やっておしまいなさい(5)
ミリエッタは振り向いた。
いつの間にかあのエリザベートが隣に立っていた。
手には葡萄で作ったゲレープネクターのグラスを持っている。
エリザベートの視線は庭園の中央に向けられたままだ。
そこにはディードリヒがいて、熱っぽい視線の先にはヘレナがいる。
「特別な体験、二人だけの――ええ、人間は結びつくものですね、簡単に」
エリザベートがさらりと呟いた言葉が、ミリエッタの胸に重くのしかかった。
ミリエッタは言葉を返せなかった。
喉の奥がひりつく。
否定したいのに、目の前の光景がそれを許さない。
どう見てもディードリヒは……ヘレナを想い始めている。
エリザベートは、ほんの少し口元を緩めた。
「お気をつけあそばせ、ミリエッタ様」
優雅に、しかし逃げ場を与えない声音で続ける。
「秘密が二人を結びつける。ええ、先ほど申しましたように――特別な体験を共有したことで、人と人は結ばれるというじゃありませんか」
「そ、そんなっ! あんな小娘が、ディードリヒ様に!?」
ディードリヒがヘレナに執心し、興奮しているのは周囲の誰が見ても明らかだった。
「ええと、ご令嬢。先ほどは……」
「ああ、どうもありがとうございました」
「その、なんだ……名前は」
「え? なんですか?」
「な、名前だ」
「誰のです?」
「う、そ、そなたの……」
「ソナタ?」
あの堅物が頬を紅潮させて、熱心に口説こうとしてはもじもじしている。ヘレナには全く通じていないようだが……。
ミリエッタはふらりとよろけた。
エリザベートはその肩を支え、耳元で囁いた。
「かわいそうなミリエッタ様。ディードリヒ様はもう恋に落ちてしまわれましたわ」
「う……そ、そんな……」
ミリエッタの瞳から、うるうると涙が盛り上がる。
「ミリエッタ様。これに懲りて、もうわたくしの物に手を出さないとお約束くださいませ。ヘレナはもうわたくしの友人なのですわ」
「もしかして、あなたなの……? ディードリヒ様とあの娘を組ませたのは」
ミリエッタは息も絶え絶えになって、悔しげにエリザベートを見つめた。
「本当に貴方って……最低の悪女だわ……!」
「あら。その言葉、そっくりそのままミリエッタ様にお返しいたしますわ。それで、いかがなさいますか? お約束いただけて?」
「……どうせ、断ったらもっといけすかないことをしてくるんでしょう。もういいわ。あんな庶民になびくディードリヒ様なんて、小娘にくれてやるわよ! もう関わらないわ」
「壊したヘレナの私物は?」
「……弁償するわよ。すればいいんでしょうすれば」
「謝罪は?」
「……ああもう! うるさいわね! 謝ればいいんでしょう! 悪かったわよ! この後あの娘にも謝罪するわよ! それでいいでしょう」
「そうですか。安心しましたわ」
エリザベートはパッと距離をとった。
ミリエッタから一歩距離を取ると、そのまま何事もなかったかのように踵を返す。
「ああ、忘れていましたわ」
「え?」
パシャッ……。
「キャアッ!」
ミリエッタの悲鳴があがった。
エリザベートの手に入っていたグラスから、紫のグレープネクターが飛び散って、ミリエッタのピンクのドレスを汚していた。
「な、何をするのっ……あなた、わざと」
「あら。申し訳ありません、手が滑りましたわ」
「酷いわ! そんなわけないでしょう! ドレスが台無しじゃない」
「後日、ご自宅へ新品をお贈りいたしますわ」
「そういう問題じゃない! もう帰れってこと!?」
「ミリエッタ様、おわかりでしょう。自分の持ち物を台無しにされるのは辛いのですよ。これに懲りたら、もうゆめゆめ愚かな振る舞いはなさらないことね。そこの茂みに隠れているご令嬢方もおわかりですわね?」
クラリッサたち、ミリエッタの取り巻きがヒイッと声をあげた。
「あなたたちも、よくよく身の振り方を考えることね。もし良い加減なことをなさったら……」
じろり、と藪を見下げながらエリザベートは言い放った。
「ただじゃおきませんことよ」
「ヒエエエッ!」
「きゃあああっ」
「申し訳ありませんミリエッタ様!」
令嬢たちはドレスの裾に葉っぱをつけながら、退散していった。
ミリエッタはぎりぎりと唇を噛みしめて、エリザベートを見た。
「負け犬にはふさわしい格好ですわねぇ」
哀れむように、挑発するようにエリザベートは扇をひらひらとさせた。
「くっ……!」
「さっさとお帰りになったらよろしいわ。出口はあちらですわよ。わたくし、これからノア様と踊らなければならないので。それでは、ごきげんよう」
「ちょっと、まっ……キャッ」
ミリエッタのかすかな悲鳴が、喉の奥で潰れた。
ボキッとヒールが折れたのだ。
その瞬間、左足に痛みがはしった。
「最悪……」
自分が捻挫をしている間に、エリザベートは遠くでノアにエスコートされて、パーティーの主役になっている。
なんて惨めなんだろう。
自業自得そのものだった。
ミリエッタはじわりと浮かんだ涙をごしごしとこすった。
足を引きずって、ガーデンから出る。
その時だった。
「おや。お嬢さん、大丈夫ですか」
広い背。厚い胸板。年季の入った筋肉が、礼装の下でも隠しきれずに存在を主張している。
男は無駄のない動きで、ミリエッタの前に立った。
「怪我をされている」
低く、落ち着いた声。
その顔には、若さではなく、積み重ねてきた時間の重みがあった。鋭い目つきの奥に、冷静な判断と、戦場を知る者の余裕がある。
それは騎士団長、ゼファルディンだった。
ノア王子の護衛として来ていたはずの男。
「え……ええ」
声が、うまく出ない。
助けられた安堵と、圧倒的な存在感に、思考が止まる。
騎士団長は、ミリエッタを一瞥すると、ディードリヒをむんずと捕まえて戻って来た。
「おい、いつまで惚けている。私が離れている間、ノア様を見守っていろ」
それだけ言って、再びミリエッタへと向き直る。
「立てますか」
差し出された手は、大きく、硬い。
ミリエッタは、無意識にその手を取る。
触れた瞬間、心臓が跳ねた。
(……なに、これ)
先ほどまでの苛立ちも、嫉妬も、全部どうでもよくなる。
ただ、この男の存在だけが、やけに鮮明だった。
「大丈夫、です……」
声が、妙にか細くなる。
そんな自分に、ミリエッタ自身が一番驚いていた。
年齢差など、明らかだった。
自分の父親ほどに年上。
それなのに。
「キャッ!」
「すみませんね、こんなオヤジが触れてしまって。馬車まで運びますので、少し我慢してくださいね」
「えっえっえっ」
いわゆる、お姫様だっこというやつだ。
ミリエッタはまじまじとゼファルディンを見た。
確かにオヤジである。
が、恋多き令嬢ミリエッタの瞳には、この時大いなる補正がかかっていた。
(か、かっこいい……!)
一方、騎士団長ゼファルディンは、密かに眉をひそめていた。
(……やけに見られるな?)
戦場でも見たことのない種類の視線だ。
しかし、とにかくこのネクターまみれで捻挫をした哀れな令嬢を会場の外の馬車に送り届けなければならない。
おそらく、ガーデンパーティーの治安を守るというのはそういうことではないか。
久々にパーティーなるものの護衛に参加した、騎士団長ゼファルディン。
彼は結婚歴があったものの、激務のために愛想を尽かされ、長い間、独身であった。だから気付くのが遅れた。一回り以上も年の離れた娘が、自分に送る眼差しが徐々に熱っぽくなっていっていることに――。
それらの光景を、エリザベートはとっくりと眺めていた。
ガーデンの中央で第二王子と腕を組みながら、ゆっくりと息を吐く。
「……上出来ですわね」
エリザベートは小さく呟いた。
狙い通りだ。
これで、ミリエッタはしばらくヘレナに構っている余裕はないだろう。
「君のためにやったこと、全部うまくいったようだね」
「ありがとうございます」
「野ウサギのヘレナ嬢は、動くものなら斬りたくなる剣狂いのディードリヒに。恋多き女性のミリエッタ嬢には、男やもめのゼファルディンか。全くよく思いついたもんだ」
「何のことでしょう。わたくしはただ、ノア様に『騎士団で最も力の強い方にヘレナと踊ってやってほしい』とお頼みしただけですわ。ヘレナのように激しく動く女性を受け止めるには力が必要ですから」
ノアは肩をすくめた。
「それだけ? 冷たいなあ。もう少しこう、感謝とかないの?」
「王族に献上できるようなものがあるのならば、いいのですけれど」
「なるほど。じゃあ褒美をもらえるわけだ」
くすり、と楽しげに笑う。
「何にしようかな……」
一歩、距離を詰める。
ふと鼻先が合いそうなほどに近付き、エリザベートの顔を覗き込むようにして――。
「ああっ! そんな冷たい目で見るなんて! ハアッ」
わざとらしく胸を押さえた。
エリザベートは、無言で視線を逸らす。
「ご冗談がお好きですのね」
さらりと言ってのけるあたり、やはり質が悪い。
だが、エリザベートはそれ以上取り合わなかった。
視線を庭園へ戻す。
年若い令嬢ミリエッタが、年上の騎士団長に不器用な視線を送り続けている。
そして別の場所では、大柄な副団長が、まったく脈のない少女に必死に言葉をかけている。
どちらも滑稽だ。
そして、どちらもどうしようもなく、人間らしい。
エリザベートは、わずかに口元を緩めた。
「……さて」
この場で最も自由に振る舞い、最も他人を動かした令嬢は、誰よりも悪役らしい高飛車な表情をして王子の手をとった。
「ベ……ベティ?」
「わたくしも練習してきたのですよ」
「ダンスを?」
「それ以外に何があるのです? わたくしと一曲踊ってくださいますね」
「ハアッ……ああ、でも今のベティ最高だな、心の羊皮紙に焼き付けたいからもう一回言って」
「お嫌ならよろしいですわ」
「嫌なわけないよ、ベティ! だけど僕はディードリヒみたいに君を投げ上げることはできないし、普通のワルツだけど……大丈夫?」
「ええ、もちろんですわノア様。どうしてわたくしがダンスをお誘いしたか理解されていまして?」
曲が流れる。
ワルツのステップを踏みながら、ノア王子は幸福そうに、
「一応これは王族主催のガーデンパーティーだから。僕が踊らなくてはね。義務だろう?」
「……」
「え? じゃあ、何……ああ、まさか、僕と手をつなぎたかったとか? わあ、ベティがそんなに僕を想ってくれていたなんて嬉しいなあ」
ノアはふと顔をあげ、硬直した。
反論しないエリザベートは耳を真っ赤にさせてこちらを睨んでいた。
「は……」
第二王子ノアは動揺のあまり、産まれて初めてステップを間違えた。
「まあ。初歩の初歩のワルツのステップをお間違いになるなんて……」
「ちょっと、今のは君が悪いだろう、ベティ!」
高飛車にふふんと笑ってごまかしながら、ステップを間違われたことは二人だけの秘密にしておこう、とエリザベートは思ったのだった。
どうやら二人だけの体験があるほうが、男女の絆は深まるようだから。
END




