『完結』悪役令嬢の研究所
「悪役令嬢の研究所へ、ようこそ」
最前列で、短い灰色の顎髭を撫でていたゲルトが鼻を鳴らす。その隣では、蜂蜜色の髪のニーナが笑い、琥珀色の目をしたルカが入学者名簿を閉じた。
王国暦六三八年、夏の第一月十五日。
ミューレ魔法植物研究院、最初の入学式。
アウレリアが壇上から告げると、新入生十八人のうち、三人が目を丸くし、十五人が笑った。
王都から来た三人だけが、昔の呼び名を冗談にしてよいのかわからなかったらしい。
「院長。その呼び方を定着させないでください」
共同院長席から、ルカが言った。
「すでに定着しています」
「あなたが使うからです」
六年前なら、「温室の悪女」は、研究しか見ない冷たい公爵令嬢への悪口だった。
今では、危険な実験を止め、都合のよい結論へ十二項目の修正を求め、学会の権威にも遠慮しない院長を指す言葉になっている。
少なくとも、ミューレでは。
「当研究院では、正しい肩書が正しい結論を保証するとは教えません」
アウレリアは、新入生を見る。
農家の娘。
王都の元書記官。
南部の薬草職人。
読み書きをミューレの夜学で覚えた木工職人。
貴族の次男。
祝福を持つ者と、魔法をほとんど持たない者。
年齢も身分も、そろっていない。
「仮説を立て、観察し、失敗し、条件を変え、もう一度確かめます。記録へ名前を残すか。資料を使わせるか。途中でやめるか。研究へ参加する人にも、選ぶ権利があります」
入学要項には、授業料だけでなく、奨学金、仕事時間、資料所有、成果名義、異議申立て、研究中止の手順が書かれている。
研究費は王家、領主、学会、町から分けて受ける。苗と器具の事業から入るのは、住民側が自ら決めた分配金と、研究院が契約に基づいて受け取る試験料、設計料だけである。
一つの資金提供者が、結果の公表を止められない規則にした。
原記録は、研究院、資料所有者、独立保管庫へ分ける。
院長室の鍵一つで、研究の存在を消せないように。
「そして、学問は、論文のためだけに行うものではありません」
窓の外で、水車が回っている。
「人が、明日を少しよく生きるために使います」
六年前、卒論提出まで三日しかなかった令嬢は、そこで一度、言葉を止めた。
「ただし、明日をよくするという言葉で、今日の不都合な記録を消してはいけません」
今度は、王都から来た三人も笑わずにうなずいた。
* * *
ミューレは、王都のような町にはならなかった。
石造りの大通りも、貴族の劇場もない。
人口は百人を少し越えた。
麦穂亭のほかに、長期滞在者向けの小さな宿が二軒できた。
市場は週に一度。
雨の日には、出店者同士で開催時間を変える。
水車は粉を挽くだけでなく、テオたちの工房へ小さな動力を送っている。
木工房では被覆枠、採土筒、二人で開ける記録箱を作る。売上の一部は修理積立と見習い賃金へ入った。
夜学は、子どもの昼学校と、大人の夜間講座を持つ学び舎になった。
研究院の学生も、週に一度は村の授業へ参加する。
教えるためではない。
自分の説明が、専門用語を知らない人へ届くか確かめるためである。
旧温室は第一観察室として残った。
隣に、境界設備を持つ第二温室と、土壌記録庫が建っている。
どちらも、美しい正面玄関より先に、排水、避難扉、二鍵倉庫へ予算を使った。
最初の一年が終わると、屋敷と土地は正式な有償契約へ切り替えた。水車と主水路は村のもの。研究院も、水を使う分の料金を毎年払っている。
誰の好意に頼っているのか、わからなくならないためだ。
アウレリアは王立エルデ学院からの教授就任要請を断り、この場所を選んだ。研究院は王立魔法植物学会の教育研究施設認定を受け、旅人はミューレを学術都市と呼ぶようになったが、住民は今も、ただミューレと呼ぶ。
「院長らしい建物ですね」と言われるたび、アウレリアは褒め言葉として受け取っている。
畑も、すべて元には戻っていない。
地脈魔力が基準範囲へ戻り、輪作を再開した区画。
月眠り苔の管理試験を続ける区画。
乾燥が強く、農地へ戻すことを諦め、在来草地として保全した区画。
休ませたまま、年二回だけ測る区画。
回復を、昔と同じ作物が採れること一つにしなかった。
ベルンからも、毎月、共通様式の記録が届く。
豊穣加速法停止から五年。
回復した畑はある。
作付けを戻せない畑もある。
十一村の食料輸送は二年目から減ったが、種麦共同保管と配給記録は続いていた。
奇跡の翌年ではなく、測り続けた五年目の報告だった。
* * *
入学式のあと、アウレリアはリンゴ園へ向かった。
ゲルトが、丘の上で待っている。
七十四歳になった背は少し丸くなったが、手には今も剪定鋏があった。
園の成木すべてが戻ったわけではない。
枯れた木の跡には札を残し、なぜ枯れたか不明なものには、推測を書いていない。
エマが選び、ゲルトが植え続けた若木の一本だけが、今年、初めて実を結んだ。
今年の開花は、春の第一月五日。エマが近縁の早生種について残した記録の範囲内で、百日余りかけて育った実だった。
薄い金色の皮に、灯火のような赤い筋が一本入っている。
「直径は」
アウレリアが尋ねる。
「七十二ミリ」
「重さは、収穫後に測ります。糖度は」
「最初の一個は切らん。未測定だ」
「承知しました。破壊測定なし、と記録します」
ゲルトは、六年前と同じように鼻を鳴らした。
それでも、リナが作った測定票へ、時刻、天気、木の番号、実の直径を書いた。
測定後、ゲルトが自分の手で枝から切る。吊り秤で量った重さは、二百四十六グラム。糖度欄には未測定と書いた。
品種名の欄へ、太い字で記した。
エマの灯。
「食べないんですか」
ニーナが尋ねた。
彼女は今、研究院の祝福安全研究部を預かる共同研究者である。
祝福を使った日だけでなく、使わなかった日と、断った依頼も記録し続けている。
「最初の一個は、あいつに見せる」
ゲルトはリンゴを布で磨き、園の奥にある小さな墓標へ向かった。
アウレリアたちは、少し離れて待つ。
墓前へリンゴを置いたゲルトは、長い報告をしなかった。
「育ったぞ、エマ」
それだけだった。
風が、若い枝を揺らす。
六年前に一輪だけ咲いた白い花は、すぐに実を結ばなかった。
その年も、次の年も、落果した。
土を測り、水を運び、枝を切り、失敗した理由がわからない年は、わからないと書いた。
最初の実は、奇跡ではなかった。
ゲルトとエマが、二十五年以上続けた仕事の、ようやく一つ目の収穫だった。
ニーナが泣いている。
ルカも、眼鏡を直すふりをして目元を隠した。
アウレリアは、記録票が風で飛ばないよう押さえた。
泣いていないふりをするには、便利な仕事だった。
* * *
ルカとの個人的な申し込みは、研究院計画とは別の日、別の紙で受け取った。
断っても共同院長契約、成果名義、報酬、住居へ影響しない。
アウレリアは、その一文を最初に確認した。
それから、私的な返事として受け入れた。
二人は結婚したが、論文ではそれぞれの姓を使い、利害関係を毎年申告している。
結婚指輪は、測定器の調整中に傷をつけないよう、二人とも首から下げていた。
「アウレリア」
園を下りながら、ルカが呼ぶ。
公の場ではローゼンベルク院長。
研究中はローゼンベルク共同研究者。
二人だけなら、アウレリア。
呼び方も、いつ、どこで使うかを話し合って決めた。
「入学式の続きは?」
「初回講義が残っています」
「今日は爆発させないでください」
「わたくしが爆発させたことはありません」
その瞬間、丘の下から、ぼん、と低い音がした。
第二温室の屋根から、紫色の煙が輪になって上がる。
安全鐘が、短く二回。
火災ではない。
境界内の小規模事故。入室せず、担当者を呼び、外周を確認する合図である。
「わたくしではありません」
「まだ誰も疑っていません」
温室前では、新入生たちが避難線の外へ出て、点呼を始めていた。
窓を割ろうとする者も、英雄的に飛び込む者もいない。
リナが安全記録担当として、二人の鍵保管者と鍵、封印番号を確認し、テオが外周の排水溝を閉じる。
ニーナは祝福を使わず、体調の悪い者がいないかを尋ねた。
「院長!」
新入生の一人が叫ぶ。
「歌うキノコの二重膜培養袋が、豆苗の支柱へ絡まりました! 加熱板は停止済み、負傷者なし、境界外への胞子なしです!」
「記録者は」
「二人います!」
「では、許可が出るまで近づかないでください」
初日の目的は、立派な講義を終えることではなくなった。
事故時刻。
温度。
二重膜培養袋の数。
豆苗の由来。
加熱板を止めた者。
何をまだ確認できていないか。
新入生たちは、口々に答えず、担当を決めて一つずつ記録し始める。
アウレリアはスカートの裾を持ち上げ、温室へ向かって走った。
隣をルカが走る。
後ろからニーナとリナ、テオ、新入生たちの足音が続く。
「院長、初回講義はどうします?」
「もう始まっています!」
村を救う一人の天才はいない。
答えを選ぶ一人の権威もいない。
観察し、疑い、失敗し、記録し、明日を少しよくしようとする人々がいる。
悪役令嬢と呼ばれた研究者は、その輪の先頭ではなく、真ん中を走っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
一旦物語はここで終幕とさせていただきます。
今後も後日談等上げていきますので、ぜひコメント、評価よろしくお願いいたします。




