月眠り苔は麦を治さない
「月眠り苔が、縮んでいます」
夏の第1月25日、夜明け。
公開審査が始まる二時間前、ベルン村北区画の境界容器で、青銀色の苔は昨日の半分ほどに丸まっていた。
隣の麦は、黄色いままだった。
記録係のヨハンが、木枠の外でしゃがんでいる。土へ触れず、昨日と同じ位置から葉の高さを読んだ。
「一日で治らないのは聞いていました。でも、苔の方が先に弱るとは」
「わたくしも、この速さは予想していませんでした」
アウレリアは認めた。
ミューレでは、月眠り苔は乾燥に弱かった。
だから境界容器へ入れ、非魔法保湿材区も並べた。用水路へ直接放さず、湿度を朝夕測る計画にした。
それでも足りなかった。
中央穀倉地帯の朝風は、ミューレの丘より乾いて強い。容器の通気蓋は胞子や破片の逸出を防ぐ一方、細い隙間から水分を奪っていた。
「失敗ですか」
リナが尋ねた。
栗色の髪を左右で結び、運んできた被覆測定枠を胸へ抱えている。
「この容器を、予定した条件で続けることには失敗しました」
「研究全部が?」
「いいえ。乾燥停止基準へ達した一例です。続けて枯らせば、失敗から事故になります」
アウレリアは停止札を立てた。
時刻。
気温。
湿度。
苔の被覆面積。
容器の重量。
前日からの給水量。
表示者はヨハン、記録者はリナ。アウレリアは停止判断者として署名する。
容器を勝手に開けず、二人の鍵保管者を呼ぶ。学会許可の停止手順に従い、石床の保管室へ戻した。
「ベルンの麦を救うために運んだのに、戻すんですか」
近くにいた農夫が言った。
「この一片を枯らしても、麦は回復しません」
「なら、別のを置けばいい」
「同じ容器を同じ風へ置けば、同じ危険を繰り返します。原因候補を確かめてからです」
農夫の頬が強張った。
「確かめている間に、こっちが枯れる」
怒りではなく、恐怖だった。
アウレリアは正論を返しかけ、黄ばんだ畑を見る。
「待ってください、とは言いません」
彼女は言った。
「苔の試験を止める区画でも、今日できる乾燥対策を別に行います。何もしないことと、未確認の苔を増やすことは同じではありません」
* * *
六村から届いた朝の記録を、ベルンの集会所へ並べた。
北区画だけが停止基準。
西の二村でも苔の縁が縮んでいる。
用水路沿いの二村は変化なし。
丘陰の一村は、容器の内側に水滴が残っていた。
給水量は同じだった。
違うのは、風向き、日当たり、土の粒、容器を置いた畝の高さ。
「水の量を増やしますか」
ルカが尋ねた。
「全区画へ一律には増やしません。丘陰では、すでに水滴があります。増やせば過湿になります」
苗床を一晩で萎れさせた失敗が、頭に浮かんだ。
足りない場所を見て全体へ足せば、別の場所を傷める。
「風を測る道具は、持ってきていません」
「代わりに何が残っています?」
アウレリアは各村の記録を探した。
洗濯物が乾くまでの時間。
用水路の水位。
朝露の有無。
馬が嫌がった場所。
どれも風速の測定値ではない。
だが、乾きやすい場所を選ぶ手掛かりにはなる。
ヨハンが麦倉の古い見取図を持ってきた。風除けの林が切られた年と、畑の境界が変わった年が書き込まれている。
「北区画の林は、三年前に伐りました」
「なぜですか」
「畑を広げるためです。豊穣加速法で収量が増えたから、日陰を減らそうと」
短期の増収のために消した林が、今は乾燥を強めている可能性がある。
それだけが原因とは決められない。
しかし、同じ処置を六区画へ置けば同じ条件になる、という前提は崩れた。
「計画を修正します」
アウレリアは白紙を出した。
「月眠り苔区を増やしません。停止した北区画は、許可が出るまで再設置しない。残る五区画は朝夕二回ではなく、正午の容器重量と湿度を追加します」
「正午に畑へ来られない日は?」
「欠測にします。無理に人を置きません」
「麦には何をする」
農夫がもう一度尋ねた。
「苔を使わない乾燥対策を、農家が普段使う材料から選びます」
刈った草。
麦藁。
薄い木片。
用水路の泥上げで出た細土。
食用畝へ入れてよいか、害虫を増やさないか、集められる量はどれほどか。
農家たちが候補を出した。
最も多く、扱い方を知っているのは麦藁だった。
だが、厚く敷けば根元が蒸れ、火災の危険も増える。
「薄く敷く区画と、敷かない区画を取ります」
アウレリアが言う。
「水を同じ量にして、地表温度と土の水分を比べる。これは土地回復の証明ではなく、今ある麦の乾燥を少しでも抑えられるかを見る短期試行です」
「苔より先に、藁を試すんですか」
「先に効く可能性があるものを、苔のために遅らせません」
月眠り苔は、アウレリアの研究対象だった。
だからこそ、それを主役にするために村の畑を使ってはならない。
* * *
試行区画を決めたのは農家だった。
収穫を見込める畑を研究へ使いたくない者もいる。
被害の大きい畑では差が見えないと考える者もいる。
最終的に、同じ品種、同じ播種日で、黄変の程度が近い二本の短い畝を出せる家が三戸、手を挙げた。
参加しない家の畑へ、結果を押しつけない。
藁の厚さは指二本分。
根元へ直接触れさせない。
火気禁止の札を置く。
異臭、虫の急増、根元の変色で除去する。
作業へ賃金を払い、藁の提供量も記録した。
ゲルトは、作業を黙って見ていた。
短い灰色の顎髭へ触れ、北区画から戻された容器の記録を読む。
「エマも、乾く年は苗の周りへ刈草を置いた」
「帳面にありますか」
「持ってきた八頁にはない。家へ帰れば、たぶんある」
「記憶だけでも、今日の案を考えた経緯として記録します。ただし、エマの方法を再現したとは書きません」
「相変わらず面倒だな」
ゲルトは鼻を鳴らした。
「だが、あいつのやったことを、勝手におまえの発明にしないなら、それでいい」
* * *
正午。
公開審査のため麦倉へ戻る前に、アウレリアは三戸の試行畝を見た。
目に見える差はない。
麦は黄色い。
月眠り苔を置かなかった畝も、急に元気にはならない。
それでも、藁の下の土は、無処置よりわずかに冷たかった。簡易水分計の値は三戸中二戸で高く、一戸では差が測定のばらつき内だった。
一回の測定では結論にできない。
「これで救えますか」
農夫が尋ねた。
「わかりません」
アウレリアは答えた。
「ですが、月眠り苔がすぐ麦を治す、という説明は違います。苔は土地の魔力低下を長い時間で緩める可能性を調べるものです。今日の乾燥には、今日の対策を別に探します」
農夫は黄色い葉を一本、指で挟んだ。
「治らないものを、何で持ってきた」
「来年、同じ土地へ何を植えられるかを確かめるためです」
「今年と来年は、別か」
「別です。だから、両方を捨てません」
遠くで、公開審査の開始を知らせる鐘が鳴った。
アウレリアは立ち上がる。
研究不正を認めさせる日にも、畑の風は待ってくれない。
失敗した容器を隠さず、苔では間に合わない仕事を別の方法へ渡す。
それもまた、アウレリアが研究で村を救うために選んだ答えだった。
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