86. 宰相執務室(ベルナールside)
「気でも狂ったのか、私は」
カリカリとペンを走らせる音に混じり、なんとも忌々し気に毒づく声が小さく響く。
今朝の己の行動を思い出す度にベルナールは痛む頭を抱えながら、利き手だけは書類の処理に動かしつつギリッと歯ぎしりした。
狂ったのでなければ、脳に虫でも湧いたか。でなければ自分が、仕事に行きたくないなどと思い、あまつさえそれを口に出して女に頬擦りし。挙句の果てには職場までそのまま連れ立ってくるなどあり得ない。
そんなことをするのはどこかの色ボケじじいか、猿と同等の新米兵士だ。
それでも、腕を広げて迎えてくれたレオノラを思い出すだけで、脳が沸騰するほど熱くなる。
抱きしめた身体は想像よりずっと柔らかくて。まろやかな弾力をどうしても思い出してしまう自分への嫌悪感で、まだ感触の残る腕にゾワゾワと鳥肌が立った。
あんな思いは二度と御免だと訴える様に、心臓が早鐘を打って止まらない。
「ゲルツ宰相様。技術部からの予算申請は…」
「旅程の費用を一割下げ、研修日程も短縮させろ」
そもそも、昨夜から自分は可笑しい。あのフェザシエーラの小倅と紛らわしい事をしたのは向こうなのに、何故こちらがあそこまで言われないといけないのだ。
「軍部の演習地の提案は…?」
「北の国境付近なら、冬を目安に交渉させる」
「ふ、冬…あちらはもう少し早い時期を希望されていて」
「北との関係性を見ればそれが妥協点だと、バカに分かるように伝えてこい」
しかも、その後も勢いに任せて、好きだなんだと言った気がする。いやそんな小恥ずかしい台詞は言ってない筈。いや、言ったのか。どっちになるんだ。
「先月破損したレイワードア港の再建ですが」
「王立研究所の専門家派遣については陛下から承認を得た。三日以内に担当者を決めろと、命令書を出す」
いや。もうそんなことは考えるべきではない。とにかく、今朝の様な失態を二度と繰り返さないことが重要だ。離れたくないと、情けなく縋るなど。
二度とするものか。
「それとウィルマ―伯爵が、南方の農地開発について、今夜会食しながら話し合いたいと申していますが」
次々と仕事を裁いていたベルナールの手がピタリと止まった。
今夜。ということは、帰宅するのが遅くなる。そうなると、帰っても妻の顔が見られない。
仕事ならそんなことは当たり前だと思うのに。脳裏に響くのは、帰ったらまた抱き合おうと言ったレオノラの言葉。
いやいや。そんなことの為に仕事の予定を変えるなど、愚かの極み。そんな過ちは御免だと、たった今強く心に決めたばかりの筈。
それなのに、駄目だと思えば思うほど、あの温もりと心地よさが蘇る。強く引き寄せた時の、あの柔らかさを。
「くそがっ!」
頭が沸いた思考に、咄嗟にゾワリと走った悪寒のまま、机にガンッ!と額を叩きつけた。
「ひぃぃっ!?ゲ、ゲルツ宰相様?」
「うるさい!なんでもない!」
自分のバカな思考回路のおぞましさに血が凍る。一体自分はどうしてしまったのか。
そうは思うのに。それでもなお、不本意な選択をしてしまう自分を止めることができない。
「会食はいらん。一時間後に執務室へ来いと伝えろ」
「はっ?え、ですが事前に貰ったこれと、これと…あとこの資料を読んでからでないと話は…」
「それを一時間で読むと言ってるんだ!さっさと行け!」
「は、はいぃぃ」
脱兎の速さでクリスが部屋を出ていくと、ベルナールは背を這う嫌悪感と腕の鳥肌に、再び額を机にガンガンとぶつけた。
自分の行動が信じられない。どこまでバカに成り下がるのか、恐怖と吐き気に背筋が冷える。
頭ではそう思うのに、ベルナールは抗えない衝動のまま、手繰り寄せた資料に目を通し始めるのだった。
***
王都の街が夕焼けに染まる頃、屋敷の玄関前で馬車から降りたベルナールは、道中で何度も思った言葉を内心また繰り返した。
今度は、無様な真似はしない。あくまで夫婦の触れ合いとして。妻からの接触を、夫として受け止めるつもりで。
決して脳が溶けたような思考をするな。ただ、粛々と帰宅の挨拶を済ませれば良いだけだ。
そう胸に誓い、使用人に目線で玄関の扉を開けさせた。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「あぁ」
真っ先に出迎えたニクソンに小さく頷きながら、いつもの様に外套と鞄を預ける。普段であればこの頃合いで、声が聞こえてくる筈。
「ベルナール様!」
「っ!!」
身構えていた筈なのに、その声が聞こえた途端に肩が震えた。階段を駆け降りてくるレオノラを見つけた途端、ベルナールの足はフラリと自然に動いてしまう。
「ベルナール様、この後お話があぁぁっ!?」
近寄ってきたレオノラを掬い上げる様に、ほぼ無意識で抱き留めていた。
腕の中から響いた奇声にハッと我に返るが、今更失態を無かったことにはできない。
今すぐ離れろ、と脳から警鐘が響く。それに従おうとしたのに、その前に腕から伝わる温もりに思考が止まった。
そうだ。離れる必要など無いし、これは失態などではない。元々こうする予定だったのだし、それを言い出したのはレオノラなのだ。なんの問題があるというのか。
「あの、ベルナール様?どうし…」
「…いま、帰った」
「ん?あっ!ああぁ。はい、そうでしたそうでした。えっと、お帰りなさい」
状況を理解したのか、間抜けな相槌をしたレオノラも同じように抱き締め返してくる。弱い力だが、背に細い手が回った途端、ベルナールは全身からフッと力が抜けて行くのを感じた。同時に、緊張や疲労といった物も溶けていくような心地よさに、思わず溜息が漏れた。
衝動のまま更に強く引き寄せれば「うぐぅ」と小動物の様な声が耳を擽った。
腕から伝わる柔らかさに目を閉じると、鼻を爽やかな果実の香りが掠める。ほんのり甘さも含んだこれは、桃か。
それが、少し前にニクソンに命じて、とある香水店に用意させたものだと気付いた。
レオノラが好みだと聞いたから、店に出仕して再販させたものだ。こうして着けているということは、気に入っているのだろうか。思い返せば、今朝もこの香りがほんのりしていた気がする。
(もっと…もっと、気に入るものを揃えてやる)
そう思うのに、言葉は出ない。「何か欲しいものはあるか」と聞くだけなのに、意識した途端に喉が絞められた様に動かなくなる。
その口惜しさに、レオノラの背に這わせた腕にますます力が篭った。
「ぐ、る…ぃぃ…」
くぐもった声がまるで猫が喉を鳴らすようで、撫でまわして頬擦りしたくなる衝動が走る。
グルグル鳴る声に酔いしれながら、頭の片隅でまたニクソンに何か探らせようと決めた。
そうしてベルナールが腕の中の柔らかさに意識を向けていると、突然ダンダンと足元から妙な音がした。視線を向ければ、レオノラが激しく床を踏みつけている。
どうかしたのかと腕を離せば「ぷはぁっ!」と空気を弾じいたような声が玄関ホールの天井に木霊した。
「ハァ、ハァ!あ、あのベルナール様。大事なお話があるので、この後お時間をください」
「はっ?」
「それと腕、ちから……いえ、なんでもないです」
先に大事な話が済むまで、力加減に関する文句は我慢しよう。と荒い呼吸を懸命に整えるレオノラの前で、ベルナールは緩んだ筈の身体が硬くなった。
この状況で改まって話と言われては、嫌な想像しか浮かばない。
昨日の事を責められるのか。まさか、やはり離婚したいと言われるのか。
不安のまま眉をグッと寄せたベルナールだが、レオノラの真剣な瞳にジッと見詰められ。断ることはできずに、小さく頷くしかなかった。
蛇宰相は「絞めつける」を覚えた。
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