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生まれてから一度も自分のことを好きになったことがない。
父親は医者で、一番上の兄も医者で、二番目の兄は薬剤師を目指して薬学部に在籍している。母親は元国際線のキャビンアテンダントで、三人息子を育てながら、医者の夫を支えながらも自分の身だしなみを疎かにすることは決してなかった。
幼いころから様々な習い事をさせられた。塾に通うのは当たり前で、サッカーをやったり水泳をやったり絵を書いたり英語を習ったりしていたせいで、小学校の授業が終わっても夜まで自由な時間が無かった記憶がある。どれもそれなりにできたけれど、何もかもあんまり好きじゃなかった。だけど父や母が望むから、二人の兄もそれをこなしてきたのだから、自分にノーという権利は無いと子供のころから理解していたような気がする。
唯一楽しみながら習っていたことといえば、ピアノだった。父親は男児にピアノなんて必要ないという考えだったみたいだが、母親が反対を押し切ってなんとか三人目でようやくピアノ教室に通わせることができたらしい。母もピアノが趣味で子供の頃にコンクールで入賞した経歴を持っているくらいだったから、家にはグランドピアノがあって、それを弾いていた。それだけが楽しかった。
だから他の習い事は小学校を卒業すると同時に辞めたけれど、ピアノだけは高校受験に向けて学校と塾に半ば監禁されるようになるまでは通い続けていたし、教室を辞めた後も時間を見つけては弾いていた。
高校に入学して、本格的に音楽に惹かれるようになった。She Left a Will。通称レフウィルという四人組のバンドに出会ったのもそのころだ。ギタリスト、ベーシスト、ドラマーがいてヴォーカルがキーボードも兼任していた。当時流行っていたメジャーバンドの記事が掲載された雑誌を立ち読みしていたときに、これから注目のバンドとして紹介されていたのを偶然見かけたのだ。
ピアノが弾ける自分なら、キーボード担当としてバンドをやることもできるのではないかと当時は思っていた。
だけど自然とギターを手に取り、いつしか授業が終わるとひたすら練習するようになった。通っていた進学校には音楽系の部活は吹奏楽部しかなくて、どうしたらバンドが組めるのかわからなかった。
ある日、同じくバンドファンの友だちから、ギタリストを探しているという知り合いを紹介された。三つ年上の大学生バンドで、ギター担当が少し前に辞めたらしかった。
初めて音を合わせたとき、これこそがまさに自分がやりたかったことなのだと痛感した。全身を快感が突き抜けて行って、立っていられなくなりそうなほど心地よかった。空っぽだった自分の中が満たされていくのを感じた。
正直勉強はそれほど腰を入れなくても、授業を聞いて課題を提出してさえいれば最低限の成績以上を取ることができていた。
昔からなんでもある程度のことはできてしまうほうだったのだ。でも家族はそれでは納得しなかった。両親には医者になることを期待されていた。だけど一瞬たりとも医者になりたいと思える瞬間は無かった。医学部に在籍中と、薬学部を目指して猛勉強中の兄二人がいるのだから、どうにか自分だけは見逃されることを心から望んでいたけれど、そうはならなかった。いつしか家は居心地の良い場所じゃなくなっていった。
もしくは生まれた瞬間から、自分にとってあの家は居場所ではなかったのかもしれない。友達のことは好きだったから高校には通っていたけれど、家には帰らずに一人暮らしをするバンドメンバーのアパートに泊まることが増えていった。
自分の好きなことをするためには、両親に頼らずに生きていけるようにならなければならないと思っていた。そのためにはバイトをして金を稼ぐ必要があったけれど、親と学校の許可が取れそうになかった。
そんな日々の中、友達と渋谷に遊びにでかけたときのことだった。よくわからない芸能事務所の人に声を掛けられた。周りにいた友達が「スカウトじゃん」と言ってはしゃいでいた。俺は「金は貰えますか?」とだけ聞いていた。答えはイエスだった。「手渡しでいただくことはできますか?」できるように努力すると言われた。迷う必要なんてなかった。
バンドをやるための金が欲しくて、よくわからないままモデルの端くれみたいなことをした。ファッションのことなんて全くわからなかった。髪型も服装もされるがままに変えられて、ポーズをとった。友達にはやる気のなさを笑われたけれど、これが案外気だるげに見えて高評価を得ていたらしい。
両親とは喧嘩が絶えなくなっていき、なおさら自宅から足が遠のいていった。
自分の居場所はバンドしかないと思い始めていたのに、あっさり解散になった。メンバーが就活で忙しくなったせいだった。なんだそれ。お前ら、そんな普通の人みたいなことできるのかよ。
また空っぽになった俺は、家に帰るしかなかった。自分にはそれしかないのに、もう一度バンドを組む勇気も気力も無かった。両親の圧力に潰されて、ぺしゃんこになっていた。
辞めると言い出すタイミングを失ってだらだら続けていたモデル業だけが妙に評価を受けて、学内ではちょっとした有名人になっていた。
ときどき女子から告白されることがあったけれど、音楽にしか興味が持てなくて断っていた。だけどそれを失くしてしまったから、そのタイミングでされた告白にオーケーをした。その場で涙ぐむ女子を前に、若干心が痛んだけれど、バンドが解散した時に比べれば大したことはなかった。俺は空っぽだった。そんな俺のどこに好きになる要素があったのだろう。
その女子は学校の中で可愛いとされる子だった。毎日髪を巻いて化粧をしてスカートを短くして、やたらとプリクラや写真を撮りたがった。
それをSNSに載せたらしい。なんの感情も無く付き合っているお詫びに、それぐらい好きにさせてあげないと申し訳なかった。すぐに事務所から呼び出されて、小言を言われた。テレビに出る芸能人でもないのに、まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。
彼女となった女子に止めるように言うのも億劫だった。
こうして本当に自分の力で手に入れたものを全て手放して、家と学校と予備校に通う生活に帰ったけれど、だからといって医者になろうと思えたわけでも成績が上がったわけでもなかった。
進路を決める時期になり、明らかに成績が足りないことが判明してもなお、浪人してでも医学部に行けと父親は言い続けた。
そこから結局私立大学の外国語学部に、それも名古屋に来るまでは戦争のような日々を経た。両親がすぐに干渉してこられない場所に行きたくて、なんとかここまで逃げてこられたのだ。父親は俺を勘当したがったが、母親がそれに抵抗してくれたおかげで授業料と最低限の生活費の仕送りを受けている。
情けないけれど拒むことができないのが、現状だった。




