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婚約破棄は結構ですが、卒論提出まであと三日です  作者: rorenji
第二章_新しい村へ

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月眠り苔は麦を治さない

「月眠り苔が、縮んでいます」


 夏の第1月25日、夜明け。


 公開審査が始まる二時間前、ベルン村北区画の境界容器で、青銀色の苔は昨日の半分ほどに丸まっていた。


 隣の麦は、黄色いままだった。


 記録係のヨハンが、木枠の外でしゃがんでいる。土へ触れず、昨日と同じ位置から葉の高さを読んだ。


「一日で治らないのは聞いていました。でも、苔の方が先に弱るとは」


「わたくしも、この速さは予想していませんでした」


 アウレリアは認めた。


 ミューレでは、月眠り苔は乾燥に弱かった。


 だから境界容器へ入れ、非魔法保湿材区も並べた。用水路へ直接放さず、湿度を朝夕測る計画にした。


 それでも足りなかった。


 中央穀倉地帯の朝風は、ミューレの丘より乾いて強い。容器の通気蓋は胞子や破片の逸出を防ぐ一方、細い隙間から水分を奪っていた。


「失敗ですか」


 リナが尋ねた。


 栗色の髪を左右で結び、運んできた被覆測定枠を胸へ抱えている。


「この容器を、予定した条件で続けることには失敗しました」


「研究全部が?」


「いいえ。乾燥停止基準へ達した一例です。続けて枯らせば、失敗から事故になります」


 アウレリアは停止札を立てた。


 時刻。


 気温。


 湿度。


 苔の被覆面積。


 容器の重量。


 前日からの給水量。


 表示者はヨハン、記録者はリナ。アウレリアは停止判断者として署名する。


 容器を勝手に開けず、二人の鍵保管者を呼ぶ。学会許可の停止手順に従い、石床の保管室へ戻した。


「ベルンの麦を救うために運んだのに、戻すんですか」


 近くにいた農夫が言った。


「この一片を枯らしても、麦は回復しません」


「なら、別のを置けばいい」


「同じ容器を同じ風へ置けば、同じ危険を繰り返します。原因候補を確かめてからです」


 農夫の頬が強張った。


「確かめている間に、こっちが枯れる」


 怒りではなく、恐怖だった。


 アウレリアは正論を返しかけ、黄ばんだ畑を見る。


「待ってください、とは言いません」


 彼女は言った。


「苔の試験を止める区画でも、今日できる乾燥対策を別に行います。何もしないことと、未確認の苔を増やすことは同じではありません」


 * * *


 六村から届いた朝の記録を、ベルンの集会所へ並べた。


 北区画だけが停止基準。


 西の二村でも苔の縁が縮んでいる。


 用水路沿いの二村は変化なし。


 丘陰の一村は、容器の内側に水滴が残っていた。


 給水量は同じだった。


 違うのは、風向き、日当たり、土の粒、容器を置いた畝の高さ。


「水の量を増やしますか」


 ルカが尋ねた。


「全区画へ一律には増やしません。丘陰では、すでに水滴があります。増やせば過湿になります」


 苗床を一晩で萎れさせた失敗が、頭に浮かんだ。


 足りない場所を見て全体へ足せば、別の場所を傷める。


「風を測る道具は、持ってきていません」


「代わりに何が残っています?」


 アウレリアは各村の記録を探した。


 洗濯物が乾くまでの時間。


 用水路の水位。


 朝露の有無。


 馬が嫌がった場所。


 どれも風速の測定値ではない。


 だが、乾きやすい場所を選ぶ手掛かりにはなる。


 ヨハンが麦倉の古い見取図を持ってきた。風除けの林が切られた年と、畑の境界が変わった年が書き込まれている。


「北区画の林は、三年前に伐りました」


「なぜですか」


「畑を広げるためです。豊穣加速法で収量が増えたから、日陰を減らそうと」


 短期の増収のために消した林が、今は乾燥を強めている可能性がある。


 それだけが原因とは決められない。


 しかし、同じ処置を六区画へ置けば同じ条件になる、という前提は崩れた。


「計画を修正します」


 アウレリアは白紙を出した。


「月眠り苔区を増やしません。停止した北区画は、許可が出るまで再設置しない。残る五区画は朝夕二回ではなく、正午の容器重量と湿度を追加します」


「正午に畑へ来られない日は?」


「欠測にします。無理に人を置きません」


「麦には何をする」


 農夫がもう一度尋ねた。


「苔を使わない乾燥対策を、農家が普段使う材料から選びます」


 刈った草。


 麦藁。


 薄い木片。


 用水路の泥上げで出た細土。


 食用畝へ入れてよいか、害虫を増やさないか、集められる量はどれほどか。


 農家たちが候補を出した。


 最も多く、扱い方を知っているのは麦藁だった。


 だが、厚く敷けば根元が蒸れ、火災の危険も増える。


「薄く敷く区画と、敷かない区画を取ります」


 アウレリアが言う。


「水を同じ量にして、地表温度と土の水分を比べる。これは土地回復の証明ではなく、今ある麦の乾燥を少しでも抑えられるかを見る短期試行です」


「苔より先に、藁を試すんですか」


「先に効く可能性があるものを、苔のために遅らせません」


 月眠り苔は、アウレリアの研究対象だった。


 だからこそ、それを主役にするために村の畑を使ってはならない。


 * * *


 試行区画を決めたのは農家だった。


 収穫を見込める畑を研究へ使いたくない者もいる。


 被害の大きい畑では差が見えないと考える者もいる。


 最終的に、同じ品種、同じ播種日で、黄変の程度が近い二本の短い畝を出せる家が三戸、手を挙げた。


 参加しない家の畑へ、結果を押しつけない。


 藁の厚さは指二本分。


 根元へ直接触れさせない。


 火気禁止の札を置く。


 異臭、虫の急増、根元の変色で除去する。


 作業へ賃金を払い、藁の提供量も記録した。


 ゲルトは、作業を黙って見ていた。


 短い灰色の顎髭へ触れ、北区画から戻された容器の記録を読む。


「エマも、乾く年は苗の周りへ刈草を置いた」


「帳面にありますか」


「持ってきた八頁にはない。家へ帰れば、たぶんある」


「記憶だけでも、今日の案を考えた経緯として記録します。ただし、エマの方法を再現したとは書きません」


「相変わらず面倒だな」


 ゲルトは鼻を鳴らした。


「だが、あいつのやったことを、勝手におまえの発明にしないなら、それでいい」


 * * *


 正午。


 公開審査のため麦倉へ戻る前に、アウレリアは三戸の試行畝を見た。


 目に見える差はない。


 麦は黄色い。


 月眠り苔を置かなかった畝も、急に元気にはならない。


 それでも、藁の下の土は、無処置よりわずかに冷たかった。簡易水分計の値は三戸中二戸で高く、一戸では差が測定のばらつき内だった。


 一回の測定では結論にできない。


「これで救えますか」


 農夫が尋ねた。


「わかりません」


 アウレリアは答えた。


「ですが、月眠り苔がすぐ麦を治す、という説明は違います。苔は土地の魔力低下を長い時間で緩める可能性を調べるものです。今日の乾燥には、今日の対策を別に探します」


 農夫は黄色い葉を一本、指で挟んだ。


「治らないものを、何で持ってきた」


「来年、同じ土地へ何を植えられるかを確かめるためです」


「今年と来年は、別か」


「別です。だから、両方を捨てません」


 遠くで、公開審査の開始を知らせる鐘が鳴った。


 アウレリアは立ち上がる。


 研究不正を認めさせる日にも、畑の風は待ってくれない。


 失敗した容器を隠さず、苔では間に合わない仕事を別の方法へ渡す。


 それもまた、アウレリアが研究で村を救うために選んだ答えだった。


お読みいただき、ありがとうございます。


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