第三十八回 影と晴れ
魔王討たれるとの報に、正統皇帝軍の本陣は沸き立った。戦場のあちこちから喜びに満ちた、鬨の声が上がる。
「兵士たちが皇帝陛下の勝ち名乗りを求めていますぞ。さあ、どうか」
ひとりの将軍が老皇帝の手を取って、椅子から立ち上がるのを助けようとした。だが皇帝はその手を断る。
「いや……勝ち名乗りは朕ではない。皇子よ、お前がやるのだ。新たな時代の担い手としてな」
「はっ。承知しました、父上」
自ら剣を振るっていたため、随分と返り血と土埃に汚れた皇子は、だが疲れた素振りも見せず返答。将軍たちを引き連れて、兵士たちの前へと向かった。
その日の夜。戦争は終わったが、まだ撤収の途中である。今夜は軍の大半がここで夜営することになった。念のために見張りは立てられてはいたが。勝利の美酒に酔う兵たちの陽気な歌が辺りから聞こえている。
という中。ある天幕にいたのは、皇帝と皇子のふたりきり。周囲からは人払いをしている。皇帝は皇子にひざまずいた。
「このたびは勝利おめでとうございます、陛下」
「いや、そちも影武者として良く仕えてくれた。亡き父も喜んでくれようぞ」
正統なる王権の所有者として、辺境に追放された皇帝が挙兵して五年後。ここが天王山という戦いを前に、皇帝は病に倒れる。だがその時、皇子はまだ血気盛んなだけの若者で、軍をまとめ上げるには未熟な部分があった。そこで影武者を用意して、人心が離れないようにしたのだ。
「あれから若も成長なされて、まさしく王器となられた。もはや老体は必要ありませんな」
「何をいうか。これからまだ戦争で荒れ果てた国土を復興するという大業があるというのに。若輩たる余では、まだまだ老獪な諸侯を抑えきれぬ。まだまだ父上の威光には及ばん」
「此度の殊勲。間違いなく若の力によるものですよ。傍で見ておりましたから、私が一番知っております」
「だとしても、ならばお主はどうなるのだ。長きに亘って父の影として生きていたのだ。既に元の生活には戻れまい」
影武者は静かに首を横に振る。
「闇の中に光が現れれば、影が生じるのは必定。ですが魔王が倒れ、大陸を覆う暗雲は吹き去りました。やがて皇帝となられた若の威光が、国を遍く照らすでしょう。すると、昼の日差しで影が短く、短くなるように。やはり平和な王土で影は、短く薄ぅくあらねばならんのですよ」
その言葉が何を意味しているのか、全て理解できず皇子は生返事で答えた。そして、くれぐれも身体を労るよう入念に労う。
影武者はその優しさに、ただただ満足そうな笑顔でいるのだった。
翌日、毒杯をあおって死んだ影武者が発見される。戦後処理のため遅れはしたが、葬儀は大々的に行われた。公式に発表された死因は病死である。大陸を平和に導く役割を終えたと共に、燃え尽きた蝋燭のごとく命を喪ったのだ。皇帝の死に多くの民が涙した。
と同時に、皇帝は誰かに暗殺されたのではないか。魔王軍の残党による仕業ではないか。種々の陰謀論も流布した。が真相は影に隠れたまま、遂に明かされることはなかった。
果ては若い新皇帝による治世という、目映いばかりの光に影は見えなくなり、誰からも忘れられたのである。