【プロローグ】アストラル流星群
「お兄ちゃん!早くー!」
登り坂の向こうで少女が手を振る。
「有理栖〜流星群は逃げないぞ〜。」
「逃げちゃうかもしれないじゃん!」
「いやいや、逃げないって!」
住宅街を抜ける坂道を、有理栖は元気よく駆け上がっていく。
星川光瑠は苦笑しながらその後を追った。
夏の夜風が心地いい。
街灯の明かりは少なく、見上げれば夜空には無数の星が瞬いている。
今日は100年に一度と言われる『アストラル流星群』が観測できる日だ。
「お兄ちゃん。」
「んー?」
「流星群見終わったらアイス食べたい。」
「まだ見始めてもいないんだけど…」
「大事な話だもん。」
「はいはい。何味にするか考えとけよ〜。」
有理栖は振り返り、真面目な顔で言った。
「チョコミント?…よりもバニラ!」
有理栖はころころと意見を変える。
「やっぱりダブル。」
「おーい、アイスは贅沢品だぞ。1つまでだ。」
「えー!」
不満そうに頬を膨らませる妹を見て、光瑠は思わず笑った。
「今月厳しいんだよ。」
「そっか……。ごめんなさい……。」
有理栖は少しだけ俯く。
しまった、と光瑠は思った。
「いや、100年に一度だしな!今日はトリプルでもいいぞ!」
「本当!?」
「ああ、本当だ。」
「やったー!」
有理栖は再び駆け出した。
その小さな背中を見ながら、光瑠は胸を撫で下ろす。
妹に気を遣わせたくなかった。
本当なら高校に通って、友達と遊んで、将来のことを考えているはずだった。
だけど今の自分には、有理栖との暮らしを守ることしかできない。
それでもよかった。
有理栖が笑っていてくれるなら、それで十分だった。
二人はいつもの丘へと辿り着いた。
街外れの小高い丘。
昼間は何の変哲もない草原だが、夜になると周囲の明かりはほとんど届かず、満天の星空を眺めることができる。
人気もない。
だからこそ光瑠と有理栖にとっては特別な場所だった。
両親がいなくなった後も。
辛いことがあった日も。
嬉しいことがあった日も。
二人はここへ来て星を見上げていた。
有理栖は慣れた様子で草の上に腰を下ろす。
「ふふん。一番乗り。」
「他に誰もいないんだから勝負になってないだろ。」
「お兄ちゃんがいるよ?はい、私の勝ち!」
「はいはい。」
微笑みながら有理栖の頭を撫で、光瑠も隣へ腰を下ろした。
丘の上を吹き抜ける風は涼しく、遠くに見える街の灯りが宝石のように瞬いている。
見上げれば、夜空いっぱいに星が広がっていた。
「綺麗だね。」
「流星群、まだ始まってないんだけど……」
「星はもういっぱいあるもん。」
見慣れた星空だが、確かに最高の眺めであることに間違いはない。
「お兄ちゃんは将来やりたいことってある?」
「どうしたんだ?急に。」
「私はね。またお兄ちゃんと星を見に行きたいな。来年も再来年も、100年後も!」
「それが、将来の夢か?」
「うん!」
有理栖は満面の笑みで頷いた。
その笑顔が眩しかった。
本当ならもっと大きく、もっと自分勝手な未来を語ってほしかった。
好きなことを見つけて。
将来なりたいものを見つけて。
友達と笑い合って。
そんな当たり前の日々を過ごせるはずだった。
なのに有理栖の願いは、兄と星を見ること。
それがとても嬉しくて。
少しだけ胸が痛かった。
「星なんて……いつでも見に連れてきてやるよ。」
「本当?100年後も!?」
「100年って……ああ、本当だ。」
有理栖は小指を差し出してくる。
「約束だからね。」
「……分かった。約束だ。」
光瑠は苦笑しながら、その小さな指に自分の指を絡めた。
「ああ! 流れ星!」
有理栖が勢いよく立ち上がり、夜空を指差した。
一筋の光が夜空を横切る。
続いて二つ。
三つ。
四つ。
やがて数え切れないほどの光が夜空を埋め尽くしていく。
「すごい……」
光瑠は思わず息を呑んだ。
まるで星々が雨のように降り注いでいる。
百年に一度と呼ばれる理由がよく分かった。
流星は絶え間なく流れ続ける。
夜空はまるで巨大なキャンバスのように光で彩られ、辺りは昼間のように明るくなっていた。
しばらくの間、二人はただ星空を見上げていた。
不意に有理栖が口を開く。
「お兄ちゃん」
「ん?」
有理栖の横顔を見る。
流星群の光を受けたその瞳は、どこか潤んでいるように見えた。
「もし、お兄ちゃんと私が離れ離れになったら、お兄ちゃんは私のことを見つけにきてくれる?」
「有理栖?……どうしたんだよ急に。」
「もしも、だよ。」
光瑠は苦笑する。
「当然だろ。」
そう答えると、有理栖は少しだけ安心したように微笑んだ。
「どこにいたってお前のことを見つけに行くよ。」
「……うん……待ってる……。」
有理栖は夜空を見上げた。
その時だった。
光瑠の目に不可解な光景が映る。
一筋の流星が不規則に軌道を変えていた。
いや、一つだけではない。
二つ。
三つ。
十。
百?
それ以上だ……
光瑠の背筋を冷たいものが走った。
「有理栖、何かおかしい。ここを離れるぞ。」
有理栖はじっと不規則な動きの流星群を見つめている。
「星が……降ってくる……」
有理栖がそう呟いた。
次の瞬間。
風が止んだ。
草木の揺れる音も。
虫の鳴き声も。
遠くの街の喧騒さえも。
世界から音が失われる。
光瑠は思わず息を呑んだ。
流星群の光だけが夜空を埋め尽くしている。
いや。
違う。
光が近付いている。
夜空を流れていたはずの光が、真っ直ぐこちらへ向かってきていた。
「有理栖!」
光瑠は咄嗟に妹へ手を伸ばす。
有理栖もまた、光瑠へ手を伸ばしていた。
だが。
その指先が触れる寸前。
世界が白く染まった。
何も見えない。
目を閉じているのか、開いているのかさえ分からない。
ただ、眩しかった。
無限にも思える時間が流れた気がした。
あるいは一瞬だったのかもしれない。
やがて光は薄れ始める。
光瑠は恐る恐る目を開いた。
そこには何もなかった。
空も。
大地も。
星空も。
有理栖の姿さえも。
ただ果てしない闇だけが広がっている。
「有理栖……?」
声を出したつもりだった。
だが自分の声は聞こえない。
音が存在しない。
光瑠は自分の身体を見下ろす。
身体はある。
感覚もある。
それなのに現実感だけが欠けていた。
夢の中にいるような。
深い海の底へ沈んでいるような。
そんな奇妙な感覚。
再び有理栖の名を叫ぶ。
返事はない。
不意に、闇の中で何かが煌めいた。
小さな光だった。
それは次第に輪郭を持ち始める。
ガラス。
いや、違う。
宝石のような透明な結晶。
それらが幾重にも重なり合い、一枚の扉を形作っていく。
光瑠は息を呑んだ。
闇の中に浮かぶその扉は、夜空の星々を閉じ込めたように美しく輝いていた。
扉へ指先が触れた。
その瞬間。
「――辿れ」
声が聞こえた。
思わず振り返る。
誰もいない。
だが確かに聞こえた。
自分自身の声だった。
「星の記憶を辿れ」
「誰だ!」
返事はない。
声だけが続く。
「過去を知れ」
「現在を見ろ」
「そして――」
「未来を選べ」
声はそこで途切れた。
「未来を選べ」
その言葉だけが、胸の奥に焼き付いた。
闇が静寂を取り戻す。
光瑠は扉を見つめた。
意味は分からない。
星の記憶とは何なのか。
なぜ自分の声が聞こえたのか。
何一つ分からない。
だが。
「有理栖……」
拳を握る。
答えは一つだった。
この場所で唯一存在しているもの。
それが目の前の扉だ。
有理栖を見つける手掛かりがあるとしたら、その先しかない。
光瑠はゆっくりと扉へ手を伸ばした。
触れた瞬間。
プリズムの輝きが強まる。
扉の向こう側に無数の星々が広がった。
まるで宇宙そのものを切り取ったような光景。
そして。
扉がひとりでに開いた。
眩い光が溢れ出す。
光瑠は一度だけ振り返る。
そこには誰もいない。
果てしない闇だけが続いていた。
「待ってろ、有理栖。」
必ず見つけ出す。
どこにいたって。
光瑠は光の中へ足を踏み入れた。




