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「だから僕はフミと出会うためだったんだって思ったら、この傷のことも乗り越えられそうな気がするし、たぶん今が幸せだから他人が思うほど自分のことを可哀そうだとか、思わないんだ」
テーブルの上に投げ出して醜い傷跡を晒していた左腕の袖を下ろす。マリアの瞳は涙で揺れていた。
「ごめん、驚かせたかったわけじゃないんだけどさ……」
「違うの」
マリアは大きく首を横に振ってから、両手で顔を覆った。
「違うの、ほんとに……」
「だからさ、マリア。僕もフミもあの頃本気で死んだほうがマシだって思っとったけど、ふとしたことがきっかけで思い留まって今まで生きてこれた。これからどんなことがあるかわかんないし、もしかしたらまた死にたいって思うような日々が来るかもしれん。でも少なくとも今はあの頃より幸せ」
隣の席の二人組の若い女性がちらちらとこちらの様子を伺っている。傍から見れば喧嘩か別れ話をするカップルのようにでも映るのだろうか。
「今とここしかないわけじゃない。今は辛くてもいつかマシになるときが来るかもしれない。歳を重ねれば見え方とか感じ方も変わるしさ。それにもっとどっかここより生きやすい場所があるかもしれない。日本人として生まれたからって全員が全員日本での暮らしが合うわけでもないと思うしね」
僕のことばは、今苦しみの真っ只中にいる人には空々しく聞こえるかもしれない。綺麗ごとばかりを並べていると言われるかもしれない。だけどこれは紛れもなく、僕が歩んできた人生のなかで見つけた一つの答えだった。悲しい今だけが全てじゃない。
「それこそマリアはさ、長い間アメリカに住んでたわけだし英語もペラペラだしさ、向こうに戻るっていうのも一つの手じゃん。あっちだったら州によっては結婚もできるわけだしさ」
マリアは俯いたきり黙り込んでしまった。すっかり冷めたコーヒーに手を伸ばす。そういえばおかわり自由って書いてあったような気がしたけれど、店員に声を掛けてみようか。
「……じゃああたしがアメリカに行くって言ったら、アキも付いてきてくれる?」
マリアが顔を上げて、しっかりと目が合った。僕は少しだけ微笑む。マリアも目じりに笑みを滲ませた。
そしてその優しい表情のまま左手の指輪をそっと外す。
氷が溶けて炭酸も抜けたぬるいジンジャーエールのなかに、指輪を落とした。
深く息を吐くと、
「そろそろ出よっか」
とだけ言って伝票を持ってさっさと言ってしまった。こんなときですら呆れるほどにマリアはかっこよかった。飲みかけのドリンクのなかに思い出の指輪を捨てて去っていくなんて、他に誰が思いつくだろう。思わず浮かんだ笑みをそのままに急いでマリアの後を追いかけた。
「お会計……」
「いいよ。今日はあたしが奢ってあげる」
「……ありがとう」
「そう。素直でいるのが一番良いよ」
「なんだそれ」
僕たちはいつものように笑いあった。
温かい店内から出ると一層寒さが身に染みて、寄り添うようにして冬空の下を歩く。髪で横顔が隠れたマリアが鼻を啜る音がした。
「あー……。アキと友だちになれてほんとに良かった」
「そう? それは良かった」
「アキ、絶対これから素敵な人に出会えるよ」
一瞬そのことばの意味を吟味したけれど、不思議と前のようには胸は痛まなかった。
「……そのことばそっくりそのままマリアに返すわ」
「うん、ありがと」
もう一度鼻を啜ってこっちを向いたマリアの鼻も目元も、明かりの少ない夜のなかでもわかるくらいに赤くなっていた。僕は彼女の冷たい手をぎゅっと握る。僕の体温で少しでも温められるように。
生きていれば、いつかきっと。
隣で震えるマリアに聞こえるように、心の中で囁いた。




