表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その婚約破棄、慰謝料が発生します。 ――王立調停官は、公開断罪の嘘を記録板に刻む  作者: 平八


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/19

第8話 王立掲示板は、空白ではいられない

承知しました。

以下、**第8話全文・加筆修正版/投稿原稿用**です。

既存の流れを崩さず、**「掲示=名誉回復の第一段階」「次は支払いと処分」**が読者に伝わるように加筆しています。


---


# 第8話 王立掲示板は、空白ではいられない


王立掲示板は、王宮前広場の東端に立っていた。


黒塗りの柱。


白い掲示面。


銀の縁取り。


そこに貼られる文書は、ただの紙ではない。


王国が、公に認めた言葉だった。


朝の王都は、まだ薄暗い。


石畳には夜の冷えが残り、吐く息がかすかに白い。


掲示板の前には、すでに人がいた。


貴族家の使い。


婚姻記録院の下級官吏。


商会の情報係。


朝早くから王宮前を掃く老人。


誰も大きな声では話さない。


しかし、誰も無関心ではなかった。


掲示板から少し離れた人垣の最後尾に、エレオノーラ・ロッセは立っていた。


ロッセ伯爵家の馬車は、通りの端に止めてある。


けれど、彼女は中にいなかった。


冷たい朝の空気の中で、白い掲示面を見つめている。


手袋はしていない。


裸の指先が、薄く震えていた。


自分の名前が貼られるのか。


それとも、また空白に戻されるのか。


彼女はそれを、窓越しではなく、自分の目で見ようとしていた。


隣にはロッセ伯爵がいた。


何か言いたげに娘を見る。


だが、言わない。


昨日とは違う沈黙だった。


止めるための沈黙ではない。


待つための沈黙だった。


掲示板の白い面は、月光の名残と朝の光を同時に受けて、妙に冷たく見えた。


まだ何も貼られていない。


その白さを、エレナ・ヴァイスはしばらく見つめていた。


「空いていますね」


隣でミリア・ベルナが言った。


「予定通りなら」


エレナは答えた。


「空いている必要があります」


「予定通りなら、ですね」


ミリアは紙束を抱え直す。


その紙束は、昨夜より少し厚かった。


写し。


控え。


回覧記録。


不自然なほど丁寧に綴じられている。


エレナはその厚みに触れなかった。


触れなくても、何が増えているかは分かっていた。


「正式な範囲で、でしたね」


「はい」


ミリアは涼しい顔で頷く。


「王宮婚姻記録院の関係部署、調停局の確認係、掲示管理室、写し保管室、あと誤って監査院の受付にも」


「誤って」


「受付の箱が、隣でした」


「そうですか」


「偶然です」


ミリアは表情を変えなかった。


エレナはそれ以上聞かなかった。


王立掲示板の下では、掲示管理官が準備をしている。


銀の留め具。


封印用の細い針。


掲示板の上部には、王宮婚姻記録院の小さな印章がある。


そこへ本日の掲載文が差し込まれ、正式に留められるはずだった。


エレナは記録板を胸元に抱えている。


昨夜、差し込んだ私物の魔石は、すでに交換していた。


新しい魔石も私物だった。


ミリアが一度だけそれを見たが、何も言わなかった。


言えば、記録に残らない何かが増える。


そういう目だった。


「エレナ調停官」


背後から声がした。


穏やかで、整った声。


エレナは振り返る。


ローレン・アシュフォード記録監査官が、二人の官吏を従えて立っていた。


今日も礼服は乱れていない。


胸元の銀印も、指先も、整いすぎている。


「朝早くからご苦労様です」


ローレンは柔らかく言った。


「掲載前に、少し確認が必要になりました」


ミリアの指が、紙束の端を撫でる。


「確認」


エレナは言った。


「確認項目を提示してください」


ローレンは微笑んだ。


「昨夜も申し上げましたが、王族案件は慎重に扱う必要があります。掲載文の一部に、表現上の整理が必要です」


「整理対象は」


「第二王子殿下に関する『重大瑕疵』の文言です」


掲示管理官の手が止まった。


周囲の下級官吏たちも、動きを鈍らせる。


誰もこちらを見ていないふりをしている。


それでも、耳だけは向いていた。


エレナは記録板を開いた。


白銀の文字が細く浮かぶ。


音は、正常だった。


ガチリ。


ミリアが小さく息を吐く。


「供給は戻っていますね」


「今朝は」


エレナは短く返す。


ローレンの目が、一瞬だけ記録板に落ちた。


「掲載を止める処理項目を提示してください」


エレナは言った。


「止める、とは言っておりません」


「では、遅らせる処理項目を」


「調整です」


「調整対象を」


ローレンの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。


「エレナ調停官。言葉遊びではありません」


「はい」


エレナは頷いた。


「ですので、処理項目名を確認しています」


ミリアが紙束から一枚を抜いた。


紙の擦れる音が、朝の空気の中で妙にはっきり響いた。


「掲示管理室の手順では、掲載遅延の理由は四つです」


ミリアは淡々と読む。


「一、印章不一致。二、掲載許可番号不備。三、当事者意思確認未了。四、法的差し止め命令」


紙を下げる。


「どれですか?」


ローレンはミリアを見た。


「あなたは相変わらず、仕事が細かい」


「書記官ですので」


「では、書記官。第五の理由を加えましょう」


ローレンは声を落とす。


「王宮判断による確認中」


ミリアの目が、ほんの少しだけ冷えた。


「便利ですね」


「実際、便利です」


ローレンは認めた。


「王宮は、すべてを規則の行に収められるほど単純ではありません」


エレナは、記録板に指を置いた。


「主体不明」


白銀の文字が浮かぶ。


ローレンの笑みが止まった。


「……エレナ調停官?」


「では、現時点で確認可能な責任者である、ローレン・アシュフォード記録監査官による独断として暫定記録します」


周囲の空気が薄く揺れた。


ローレンの背後にいた若い官吏が、目だけを動かす。


「少々、早計では?」


ローレンの声はまだ穏やかだった。


だが、喉が小さく動いていた。


舌打ちを飲み込んだような動きだった。


「主体が提示されていませんので」


エレナは淡々と答える。


「国王陛下の判断であれば、陛下の名を。王宮婚姻記録院長の判断であれば、院長名を。記録監査室の判断であれば、記録監査室の判断として記録します」


白銀の文字が、さらに細く走る。


「主体不明のまま掲載を保留する場合、手続き上は、責任者不明の掲示遅延。または、現場責任者である記録監査官の独断として処理されます」


ローレンの指先が、袖口に触れた。


整えられた爪が、布を軽く押す。


「あなたは、本当に容赦がない」


「処理手順です」


エレナは言った。


「王宮判断による確認中、という言葉は便利です。ですが、確認している項目名と主体が必要です」


ガチリ。


『ローレン・アシュフォード記録監査官、王宮判断による確認中を理由として掲載調整を提案。主体未提示』


ローレンの瞼が、ほんのわずかに下がる。


「また記録ですか」


「はい」


「非公式の会話ではありませんよ。ここは掲示管理区域です」


「ですので、記録しました」


ミリアが小さく笑いそうになり、すぐに止めた。


「エレナ調停官」


ローレンの声はまだ穏やかだった。


「この場で記録監査室の判断を過度に記録することは、王宮内の調整を難しくします」


「調整を難しくする事実を、調整のために伏せるのですか」


「あなたは、本当に厄介な聞き方をする」


「職務です」


掲示板の白い面が、朝日に少しずつ明るくなる。


その白さが、待っているように見えた。


ローレンは、掲示管理官へ視線を向ける。


「掲載は一時待機してください」


掲示管理官は固まった。


「しかし、掲載許可番号は――」


「記録監査室からの確認です」


その一言で、掲示管理官は黙った。


印章を持つ手が下がる。


エレナは、その動きを見た。


止まったのは紙ではない。


エレオノーラ・ロッセの名誉回復だった。


人垣の最後尾で、エレオノーラの指先が震えた。


彼女は一歩も動かなかった。


けれど、唇が白くなっている。


父が何か言いかける。


エレオノーラは、小さく首を振った。


今度は、誰かに代わってもらう場面ではない。


「掲示管理官」


エレナが呼ぶ。


男がびくりと顔を上げた。


「あなたは、掲載許可番号、当事者意思確認、掲示文、印章の一致を確認済みですか」


「……確認済みです」


声が細い。


「記録します」


ガチリ。


『掲示管理官、掲載許可番号・当事者意思確認・掲示文・印章一致を確認済みと発言』


ローレンの目が細くなる。


「エレナ調停官」


「はい」


「現場担当者を巻き込むのは感心しません」


「巻き込んだのは、掲載待機を命じた方です」


沈黙。


朝の広場に、馬車の車輪の音が遠く響く。


ミリアが紙束を抱え直した。


「記録監査官」


ミリアの声は、いつもより少しだけ明るかった。


「今朝、王宮婚姻記録院内で少々、回覧先の指定が広めになりまして」


ローレンは、ゆっくりとミリアへ視線を向けた。


「広め」


「はい。掲示管理室、写し保管室、調停局確認係、婚姻記録院の補助整理室、監査院受付」


「監査院」


ローレンの顔色が、わずかに変わった。


ほんの少し。


土の色が混じったように見えた。


「なぜ監査院が」


「受付の箱が近かったので」


「ミリア書記官」


「はい」


「それは誤送付ではありませんか」


「誤送付にならないよう、回覧先を丁寧に増やした結果です」


ミリアは涼しい顔だった。


「皆様、他部署の瑕疵を見つけるのはお好きですから」


その言葉が落ちた直後、広場の反対側から足音が聞こえた。


三人。


いや、四人。


王宮婚姻記録院の別部署の官吏たちだった。


そのうち一人は、胸元に監査院の小さな黒印をつけている。


ローレンの背後の若い官吏が、今度こそ顔色を変えた。


監査院の官吏は、静かに近づいてきた。


中年の女性だった。


目だけが鋭い。


「掲載手続きが止まっていると聞きました」


ローレンは、すぐに微笑を整える。


「一時的な確認です」


「確認項目は」


同じ質問。


けれど、相手が違う。


ローレンは一拍遅れた。


その一拍を、ミリアは見ていた。


エレナも見ていた。


監査院の女性官吏も、たぶん見ていた。


「王族案件の表現上の整理です」


ローレンは答えた。


女性官吏は、掲示管理官へ視線を向ける。


「掲示許可番号は」


「確認済みです」


「当事者意思確認は」


「確認済みです」


「掲示文と印章は」


「一致しています」


女性官吏は頷いた。


「では、表現上の整理を理由に掲載を止めた責任部署は、記録監査室でよろしいですね」


ローレンの指が、わずかに動いた。


整えられた爪が、また袖口に触れる。


「止めたわけではありません」


「では、掲載してよろしいですね」


短い。


強い。


ミリアが、ほんの少しだけ目を伏せた。


嬉しそうに見えるのを隠したのかもしれない。


ローレンは、エレナを見た。


エレナは何も言わない。


記録板を開いたまま立っているだけだった。


それだけで、十分だった。


ローレンは掲示板を見た。


白い面。


掲示管理官。


監査院の黒印。


ミリアの紙束。


そして、エレナの記録板。


ここで止めれば、王子の瑕疵は数時間だけ薄まる。


だが、掲載を止めた理由は、記録監査室の名で残る。


王子の傷を隠すために、自分の部署へ傷を移す。


ローレンの喉が、もう一度動いた。


計算が終わった顔だった。


そして、その計算は彼にとって、愉快なものではなかった。


「掲載してください」


掲示管理官が、はっと顔を上げる。


「よろしいのですか」


「手続き上の不備は、確認されませんでした」


ローレンは穏やかに言った。


「記録監査室として、掲載を妨げる理由はありません」


ガチリ。


エレナの記録板が鳴った。


ローレンのまぶたが、ほんのわずかに下がる。


「……今のも?」


「はい」


エレナは答えた。


「掲載を妨げる理由はない、との発言を記録しました」


ミリアが小さく呟く。


「綺麗な撤退ですね」


「ミリア」


「褒めています」


ローレンは何も言わなかった。


エレナは記録板に指を置いたまま、さらに続けた。


「確認します」


白銀の文字が浮かぶ。


「記録監査室は、王宮判断による確認中という掲載保留理由を撤回。掲載を妨げる理由なし、と判断」


ローレンの目が細くなる。


エレナは淡々と続けた。


「つまり、現時点で確認事項は存在しなかった、という扱いでよろしいですね」


朝の冷気が、広場を通った。


ローレンはすぐには答えなかった。


答えれば、固定される。


答えなければ、今の記録が残る。


彼はほんのわずかに、奥歯を噛んだように見えた。


「……現時点で、掲載を妨げる確認事項はありません」


ガチリ。


『ローレン・アシュフォード記録監査官、現時点で掲載を妨げる確認事項なしと発言』


ミリアの紙束の端が、かすかに揺れた。


風ではない。


彼女が笑いを殺したのだろう。


掲示管理官が、白い文書を取り出した。


王立婚約調停局の印。


王宮婚姻記録院の印。


当事者意思確認済みの細い署名。


文書は、朝の光を受けて少しだけ眩しかった。


掲示管理官は、両手でそれを持ち上げる。


銀の留め具に文書を挟む。


針を通す。


封印を押す。


赤ではない。


王国の正式掲示に用いられる、青銀の封蝋だった。


かちり。


小さな音がした。


掲示板に、文書が留められた。


人々が、距離を取りながら近づいていく。


誰も大声では読まない。


けれど、目が動いている。


一行ずつ。


確かめるように。


エレナは掲示文を見た。


『エレオノーラ・ロッセ伯爵令嬢について、公開婚約破棄時に提示された加害行為は、現時点で確認されず』


『第二王子アルフォンス・レグラント殿下による未確認情報の公的提示について、王族発言管理責任上の重大瑕疵を暫定認定』


『王立婚約調停局および王宮婚姻記録院は、名誉回復措置を継続する』


文字は、白い掲示面の上でまっすぐに並んでいた。


歪んでいない。


滲んでいない。


エレナは、それを見て、何も言わなかった。


ミリアが、紙束の中から一枚を引き抜いた。


掲示確認書ではない。


その下に挟まれていた、薄い算定表だった。


「名誉回復措置、第一段階完了」


ミリアは小さく言った。


「これで、次へ進めますね」


エレナは掲示板から目を離さない。


「慰謝料算定ですか」


「はい。名誉毀損相当額、精神的苦痛、掲示板掲載費用、写し作成費、社交信用回復費」


ミリアは、指先で項目を一つずつなぞった。


「綺麗に並んでいます。嫌なほど」


エレナは記録板を抱え直した。


「確定は、本人確認と異議期間経過後です」


「ですが、発生はしています」


ミリアの声は少しだけ明るかった。


「名誉は、傷つけられた瞬間に損害になりますから」


「楽しそうに言わないでください」


「楽しんでいません。回収できるものが見えると、紙が整うだけです」


ミリアは涼しい顔で算定表を戻した。


「次は、支払いと処分です」


人垣の最後尾で、誰かが気づいた。


「あの令嬢だ」


声にならない声が、広場の空気を震わせた。


人々が、波が引くように左右へ割れる。


エレオノーラは立っていた。


逃げなかった。


隠れなかった。


ロッセ伯爵が横に立つ。


けれど、前へ進んだのはエレオノーラ自身だった。


白い手袋はしていない。


裸の指先が、少し震えている。


その指が、スカートの布をつまむ。


けれど、握り潰しはしなかった。


掲示板の前まで歩く。


一行目。


二行目。


三行目。


彼女の睫毛が震えた。


涙は落ちなかった。


掲示文に、そっと指を伸ばしかける。


しかし、触れる直前で止めた。


「……インクが、乾いていない」


その声は、誰に向けたものでもなかった。


濡れた文字は、まだ少しだけ光っていた。


自分の名誉が、今まさに書き戻されたばかりだと告げているようだった。


父が隣に立つ。


彼も掲示文を読んでいた。


そして、ほんの少しだけ頭を下げた。


誰に向けたものかは、分からない。


娘か。


記録か。


それとも、自分が止めかけたものへか。


エレオノーラは、長く息を吐いた。


「……載りました」


小さな声だった。


だが、今度は消えなかった。


エレナは答えない。


答えるべきではないと思った。


これは、祝福ではない。


傷が消えたわけでもない。


ただ、傷をつけられた事実と、傷つけられた側が罪人ではなかった事実が、ようやく同じ板の上に並んだだけだった。


ミリアが小さく言った。


「よかったですね、とは言いづらい掲示です」


エレナは頷いた。


「ええ」


「でも、必要でした」


「ええ」


エレオノーラが振り返った。


エレナと目が合う。


エレナは一礼した。


エレオノーラも、ほんの少し頭を下げる。


その所作は、夜会の時よりも小さかった。


けれど、ずっと確かだった。


ローレンは、その光景を見ていた。


笑顔は戻っている。


だが、その目は笑っていなかった。


「エレナ調停官」


彼は静かに声をかける。


「お見事でした」


「手続き通りです」


「そうですね」


ローレンは掲示文を見上げる。


「手続き通りに、王族の瑕疵が掲示された」


「はい」


「王宮は、この件を忘れないでしょう」


エレナは記録板を閉じる。


「記録されましたので」


一拍置いて、彼女は続けた。


「慰謝料算定と王族発言管理瑕疵の審査回付も、同じ記録に基づいて進みます」


ローレンの目が、ほんの少しだけ細くなった。


「容赦がありませんね」


「手続きです」


「王族相手でも?」


「王族の発言だからこそ、影響範囲が広くなります」


エレナの声は平らだった。


「加算対象です」


ローレンの口元が、わずかに上がる。


「あなたは、本当に危うい方だ」


「よく言われます」


「でしょうね」


ローレンは背を向けかけ、ふと足を止めた。


「次の調停案件で、またお会いするかもしれません」


エレナは黙っていた。


「王宮には、表に出すと困る婚約がいくつもあります」


ローレンは振り返らずに言った。


「あなたのような正論しか吐かない調停官がいると、膿を出すには都合がいい」


ミリアの目が細くなる。


エレナは、記録板の縁に指を添えた。


「それは依頼ですか」


ローレンは少しだけ笑った。


「まだ、雑談です」


「では、記録しません」


「賢明です」


ローレンは歩き出した。


数歩進んでから、もう一度だけ言った。


「ただし、膿を出した手が清潔なままでいられるとは限りません」


エレナは、自分の指先を見た。


昨夜の魔石の熱で、ほんの少し赤くなっている。


「汚れたら、記録します」


声に、拒絶も恐怖もなかった。


ローレンが足を止める。


エレナは続けた。


「汚れたという事実を、一字一句、違わずに」


ローレンは振り返らなかった。


それでも、彼の肩が一瞬だけ止まったのを、ミリアは見逃さなかった。


やがて、ローレンの背が、王宮の門へ消えていく。


掲示板の前では、人々がまだ文書を読んでいる。


エレオノーラは父と共に馬車へ戻りかけていた。


その背は、昨日よりも少しだけ軽く見えた。


ミリアが紙束を抱え直す。


「掲示文が貼られました。次は算定表ですね」


「ええ」


「王子殿下、朝食は喉を通るでしょうか」


「関係ありません」


「関係ありますよ。金貨一千枚級の暫定請求を受け取る朝です」


エレナは少しだけミリアを見た。


「まだ確定ではありません」


「暫定でも、胃には十分です」


ミリアは涼しい顔で言った。


「それに、金額だけではありません。王族発言管理瑕疵。婚姻関連公務からの一時除外。歳費配分の見直し。王位継承審査への注記」


「ミリア」


「はい」


「楽しそうに聞こえます」


「失礼しました」


ミリアは紙束を抱え直す。


「必要な処分が、ようやく紙の上に並び始めただけです」


エレナは掲示板を見た。


白い面の上に、文字がある。


空白ではなくなった場所。


しかし、その白の余白はまだ残っている。


書かれるべきことは、たぶん、まだ多い。


エレナは記録板を抱え直した。


「戻ります」


「はい」


二人は王宮前広場を後にした。


背後で、掲示板の青銀の封蝋が、朝日に冷たく光っていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第8話では、ついにエレオノーラの名誉回復文が王立掲示板に掲載されました。


ただし、そこに至るまでには「王宮判断」「確認中」「表現上の整理」といった、記録を曇らせるための言葉が並びました。


ローレンは正義に屈したのではなく、自分の瑕疵として残ることを避けるために退いた。

エレナはその過程すら、淡々と記録していきます。


そして、濡れたインクで書き戻されたエレオノーラの名誉。


次回からは、王宮のさらに奥にある「表に出すと困る婚約」へ進んでいきます。

ブックマーク・評価で応援いただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ