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呼吸

 <土曜日 シーラインダイビングサービス 午前9時>

 

 カランコロンと店の扉のベルの音がする。

 

「おはようございます……。」

 

 黒兎は黒のスウェットズボンに白の長袖とラフな格好で、荷物を入れたトートバッグを肩に下げて店に入ってきた。


 特に整えてもなさそうなボサボサの髪なのに、何故か色っぽい雰囲気が漂っていて、(顔がいいって便利だな。)なんて、思いながら蒼は出迎える。

 

「おはようございまーす。」

 

 一応客なので、挨拶は敬語で。


 蒼はシーラインダイビングサービスのTシャツに、黒のジーパンを履いていた。


 店のカウンターの向こうに海藤さんが居て、海藤は年中、店のTシャツに半パンを履いている。


 今度は海藤が黒兎に声をかける。

 

「おお!いらっしゃーい!やっぱり今日は暖かいなぁ!昼には快適にプールに入れるぞぉ!」

 

 店に入ってすぐの場所で棒立ちになっている黒兎に、蒼が声をかける。

 

「取り敢えず、書類を貰うのと。簡単に座学するから。」

 

「座学?」

 

「座学っつっても、物の名前とか、扱い方とか、注意事項とか、ちょー簡単なやつ。心配しなくていいよ。そこ。座って。」

 

 そんな話しをしながら、蒼が黒兎から申し込みの書類やらを受け取っていると、海藤が話しに入ってくる。

 

「おいー。蒼。座学。外でやれよ。」

 

「え?なんでっすか。」

 

「なんでって。今日は外の方が気持ちいいだろー。それに、こっちにボンベ持って来てレギ繋ぐの面倒じゃねぇか。」

 

「いや。べつにそれくらい……。それにずっと外って、しんどいっすよ。」

 

「そんなことねぇよなぁ。なぁ?黒兎君!」

 

 突然振られた会話に、黒兎は少し驚きながらも言葉を返す。

 

「あ……。まぁ……。いいですよ。外で。」

 

「まじ?」

 

「ほらほれ!若者はお外で遊びなさーい!また潜る前に声かけてちょ!」

 

 そんな流れで、蒼が申し込みの書類を海藤に渡すと、2人は店の外に出た。


 店を出てすぐ左手には中規模のタープテントが2つ横に並んでいる。


 外付けの蛇口も2箇所あって、その近くに、今日、2人が使う物品がまとまて用意されていた。


 蒼は勝手知ったる場所から背もたれのあるプラスチックの白い椅子を2脚持ってくると、黒兎に座るように促す。

 

「じゃあ、説明すんね。」

 

「お願いします。」

 

 そうして、蒼が黒兎に、初心者向けのスキューバダイビングの説明を行う。既に客に向けて何百と繰り返した説明内容。黒兎自身も頭がいいのか、飲み込みが早く、流れるように進んでいく。


 5月上旬の夏日は、暑くも寒くもなく、ポカポカと快適な気候だった。

 

 そして、説明は実際にレギュレータと呼ばれる機械を口に咥えて酸素を吸う所に入る。


 蒼は慣れた手つきでボンベにレギュレータを繋げて黒兎に差し出す。

 

「じゃあ、実際に加えてみて。ゆっくり大きく3回、呼吸してみて。」

 

「……はい。」

 

 そう言って黒兎はレギュレータを口に咥える。

 

「………………。」

 

 本来ならば、スコー、スコーと機械を通して呼吸する音が聞こえるはずだが、何の音もしない。蒼が黒兎に声をかける。

 

「吸えた?」

 

「…………。」

 

 レギュレータを咥えたまま返事が出来ないようで、黒兎は戸惑った表情をしている。すかさず蒼が声をかける。

 

「一回、レギュレータ、口から外してみましょうか。」

 

「…………。」

 

 蒼の指示で黒兎がレギュレータから口を外す。


 その動作もどこかぎこちなく、口に唾液が溜まるのか、外した口元とレギュレータの間で唾液が糸を引く。

 

(あー。分かる。慣れないとそーなるよな。)

 

 黒兎は咄嗟に口元を長袖の裾で拭っていた。蒼が声をかける。

 

「空気、吸えなかった?」

 

「……吸えない。」

 

「んー。ちょっとまってな。機械の方のトラブルで空気が来てないこともあるから。」

 

 黒兎の手からレギュレータを受け取る。そして蒼はそのままレギュレータを口に咥えた。

 

 スコー、スコー、スコー

 

 問題なく空間が来ていることが確認できる。


 蒼はレギュレータから口を外して黒兎に言う。

 

「うん。問題なく空気は来てるから、ちょっと咥え方が浅いんだと思う。もっと深く咥えてみよっか。」

 

 そう言って、黒兎にレギュレータを渡そうとして、蒼は自分の失敗に気づく。

 

(あ……。やっべ……。男同士だからって油断してた……。)

 

「あ……。ごめん。」

 

 蒼はそう言って、近くの蛇口で咥えた部分を軽くゆすいで黒兎に渡す。

 

「じゃあ、もっかい咥えてみて。」

 

「……。」

 

 黒兎が蒼からレギュレータを受け取って、もう一度咥える。


 さっきよりも深く咥えることができていて、スコー、スコー、スコーと息をする音が聞こえた。

 

「おっけー。じゃあ外してもらって。実際に息した感じはこんな感じです。」

 

「……はい。」

 

 また、蒼が説明を続ける。あっという間に、今度はウェットスーツを来て、まずはボンベは背負わずシュノーケリングでプールに入る所まで来た。

 

 蒼が先にウェットスーツを来て、黒兎がウェットスーツを着るのを手伝う。乾いたウェットスーツは慣れないと非常に着ずらい。蒼が言う。

 

「LLでぎりだな。でも、もうワンサイズ上げるとぶかぶかっぽいし。しんどいくない?大丈夫?」

 

 まだ背中のファスナーは上がりきっておらず、両足は着ることが出来たが、両手がまだ出きらない中途半端な状態になっている。黒兎が言葉を返す。

 

「……う……ん。大丈夫……。きついけど……。」

 

「入れていい?」

 

「…………………………なにを?」

 

「水。」

 

「………………水?」

 

「水入れるとスルっと着れるんだよ。ただ、結構冷たいけど。」

 

「…………入れて下さい。」

 

 蒼が蛇口を捻って、水が出ているホースを持ってくる。

 

「入れるよー。」

 

「…………はい。」

 

 それを背中のファスナーの中に突っ込んで、肩から腕に向かって水を流し込む。

 

「冷っ!!!めった!!」

 

「…………。ははは!!だろ?」

 

 ずっと抑揚の無かった黒兎が、出会ってから初めて、大きめの声をあげたことに思わず笑ってしまう。黒兎の事は本当に何も知らないが、ほんの。ほんの少しだけは、距離が縮まった気がした。


 水を流し込んだまま腕を通すと、綺麗にウェットスーツを着る事ができて、蒼が最後に背中のファスナーを上まであげる。

 

「今はきついかもだけど、プール入ったら馴染むから。」

 

 そうしてウェットスーツを来た2人は、両手にゴーグル、シュノーケル、フィンを持って、店の目の前にあるプールサイドまで行く。

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