にわずかな乱れが残る。
ためらいながら書いた文字なら、線の終わりに呼吸の跡が残る。
だが、この紙には何もない。
綺麗で、平らで、死んでいる。
「……返りがありません」
エレナは言った。
「本人の意思を記した署名としては、呼吸がなさすぎます」
ミリアが署名欄を見つめる。
「迷いがないのに、重みもない。数千回、同じ文字をなぞった手ですね」
使者が言った。
「筆跡に関する判断は、正式な鑑定を経てから――」
「はい」
ミリアは涼しい顔で頷いた。
「ですので、正式な鑑定に回します」
使者は口を閉じた。
エレナは五枚目の報告書に目を移す。
面会制限に関する報告書。
そこには、整った字で書かれていた。
『本人への直接確認を試みたが、面会準備中に容態悪化の兆候あり。医師および家族より、精神的負担を避けるため直接確認を制限するよう強い要請あり』
ミリアの指が、紙束の端を撫でた。
「便利ですね」
「ミリア」
「失礼しました。とても配慮の行き届いた壁です」
使者の顔は動かなかった。
エレナは視線を上げる。
「補足を」
使者は頷いた。
「イレーネ・カーディル伯爵令嬢は、現在、王都西区の静養館に滞在中です。心身の負担を避けるため、本人への直接確認は制限されています」
「制限の根拠は」
「医師およびご家族からの要請です」
「医師の氏名は」
使者の目が、わずかに揺れた。
「……書面には」
「容態悪化の具体的所見は」
「精神的負担と」
「診断書は添付されていますか」
使者は答えなかった。
沈黙。
調停局の朝の紙音が、妙に遠くなる。
エレナは記録板に指を置いた。
「診断書がないまま本人への接触を制限している場合、関係者による物理的隔離として記録せざるを得ません」
白銀の文字が、板の上に浮かぶ。
「面会制限の根拠書類を提出してください」
使者の喉が動く。
「この案件は、記録監査室を通じて――」
「責任者名を」
使者の肩がわずかに強張った。
「……ローレン・アシュフォード記録監査官です」
ガチリ。
『ローレン・アシュフォード記録監査官、イレーネ・カーディル伯爵令嬢への直接確認制限を含む案件を送付』
使者の顔が、はっきり強張る。
「今のは」
「受領時確認記録です」
エレナは淡々と答えた。
「問題がありますか」
使者は何も言わなかった。
エレナは四枚目の当事者欠席許可申請を見た。
『本人の精神的負担を避けるため、家代表による意思確認で足りるものとする』
ミリアが言う。
「本人を出さずに、本人の意思を確認できる。随分とよくできています」
「よくできすぎています」
エレナは記録板へ指を添える。
「確認します」
白銀の文字が淡く走った。
「ローレン監査官は、静養という主観的状態を、客観的な意思能力の喪失と定義したのですか」
使者の喉が動いた。
「そこまでは――」
「意思能力がないのであれば、医師の診断書を添えて後見人選定手続きに回してください」
エレナは記録板から目を上げない。
「意思能力があるのであれば、本人に聞きます」
白銀の文字が、さらに一行増える。
「意思があるなら聞く。意思がないなら、この書類は本人意思確認書ではありません」
一拍。
「どちらで受理すればよろしいですか」
使者は、完全に言葉を失った。
革靴の先が、ほんの少しだけ動く。
退きたい人間の足だった。
けれど、まだ退けない。
「この案件は、王宮婚姻記録院からの特別指定です」
「承知しています」
「三日以内の処理が求められています」
「本人がいない婚約継続確認を、三日以内に確定することはできません」
「しかし、家同士の同意は」
「家同士の同意は、本人の意思ではありません」
短い言葉だった。
だが、その場にいた職員の何人かが、手を止めた。
ミリアは紙束を抱えたまま、少しだけ目を伏せた。
「当事者本人が婚約継続を希望しているか確認します」
エレナは言った。
「イレーネ・カーディル伯爵令嬢への面談を求めます」
使者の顔が、はっきりと強張った。
「それは……ご本人の負担になります」
「負担の有無も、本人に確認します」
「静養中です」
「静養中であっても、意思は消えません」
ガチリ。
記録板が鳴る。
『本人静養中を理由とする直接確認省略につき、本人意思確認未了として扱う』
ミリアが小さく言った。
「美しい書類が、少し汚れてきましたね」
「ミリア」
「褒めています」
使者は、完全に困った顔になっていた。
それでも、声は崩さない。
「この件については、ローレン記録監査官より、後ほどご説明があるかと」
「では、説明を受けます」
エレナは書類を革筒に戻さなかった。
机の上に並べたままにする。
「ただし、本人面談なしの確定処理は行いません」
使者は頭を下げた。
「……伝達いたします」
彼が去ると、調停局の中に低いざわめきが戻った。
すぐに消える。
皆、仕事に戻ったふりをする。
エレナは、二枚目の婚約継続確認書を見た。
ラウル・エインズワース侯爵令息。
イレーネ・カーディル伯爵令嬢。
名前だけは、美しく並んでいる。
ミリアが椅子の背に手を置いた。
「王宮の膿、来ましたね」
「まだ膿とは限りません」
「では何ですか」
エレナは、署名欄を見た。
線の終わりが、滑るように抜けている。
「本人のいない本人意思です」
ミリアは口元だけで笑った。
「最悪ですね」
「確認します」
「静養館へ?」
「はい」
「すぐに拒まれるでしょうね」
「拒んだ者の名前を記録します」
ミリアは満足そうに頷いた。
「そう言うと思いました」
エレナは、記録板の裏に新しい魔石を差し込んだ。
昨夜使ったものより、少し小さい。
私物の魔石は、もう残り少ない。
ミリアがそれを見た。
「買い足しますか」
「必要であれば」
「経費では」
「通らないでしょう」
「でしょうね」
ミリアは自分の紙束を軽く叩く。
「では、請求書の写しを少し広めに回します」
「やめてください」
「正式な範囲で」
「狭くしてください」
「ローレン記録監査官のお名前も、参考回覧先に入れておきます」
「外してください」
「外すと、この案件の責任系統がぼやけます」
ミリアは涼しい顔で紙を揃えた。
「ぼやけた責任は、誰かが都合よく使いますので」
エレナは、何も言わなかった。
その時、机の端に置いた記録板が小さく鳴った。
ガチリ、ではない。
ジジッ。
乾いた音。
白銀の線が、ほんの一瞬だけ細くなる。
エレナは動きを止めた。
ミリアの目が鋭くなる。
「またですか」
「今度は弱い」
ミリアは記録板の裏を覗き込む。
「攻撃ではありませんね」
「ええ」
エレナは記録板の裏を見た。
「供給経路が細くされています」
「魔力そのものを切るほど露骨ではない。記録には残りづらい程度に、処理速度だけを落とす」
ミリアは口元だけで笑った。
「実に事務的な嫌がらせです」
「処理速度が落ちるだけです」
エレナは記録板に指を置いた。
「記録すべき事実は、逃げません」
白銀の文字が戻る。
『魔力供給、瞬間的低下を確認』
ガチリ。
音は戻った。
ミリアは、調停局の窓の外を見る。
王宮の屋根が遠くに見えた。
朝の光の中で、尖塔の銀飾りが冷たく光っている。
「エレナ調停官」
「はい」
「向こうは、あなたが記録板なしでどこまでやるか測っているのでは」
「測定は記録の基本です」
「測られる側は、あまり言いません」
エレナは、本人意思確認書を見た。
美しい紙。
美しい署名。
本人不在。
医師の名もない面会制限。
そして三日以内。
ローレンの言葉が蘇る。
――表に出すと困る婚約がいくつもあります。
エレナは記録板を閉じた。
「ミリア」
「はい」
「静養館への訪問申請を作成してください」
「理由は」
「本人意思確認の補正」
ミリアはペンを取った。
「持参書類は」
「本人意思確認補正通知」
エレナは言った。
「面会制限根拠書類の提出要求書」
一つ。
「医師の氏名、所属、ライセンス番号照会書」
二つ。
「診断書原本確認請求」
三つ。
「面会拒否時の緊急回覧文案」
四つ。
ミリアのペン先が止まった。
「武器庫ですね」
「書類鞄です」
「追加慰謝料算定表は」
エレナは少しだけ目を伏せた。
「仮で作成してください」
ミリアの口元が、わずかに上がる。
「門前払いされた場合」
「面会妨害、本人意思確認遅延、当事者隔離の疑い」
エレナは淡々と言った。
「必要に応じて加算します」
「承知しました」
ミリアは、さらさらと書き始めた。
「相手が拒否した場合は」
「拒否理由を確認します」
「理由を出さなかった場合は」
「理由不提示として記録します」
ミリアは小さく笑った。
「いい朝ですね」
エレナは何も答えなかった。
窓の外では、王都の朝が完全に明けていた。
王立掲示板の青銀の封蝋は、もう見えない。
けれど、別の白い紙が机の上にある。
まだ、誰の声も載っていない紙。
その中央には、本人の意思と書かれている。
本人のいない場所に。
エレナは、その文字をしばらく見つめていた。
やがて、静かに言った。
「本人の意思は、本人から聞きます」
それは救済の宣言ではなかった。
不備のある記録を完成させるための、機械的な確認事項だった。
ミリアのペン先が、インクを吸う。
「承知しました」
さらさらと、訪問申請書の一行目が書かれていく。
その音は、朝の調停局で、妙にはっきり響いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第9話では、王子側への暫定賠償額と処分の方向性、そしてセリーナの補助記録を描きました。
尊厳を傷つけたなら、記録だけでなく金額と処分も発生する。
この作品のタイトル回収が、ここから本格的に動き出します。
後半では、新たな案件として「本人のいない本人意思」が届きました。
綺麗すぎる署名。
本人不在の確認書。
医師名のない面会制限。
次回は、静養館へ向かいます。
続きを見守っていただけると嬉しいです。




