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夏休みが暇なのは、アキも同じだった。マリアは家族でヨーロッパ周遊旅行に出たし、アサコはボランティアでカンボジアの孤児院に派遣されている。
アキはほとんど毎日バイトのシフトを入れて、空いた日はジンの部屋に入り浸ってり、とくに何をするでもなく、大抵飲むか映画を見るかしていた。
いつものように音楽が流れる部屋で缶チューハイを片手に、ラップトップをいじっていたときだった。
隣で雑誌を捲っていたアキが掛かっている曲に合わせてリズムを取っていた。そしてサビになると鼻歌交じりに口ずさみはじめた。
それはレフウィルのあの曲だった。
高校時代から今までずっと好きで繰り返し聞いていた曲だった。
アキの適当な歌は決して上手いわけでも、声が良いわけでもない。
だけど何故だかその曲を口ずさむアキから目を離せなくなった。ジンのその視線に気が付いたアキが、その瞬間に初めて自分が歌っていたことを自覚したように、戸惑った表情をした。
「やべー、音痴なのについ歌ってた」
聞かれていたことがよほど恥ずかしいのか、耳まで赤く染めて目を反らす。
「別にそんなこと関係なくね? 鼻歌ぐらい……」
「まじで音痴だから自分の家でしか歌わんようにしてたのに」
そもそも少人数でカラオケに行くことはなかったし、確かに大勢で行くときにはアキは絶対にマイクを持とうとしていなかった。だから鼻歌といえどもアキが歌うのを聞くのはこれが正真正銘の初めてだった。
「ジンの家でずっとこの曲聞いてたから、なんかもう覚えちゃったわ。普通に良いから自分でダウンロードしたし」
「え、まじ?」
「あれ、言ってなかったっけ? この曲が入ってるアルバムダウンロードしたって」
「言われてないけど」
「そうだっけ。でもまじ良いよなー。僕、この曲が一番好きだわ。たぶん」
自分が好きなものは自分だけがその良さを分かっていればそれでいいと思っていた。自分が抱くこの好きということばでは到底表しきれない感情を、誰かと共有できるわけなんてないと思っていた。
そうなのかもしれないけれど、だけど。
好きなものはやっぱり好きだ。どれだけ拒絶されても、求めることを完全にやめるなんてできない。
ふっと笑いが零れる。それとともに肩から力が抜けた。
自分の弱さや中身が空っぽなことに気づかれるのが怖くて、いくつもの防衛線を張って取り繕っていた。好きなものを否定することで、自分から遠ざけることで傷つくことを避けていた。
「俺もこの曲めっちゃ好き。高校時代とかひたすらコピーしてたしな」
「え、まじで? ちょっと弾いてみてよ。ジンがギター弾いてるとことかめっちゃ見てみたいわ。似合いそう」
「ギターもできるけどさ」
部屋の片隅で今も堂々と黒と白の光を放つキーボードに視線を向ける。いつでもかかってこい、とずっと言われているような気がしていた。
「レフウィルに関してはキーボードのほうが好き」
コンセントを刺してスイッチを入れると、一瞬だけざらついた音がした。最後に弾いた日の感情が、そのまま閉じ込められていたようだ。それが解放された。
空気中を漂うあの頃のやるせなさとか閉塞感だとか、未来への不安だとかを、今なら少しだけ上手く受け止めてやれるような気がする。
アイフォンの一時停止ボタンを押す。
ギターもベースもドラムもヴォーカルも無い。キーボードの音だけ。演奏するのは自分ひとりだけ。だけど目を輝かせて聞いてくれる人が目の前にいる。それだけでいい。
どうしてあの頃は、そうは思えなかったのだろうか。
指を動かす。多少思い通りに運べない部分はあっても、それでもやっぱり覚えていた。
自分の生きたいように生きるという選択肢があることを初めて教えてくれた曲のことを。
なんだかんだと言いながら、結局は父親に認められたいと願っていた。自分らしい姿を見てほしかったのに、ピアノの発表会には一度も来てくれなかった。父が求めていたのは、医者になって自分が示したように歩む息子だけだった。
でもこうなってしまったら、もういっそとことん嫌われてでも自分の生きたいように生きるしかないじゃないか。




