4話
彼女と出会って半月が過ぎようとしていた。
僕は毎日彼女のことを考え、毎日生きる理由を探した。
それと同時に、僕は忙しく動き回っていた。
毎日が、ものすごいスピードで駆け巡っていった。
彼女の髪は、ピンクの色素が少しずつ抜け落ち、光に当たると金髪に見えるようになっていた。キラキラ、細い髪の毛が光を浴びるそのさまは、とてもキレイだった。
彼女が楽しみに待っていた、薄いピンク色。それよりもさらに色は落ちてしまったけれど、僕は今の色のほうが好きだった。体のラインが細い彼女には、薄い色のほうがあっているように思えた。
そのことを彼女に告げると、彼女はしばらくカラーは入れないことにすると言った。
ふと、僕は以前彼女が言った言葉を思い出した。最後は僕の好きなスタイルにする。もし今のスタイルをそうだとされたらどうしようか。そんな不安がよぎり、僕はそこまで今の色にこだわらなくていいと言った。けれど、彼女はカラーを入れなかった。薄いピンク色のまま、髪型を変えていった。
肩にかかるほどあった髪は、なんとか耳が隠れるくらいのショートカットになっていた。
今日も、僕はいつものファミレスで、彼女と食事をしていた。
僕はビーフシチューを、彼女はサバの味噌煮膳を食べていた。
いつもと同じように時間が流れているつもりでも、いつもとは違っていた。
僕達は、ほとんど口をきかなかった。二人そろって「いただきます」を言ってから、「ごちそうさまでした」というまで、ずっと。
異様な雰囲気は、どちらからともなくかもし出していたもので、お互いが、何かを感じていた。いつもとは違う、何かを。
それが何なのか、お互い分かっていて、口にはしなかった。口にすることが、それを現実にしてしまう。きっと、そう思っていたのだろう。少なくとも、僕の方は。
いつものようにコーヒーのお代わりを頼んだ。
彼女はコーヒーに砂糖を落とし、スプーンでかき混ぜる。僕は、ブラックのまま、ただそれを見つめ続けた。そして彼女は、カップの持ち手をぎゅっと握り締めたまま、それを口に運ぼうとはしなかった。
時間は流れる。
僕らは子供じゃない。今この時が永遠には続かないこと、次に行かなければいけないこと、全部分かっていた。
解決しなければいけない問題を、解決しなければいけない時が来ていた。
「あの」
意を決して、コーヒーを口元に運ぼうとした彼女。それを静止するかのように、僕は口を開いた。彼女は一瞬手を震わせ、口元ギリギリの位置でカップを止めた。そして、ゆっくりとそれを離し、テーブルの上に戻す。
彼女は、遠慮がちな上目遣いで僕を見る。
「あの…、ずっと考えていたんです」
「…うん」
「うまく言えないし、長くなると思うんですけど、聞いてもらえますか?」
「うん」
彼女は、まっすぐに僕を見つめなおした。
僕は、一呼吸を置いてコーヒーを一口飲んだ。そして、彼女をまっすぐに見つめ返した。
コーヒーが届いてから、そんなに時間がたっていないように思っていたけれど、結構ぬるかった。
「最初に会った時に言ったように、僕は今まで、生きる意味を真剣に考えたことがありませんでした。考える必要もなかったからです。生きるということは当たり前のことで、理由が必要だとは思っていなかったんです」
僕の言葉に、彼女は一瞬も瞳をそらすことなく、移ろうこともなく、真剣に聞き入っていた。
「これは、あなたの思いを否定しているわけではありません。あくまで、あなたに出会う前の、僕の思いであって、これが正論だとかいうわけではありません」
分かっているわ、と彼女は頷いた。
僕は続けた。
「むしろ、あなたに出会って、僕は初めて、自分が生きる意味というのを考えることが出来ました。そして、僕自身、生きる意味を持っていないことを知りました。あなたに会って、あなたに生きる理由を提案し続けたのは、それを探すことで、自分にも生きる意味が見つかればいい、そういう思いもありました」
「……」
「僕は、思うんです」
彼女は、少し首をかしげた。
「生きることに理由は要りません。理由は、死ぬことにしかありません。始まることに意味はありません。終わることには意味があります。僕らが生きるのは、ここに生まれついたからです。それに、意味はありません。
世界は広いです。ファミレスだけじゃありません。おいしいご飯は、ここ以外にもあります。
あなたは、どうして死にたいのですか?」
彼女の表情が変わった。もう少しで、目を伏せてしまいそうだ。
「あなたが生きる理由を失った原因は、ちゃんとありますよね?」
とうとう彼女は目を伏せた。僕から目をそらした。
「……愛していたんですよね?」
「……」
「彼の子供、産みたかったんですよね?」
彼女の目にみるみるうちに涙がたまり、テーブルの上に零れ落ちた。ひとつ、ふたつと、テーブルの上に涙のしずくが落ちる。
間もなく、小さな嗚咽がこぼれ始めた。
僕は、彼女に内緒で彼女を調べた。あらゆる伝をたどり、彼女に何があったのかを調べた。
彼女を追い詰めた出来事は、意外にすぐ判明した。そして、納得した。
愛しい人がいたこと。その人の子供を身ごもったこと。けれど、その人とは一緒になれなかったこと。子供も、失ってしまったこと。
「恋を…、愛を失って生きていられないという思いをバカにしようとは思いません。陳腐だとは思いません。それだけ、あなたが彼を本気で愛していたということなのですから。愛した人を失って、生きていけないと思うあなたを、僕はむしろ誇らしく思います。命を懸けて誰かを愛するなんて、誰にでも出来ることではありません。あなたは、素晴らしい人です」
いくつもの涙のしずくが、一塊になろうとしたその前に、彼女はテーブルに突っ伏した。そして、声を殺して、肩を震わせて泣いていた。
「僕は、あなたといると楽しいです。僕があなたと一緒の時間を過ごしたのは、同情でも、義務でも、仕方がなくでもなんでもなく、あなたが好きだからです。あなたと過ごす時間が好きだからです」
毎日一緒に過ごすうち、彼女に会うのが楽しみになっていることに気づいた。悲しみを隠し、毎日楽しそうにしている彼女を、いつしか愛しいと感じるようになっていた。
「今日悲しくても、辛くて死にたくても、明日は違うかもしれません。もしかしたら、明日は笑えるかもしれない。その次の日は、心の底から楽しいと思えるかもしれない。明日がダメでも、明後日があります。明後日がダメでも、またその次が…。大丈夫。すみれさんは、明日も明後日も、その次の日も生きていけます。大丈夫ですよ。死を覚悟した人間ほど強い者はいません。だから、約束してください。僕に内緒で死なないと。死にたくなったら、僕を呼んでください。僕は、いつでも駆けつけます。寂しい時、悲しい時、いつでも駆けつけますから。僕は、すみれさんのことが、大好きです。もし、今の僕に生きる理由があるとしたら、それは、すみれさんを好きな気持ちがあるからです」
彼女の、すみれさんの肩の振るえが、少しだけ収まったように見えた。
しばらく、彼女は静かに泣き続けた。僕は、彼女を待ち続けた。
どれくらいか時が経って、ゆっくり彼女が体を起こそうとしていた時、コーヒーのお代わりが届いた。
泣き顔の彼女に、コーヒーを促した。いつも彼女がそうするように、砂糖をひとさじ落とし、かき混ぜたものを差し出して。
彼女は、ゆっくりとコーヒーを口にし、「おいしい」と口元を緩ませた。それを見届けてから、僕もコーヒーを飲んだ。程よい苦味がちょうど良かった。
コーヒーがなくなるのが、さよならの合図。
僕は伝票を手にし、テーブルを立った。彼女も、すぐに立ち上がった。
誰が見ても泣いたことがすぐに分かってしまう顔を気にして、彼女は終始うつむいていた。僕が会計を終え、一緒に店を出るまで。
いつものように、店の入り口から数歩の所で立ち止まる。僕らは、向かい合った。いつものように。
彼女は涙にぬれた顔で、僕を見つめた。
何度も、何度も何かを言いかけて、彼女は口をつぐんだ。今にも泣き出しそうな顔で、必死に探していた。僕にかける、最後の言葉を。
僕は笑った。
「さようなら、すみれさん」
そして、僕は彼女に背を向けた。振り向きざま、彼女が何かを訴えようとしている顔が見えた。けれど、僕は彼女を見なかった。
僕は歩き出した。
数歩歩いたところで、背中に微かに声が届いた。
「ありがとう」
一瞬だけ、僕は歩くスピードを緩めたけれど、すぐに元に戻した。
僕は、振り返らなかった。
以前の生活に戻った。
彼女と出会う前の、流れるままに生きていた僕に。
僕は、彼女に何をしてあげられただろう。何をしてあげればよかったのだろう。
あれが僕に出来る、精一杯だった。けれど、僕の思いは、どれだけ彼女に届いたろう。
結局、何も出来なかったのだ。
彼女は、あの後どうしただろうか。無事に家まで帰っただろうか。そして、今もちゃんと生きているだろうか。
僕は、新聞を隅々まで読みつくした。以前よりも細かく、一字も漏らすことなく。それが、彼女と会うすべを失った僕に出来る、唯一の生存確認だから。
季節は夏へと移り変わり、仕事が終わって外に出ても、まだ空は明るかった。日が伸びている。そう感じた。彼女と会っている時、空はいつも茜色だった。そう思っていた。実際は、そうではなかったはずなのに。
彼女と会っている時の空の色を、僕は覚えていない。ただ、目の前にいる彼女しか見ていなかったのだ。
一体いつから空はこんなに明るくなっていたのだろう。僕は、どれだけの時間を彼女と過ごしていたのだろう。
茜色じゃない空は、僕を感傷へと誘う。
「新聞屋さん」
会社を出たところで、聞きなれた声が耳に届いた。
ボーっと空を見上げていた僕は、慌てて声のほうに目をやった。
「すみれさん」
そこにいるはずのない彼女が、いつも僕を待ち続けた場所に立っている。そして、昨日までより控えめに、静かに僕に近寄ってくる。
薄い薄いピンク色の髪の毛は、昨日よりもさらに短く、耳の上まで切りそろえられていた。短い髪は、彼女の小さな顔をさらに引き立て、余計に美人に見せた。
「どうして」
彼女はうつむき気味に、広くなった額を手の甲で拭うような仕草を繰り返し、困った顔をしたまま、ゆっくり口を開いた。
「もし迷惑じゃなかったら、もう少し私と一緒にいてくれませんか?」
「……」
「もう一度、生きてみようと思う。新聞屋さんと一緒なら、もう一度、頑張れる気がするの。だから…」
うつむいたまま、彼女はそう言い、両手でバッグの持ち手をギュッと握り締めた。小刻みに体が震えている。今にも、泣き出してしまいそうだ。
僕は、首を前に曲げ、右手で後頭部をかるく掻いた。
「近くに、安くてボリュームがあって、おいしいって評判のお店があるんです。今度はそこの全メニュー制覇をしてみませんか?」