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二週間に及ぶ長い試験期間が終わった。結局一夜漬けになった科目が多かったし、間に挟まれた土日はレポートとバイトに追われていたせいでほとんど満足に寝られていなかった。それでも最終日の夜は学科単位で開催された打ち上げに参加して、なんだかんだで飲み屋二軒とカラオケをはしごして、朝八時に部屋に辿り着くとそのままベッドに倒れこんだ。
目を覚ますと部屋は真っ暗で、カーテンを閉め忘れた窓から他所の明かりが忍び込んでいた。時間を確認しようとしたけれど、スマホはバックパックのなかで息絶えていた。
身体を起こすことさえ怠くて、やらなくてはいけないことの優先順位をぼんやりと考えた。そうしていると再び眠気が泥水となって、服の隙間から侵入してきて素肌を包み始めた。その生暖かさに甘えるのも魅力的だったけれど、このまま眠れば寝起きの悪さは確実だろう。少しずつ重たい頭もクリアになってきたし、そうなるとシャワーを浴びてない身体でベッドにいることが急に不快に思えてくる。
その居心地の悪さに背を押されて、ベッドから降りる。スマホを充電器に繋いでカーテンを閉めて部屋の明かりを付けて、グラスに冷たい水を注いで一気に飲み干した。酒を飲んで騒ぎ倒した身体は想像以上に水分を必要としていたらしい。続けてもう一杯飲んだ。生き返るような感覚があったけれど、ここで和んでしまえばまた風呂に入るのが億劫になる。グラスをシンクに置いて、その足でシャワーを浴びた。
汗を洗い流してさっぱりすると、やっと見えている世界が現実味を取り戻した。生き返ったスマホを確認すると二十三時半だった。英米のグループラインが、ありがとうとか楽しかったとかいうメッセージと写真とで溢れている。とくに個人的な連絡があったわけでもないからそのまま閉じて、シャッフルで音楽を流した。
期末考査が終わったことで、春学期も終わったことになる。つまり今日から九月の第一週までは長い長い夏休みなのだ。
大学へ行くという煩わしさからしばしの間解放されるということにほんの少しの安堵は感じたものの、それ以上の喜びなどはとくに無かった。
いつものメンバーとちょくちょく遊んだり遠出をしたりする約束はしていたけれど、それ以外はバイトぐらいしか予定はない。下宿組は実家へ帰るという人もいたけれど、到底そんな気持ちにはなれなかった。例え東京に帰ることがあったとしても、あの家には帰ることはないだろう。
でも確かにこんなにも時間があるのなら、地元の友だちに会うのもいいかもしれない。
そんなことを考えていたものだから、それから約一週間後に高校時代の友だちから久しぶりに連絡が来たときは素直に嬉しかった。
ラストまでのバイトが終わって、着替えを終えてスマホを確認すると高校三年間ずっと同じクラスで今は国立大学の医学部に通うタクマから、久しぶり、とラインが入っていた。
久しぶり。どうした?
と打ち込みながらバイト先を出ると、すぐに電話が掛かってきた。自転車を押しながらイヤフォンを耳に点けて電話に出る。
「久しぶり。ジン、元気?」
長時間労働から解放された清々しさと四か月ぶりに聞く懐かしい友人の声に、思わず声が弾む。
「まー、なんとか。そっちは?」
「俺は元気。やっとテストも終わったしなー」
「そっか。タクマ国立だから長いのか」
「そうそう。そのぶん秋学期が始まるのも遅いからまあいいんだけどね」
逃げたい一心で飛び出してきた故郷だけれど、こうして変わらず話ができる友人がいることを思えば、たまには帰ってみても良いのかもしれない。
「てかジンさー、こっち戻ってくる予定ないの?」
「んー、どうしよっかなーって思ってるとこ」
「たまには帰ってこればいいじゃん。名古屋とか、毎日何してんの?」
「お前馬鹿にしてるだろ。名古屋もそれなりにいろいろあるよ」
「遊んでんの?」
「勉強とバイトばっかりの真面目な毎日だよ」
「そっか……」
数か月ぶりの連絡で、話そうと思えば話すことなんていくらでもあるはずなのに不意に訪れたその沈黙に、何か良くないことが起こることを直感した。胸に沈んでいく嫌な予感を吐き出すように息をした。
「まあとりあえずさ、帰ってこいって。たまには。家に帰るのが嫌だったら俺ん家泊まればいいしさ。皆ジンに会いたがってるよ」
「ああ、うん、考えとくよ」
「あのさ……」
名古屋の夏は夜になっても身体中に纏わりつくような暑さが残って、不快だ。
「……最近カナコちゃんとどうなの?」
それを聞いた瞬間、最初からタクマはこれが聞きたかっただけだったのだと悟った。カナコは高校時代に告白されてから、今まで一応付き合っているということになっている彼女のことだ。と言っても卒業式以来一度も会っていないどころか連絡さえしていないのだから、世間的に見れば自然消滅した、とでも言うべきなのかもしれないが。
「全然会ってないけど。……なんで?」
「いや、……なんかさ」
カナコに関する何かが起こったことはもう確実なのに、ここまで来て言葉を濁して誤魔化そうとする友人に苛立った。曖昧されなくてはいけないほど、彼女のことで自分が傷つくとでも思われているのか。
「なんかってなに?」
自分でも声色が変わるのがわかったし、電話口でタクマが頼りない声で「いや」とか「えーっと」と繰り返した。
「言うべきかどうか迷ったんだけどさ」
溜息の音が聞こえた。
「この前同じ学部の先輩たちが合コン行ったーって話しててさ、なんとなく写真見せてもらったらカナコちゃんが写っててさ……」
耳鳴りがした。隣でいかに自分を可愛らしく見せるかに執念を燃やしていた少女のことを思い描く。好きな服を着てあの頃よりももっと自由に自分を飾れるようになった彼女が、男たちの前で甘い香りのする笑顔を浮かべる姿が容易に想像できた。
タクマは多くを話すことで一言一言の衝撃を軽くするかのように喋り続けている。
「似てる子かと思ったけど、そうじゃないっぽいし。先輩の一人が気に入ったっぽくて連絡取ったり結構会ったりしてるみたいだからさ、お前らどうなってんのかなって思って」
「そっか」
「やっぱり東京と愛知じゃ遠いし、なかなか会えないし、ジンも忙しいのは分かるけどもうちょっとなんつーか……、構ってあげないとカナコちゃんも寂しいんじゃねえの?」
「……そんなんじゃねえよ」
気が付いたらそう口にした。言い方に棘を感じたのか、タクマの語気が荒くなる。腹を立てているのだろうということは伝わってきたけれど、何を言っているのかはわからない。
だけど、そんなんじゃない。カナコはただ構ってもらえなくて寂しいから合コンに参加したわけじゃない。自分の彼氏が地方の私立文系大学に通っているから。医者になる可能性がほとんど無くなったから。モデルを辞めたから。だから医者の卵との出会いを求めたのだ。
そんなことくらいなら、タクマよりジンのほうが分かっている。
「……ごめん。タクマ、ちょっとびっくりしてさ」
しゅんとして見せれば、タクマの声には途端に同情だとか憐憫が混じっていく。
「ごめん、俺も怒りたかったわけじゃなくて。お前らお似合いだったから、心配でさ」
一刻も早く電話を切りたくて仕方がなかった。頭の中でピアノの音が鳴りだす。
「ちょっと落ち着いたらまた連絡するわ。とりあえず夏休み中、一回ぐらい東京帰るよ」
「ああ。連絡待ってる」
「じゃあ」
電話が切れると、深夜零時を回った高級住宅街は驚くほどに静かだった。大きく息を吸って吐くと、その音が響くほどだ。押している自転車のハンドルから手を離してみたくなる。支えを失って倒れる音なんていくらでも想像できるのに、それでも聞いてみたくなる。
音を発さないイヤホンで耳を塞いで、立ちすくむ。どこへ歩いていけばいいのかもわからなくなる。
そうか。カナコが。
別に好きだったわけじゃない。告白されたからなんとなく付き合っていただけだし、大学生になってからはまともに連絡さえ取っていなかったのだから、新しい相手を探していたって不思議じゃない。
だけどカナコだって別に俺自身に恋をしていたわけじゃない。初めから進学校に通い医学部を目指すそれなりの見た目をしている男だったら誰でも良かったのだ。
いつだってそうだ。人が求めるのは、医者を目指しいずれはその夢を叶えるジンだったのだ。
だとすれば今の自分を、一体誰が必要としてくれるのだろうか。
自分さえ、自分を必要だと思えないのに。




