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一瞬の沈黙のあと、女子たちから悲鳴が上がった。


僕は不思議と痛みも感じず、ただただ冷静に教室の様子を観察していた。いつも僕に嫌がらせをしていたクラスメイトたちは顔を真っ白にして目にいっぱい涙を貯めていた。


騒動を聞きつけた他のクラスの先生が教室に飛び込んでくるまで、誰一人としてまるで足を釘で撃たれたかのように身動きを取れなかった。


他の先生だったか保健室の先生だったかに布で肘を縛られ、傷口をぎゅっと抑えられながら教室から出ていくまで、僕はクラスメイトたちから一切目を離さなかった。


そのまま救急車に乗せられて病院まで連れていかれた。傷口を縫われることになっても、周りの大人たちの慌てようほど痛みは感じていなかった。


付き添いで来ていた保健室のおばさんと他の先生たちが、家に連絡しないと、という話をしているのを耳にして僕は慌てた。


「待って。別の人に電話してください。お母さんには言わないで」


不思議そうな顔をする大人たちにフミノリの名前と携帯の番号を伝えると、誰なのか聞かれた。僕はどう説明していいのかわからずに、口籠っていた。


左腕の処置が終わると、服を脱ぐように言われて全身の傷を見られた。クラスメイトたちによって付けられたものもあれば、母親に負わされたものもある。


その無数の傷跡を見て、大人たちは更に慌てたようだった。病室のベッドに寝かされている間に医師や看護師や教師たち以外にも様々な大人たちが僕を訪ねてきた。


もちろんフミノリは入院期間中に何度も病室に足を運んできてくれた。僕や僕の親の代わりに関係者にいろんな話をしていてくれたのも彼だと思う。


病院からの一報を受けて飛んできてくれたフミノリは病室のドアを勢いよく開けると、戸惑う看護師たちには目もくれずそのままずかずかとベッドの脇までやってきた。僕は単純にフミノリが来てくれたことが嬉しくて、明るい声で名前を呼んだ。


「……良かった」


見上げた先の目に涙が滲んでいるのを見つけて激しく胸が痛んだ。クラスメイト達の間で初めて主張をできた自分を半ば誇りに感じていたけれど、急に間違ったことをしたのではないかと不安になった。


「力を見せつけろって言いはしたけど、まさかこんなことするとは思わんかったよ。やっぱアキは凄いわ」


そう言って大きくて暖かい手で頭を力強く撫でられた。


今思えば腕の治療がきっかけで母親からも暴力を受けていたことが発覚したのだと思う。

数日間の入院生活を経たのち、僕は小学校を転校し児童福祉施設に入ることになった。施設での生活は穏やかだった。他の子どもたちの事情はよくわからなかったけれど、殴られたり怒鳴られたりしない日々を初めて経験した。


それから中学へ入学するタイミングで、フミノリに引き取られることになった。フミノリは独り身だったし、僕が孤児じゃなくて虐待を受けていた児童だったせいで手続きがややこしくなり時間が掛ったけれど、それは僕が病院へ搬送された日からフミノリが約束していてくれたことだった。


フミノリの家は都心から少し離れたところにあるまだ新しい一軒家だった。なんどか訪れたことがあるその家のダイニングテーブルの上に写真立てと水の入ったコップが置いてあるのを知っていたけれど、何も聞けずにいた。


だから一緒に暮らし始めたその日の晩に勇気を出して聞いた。家族になるのだから僕もフミノリのことをちゃんと知っておきたいと思ったのだ。いざ尋ねるとフミノリは一瞬だけ驚いた様子で、それから寂し気に笑った。


「俺、実は結婚してんだよ」


それを聞いてなんとなく寂しくなった。僕の家族はフミノリしかいないのだから、フミノリにとっての家族も僕だけだったら良かったのにと思った。


「これが俺の奥さん。由紀」


写真立てを手に取って、僕のほうへ向ける。


「死んだんだ。三年前。アキと会う前に」

「え?」


聞き返しながら写真立ての中で満開の笑みを見せる女性と目の前のフミノリの顔とを交互に見比べた。


「車を運転しとって事故に遭った。お腹に子どももおったけど、二人とも助からんかった」


フミノリが淹れてくれたホットコーヒーから暖かい湯気が立ち上って視界を曇らせて、表情を判別するのを難しくする。


「ちょうどその頃仕事も上手くいかんくてさ、そんなときに二人揃って死んでまってさ、ものすごく参ってた。夜も眠れんし誰にも会いたくないし、泣いてばっかりおったわ。ツレに励まされても全然効かんかったしな。あの頃は」


フミノリが写真立てを自分のほうに向けて、愛おしそうに見つめた。


「初めてあの踏切でアキに会ったとき、本当は俺も死のうとしとった。死ぬつもりであそこまで行ったんだ。……でもアキが遮断機を潜ろうとしてるとこを見て、自分の男の子だったのか女の子だったのかさえも知らん子どもと被ってさ、思わず止めた」


ふと涙が喉元まで迫っていることに気が付いた。もしもあのとき死のうとしていなければフミノリが代わりに死んでいたかもしれないと思うと、氷の上に立っているような心もとなさを感じた。


「だからあのとき本当に助けられたのは俺のほうなんだよ、アキ」


そんなことはない、とことばにすることはできなかった。胸が痛くて身動きすら取れなかった。


「こんな可哀そうな子を放っておけない。なんとかしてやりたいって思ったし、俺しかアキを護ってやれるやつはいないんだって思ったら、……こう生きる活力みたいなもんを取り戻せてさ。お前を傷つける環境から救ってやりたいって最初から思っとったからそれを叶えられるように仕事にも復帰してさ。……本当に今思えば全部アキのおかげだわ」


そう言ってフミノリは一粒だけ涙を流した。その涙が机に落ちた瞬間、僕が僕自身にかけていた呪いが解けた。哀しみも傷も消えないけれど、それらが全て過去に変わった。


 フミノリの家にはたくさんの本があった。奥さんが読書家であり、亡くなった後も捨てられずに取っておいたらしい。フミノリの仕事が忙しくてなかなか帰ってこられないときは読書をして過ごすことが多くなった。感想を伝えるといつも楽しそうに最後まで聞いてくれた。


「由紀もそうやってどこが面白かった、とかあそこはありえんとか教えてくれたんだよな」


俺は全く本は読めんのだけど、と繰り返しながら。


実の親子じゃないせいか、それともそれほど歳が離れていなかったせいなのか、僕はフミノリに対して反抗心を覚えたことがほとんどなかった。休みの日に二人で出かけることも多かったし、フミノリは僕をいろんな場所へ連れて行ってくれた。


フミノリと家族になってからの日々はとても穏やかで温かくて安らぎに満たされていた。


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