37
ジンのバンドのお披露目ライヴは圧巻だった。少なくとも僕らの目にはそう映った。去年の夏に初めてキーボードを演奏する姿を見てから、ずっとバンドを組めば良いのにと思っていた。だけどジンは人懐こそうに見えて、どこか他人との間に壁を作るような雰囲気があって、音楽はその壁の内側にあるようだったから、触れられずにいた。
だから冬休みが始まる直前に四人で集まったときに、バンドをやることになったと告げられたときは驚きよりも喜びのほうが大きかった。きっとジンの音楽を聴きたいと思う人は僕の他にもいるような気がしたし、一人で抱えているにはもったいない才能だった。
ジンは知らない間に大学の軽音部に入部していた。基本的にどのサークルも部活も入学と同時に入るものだから異例ではあるけれど、彼の腕と情熱ならすぐに他の部員たちにも認められたのではないかと思う。
僕とマリアはよく軽音部が借りているスタジオに遊びに行っては、新しいバンドの練習を見学していた。初めこそ邦楽はよくわからないと言っていたマリアだったけれど、すぐに普段とは纏う空気が変わるジンの姿に魅了されたらしい。楽しそうに音楽に合わせて身体を揺らす彼女を見ていると、僕のほうが救われるような心地がした。
狭いライヴハウスに集まったのは、軽音部を始めとするうちと他所の大学の音楽関係の部活やサークルのメンバーがほとんどを占めていたけれど、それでもジンたちのバンドが一番大きな歓声を浴びていたような気がする。身内贔屓じゃないはずだ。たぶん。
She has gone somewhereというのがジンたちのバンド名で、ギタリスト兼ボーカリスト、キーボーディスト、ベーシスト、ドラマーの四人編成だった。ボーカリストもレフウィルが好きで、ライヴではコピーした曲を演奏していた。
「ありがとうございました! She has gone somewhere……って長いけど、覚えづらいけど、なにとぞこれからもご贔屓にー!」
最後の演奏が終わって歓声と拍手とときどき口笛までが響く会場で、マッシュルームヘアのボーカリストが陽気に叫んで、メンバーたちがステージから捌けていった。
この後もライヴは続くけれど、お目当てを見終えたところで僕とマリアはライヴハウスを出ることにした。ジンにはラインか、今度会ったときに直接感想を伝えよう。
薄っすら汗ばんでいたせいで、外に出ると北風が凶器のように感じられた。今週は水曜日までテストがあって、今日はテストおつかれさまプチフェスだったのだ。
明日から二月だ。真冬だ。時計を見ると八時半で、どこかで夕食を摂ることにした。地下鉄で移動して、営業時間が長いカフェを選んで入った。
店内は空調が効いていて、凍った身体が少しずつ解れていくのを感じた。
「ライヴ、良かったねー」
マリアからそう言い出したことに少し驚きつつも、同意した。
「他のバンドよりも絶対にシーハズが良かったって」
以前にマリアがバンドの正式名称を口にしていたときに、あまりに発音が綺麗すぎてバンドメンバーと一緒に思わず笑ってしまい、彼女がむくれたことがあった。それ以来マリアはシーハズと日本っぽい略称で呼んでいる。
店員さんが出してくれた温かいおしぼりで手を拭いて、メニュー票を捲る。
「なんでもいいから温まるものが食べたい」
「ほんとそれ」
マリアはビーフストロガノフを、僕はパスタとスープのセットを頼んだ。
出来立ての暖かい料理によって身体の内側からも熱が広がっていく。代わりにさっきまでの興奮が少しずつ冷めていって、程よい疲れと楽しかったという感想だけが濾されて残る。
「それにしてもジンって演奏してるときは本当に楽しそうな顔するよね」
マリアがスプーンでビーフストロガノフを口に運びながら言う。
「楽しそうって言うか活き活きしてる」
「それだけ音楽が好きってことでしょ」
「でもそんなに音楽が好きであれだけ楽器ができるなら、どうして今までバンドとかやらなかったんだろうって。ちょっと不思議じゃない?」
「そうだよね」
もう少し今のバンドが軌道に乗ったらそれとなく聞いてみようか。春が来たらジンだけじゃなくて皆とも出会って一年が経つことになる。自分自身が彼らに打ち明けていないこともあるし、彼らだってそうだろう。その見えない部分を寂しく思うこともあるけれど、大学生の友人関係なんてそんなものかと諦観している。だけど一歩踏み込んでみるのも良いのかもしれない。
「いいなー。ジンは。夢中になれるものがあって」
マリアの疲れた声が、店内に掛かる明るい音楽と周りの客たちの上機嫌な話し声にかき消されそうになりながら、僕の元まで届いた。
「え?」
さっきまでの笑顔とあまりにもトーンが違ったからつい聞き返してしまった。
「これだってものがあったら、その他の部分でどれだけ傷ついても大丈夫だって気がしない?」
マリアは目を伏せて続けた。
「あたしは別に好きなことも夢中になれることもないし、ただなんとなく毎日ヘラヘラしてるだけでさ。ジンだけじゃなくて、アサコもボランティアとか留学とかいろいろ頑張ってるし、……ときどき何やってるんだろうって思うときがあるんだよね」
「そんなん僕だって」
「違うよ。アキは全然違う」
「なにが?」
「中途半端なことをしないから。……あたしと違って」
力のないそのことばが何を指しているのか、分かるような気がする。恋人が浮気しているかもしれないと泣いてからも、マリアの左手にはシルバーリングが光っている。
どうしてそこまで何度も深く傷つけられているのに離れようとしないのだろうとずっと疑問に思っていたけれど、今なら理解してあげられる気がする。
僕だって振り向いてくれることがないと分かっていながら、今でもマリアのことを想い続けている。
「あたしにもこれさえあればってものがあったらな。これのためなら努力するしどんな困難にも耐えてみせるって強く思えるぐらいのものがあれば、こんなに迷ったりしないのにな。……人に依存するとか、最悪じゃん」
いつも明るくて溌剌としているように見えていたマリアは、僕が告白をしたあの日から、こうして弱音を吐くことも多くなった。そんな水面下の姿を見せられても幻滅するどころか、より一層愛おしく思える一方でどうにかして護ってやりたいと、励ましたいと思えてくるのだから手の施しようがない。
「そっちのほうの事情は分からんけど、マリアならすぐ良い人が見つかると思うけどな」
「そんな簡単にはいかないよ……」
店員が食後に頼んでおいたデザートとドリンクを持ってきて、僕たちは話を中断して軽く頭を下げた。僕の元へはプリンとホットコーヒー、マリアの元へはガトーショコラとジンジャエールが届いた。
「さっきも思ったけどそれ、組み合わせ悪くない?」
「大丈夫だよ。さっき店員さんに聞いたら辛口だって言ってたし」
「何が?」
「ジンジャエールが」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
ビターでしっとりしたチョコレートのケーキとしゅわしゅわして甘いジンジャエールが合うとは到底思えない。コーヒーや紅茶のほうがよっぽどガトーショコラを美味しく食べられるのに、という思いをよそにマリアは細いフォークをケーキに刺した。
「うん、美味しい」
それでもさっきまで悲しげに俯いていた彼女が幸せそうな笑みを頬に載せるのだから、信じられない食べ合わせをされたってどうでもよくなる。
しばしの間嬉しそうにケーキを頬張る姿を眺めていた。自分が頼んだプリンの味なんてほとんどわからなかった。
食事が落ち着いた頃合いを見計らって、一つ大きな深呼吸をした。
マリアにも打ち明けておこうと、今日のライヴを見ながら決心した。目の前で生み出される生の音楽に背を押された。
「僕、昔実の親に虐待されてたんだよね」
マリアの不安を少しでも払うためなら、自分が負った最も深い傷を差し出しても構わないと、本気でそう思えた。




