第12話 役所の混乱と『存在証明』への試練
「いい、勇者句。今度こそ『馴染み(カメレオン・オーラ)』も『納得の吐息』も絶対に使わないで。あんたがただの佐藤勇者句として、窓口で必要書類を提出するだけ。それ以外は何もいらないからね!」
役所の重厚な自動ドアの前で、ハルが鬼の形相で念を押す。俺は戦場へ赴くような覚悟で頷いた。
「分かった。英雄としての矜持は一度封印する。この『事務処理』という名の迷宮を、泥臭い手続きだけで攻略してみせよう」
俺たちが足を踏み入れた瞬間、役所内の空気がピタリと止まった。
住民票を待つ主婦も、せかせか動く職員も、一斉にこちらを振り返る。前回のような魔法は使っていない。ただそこに立っているだけだ。なのに、役所全体が「静かな熱狂」に包まれていく。
(……おかしい。何もしていないのに、なぜこれほどまでに見つめられる?)
俺は努めて無表情を装い、窓口へ歩を進めた。前回の職員とは別人の、緊張した面持ちの若い女性職員が、俺の姿を見るなり頬を紅潮させてPCのキーボードを打つ手を止める。
「……あ、あの。ご用件は……?」
「佐藤勇者句だ。前回の手続きに不備があったようでな。正規の手順でマイナンバーカードの交付申請をしに来た」
なるべく事務的な、低いトーンで告げる。しかし、俺が言葉を発しただけで、背後の待合席から「……今の声、素敵」「あの瞳で見つめられたら、住民票の更新なんてどうでもよくなるわ」という囁きが漏れ聞こえてくる。
「っ……はい! かしこまりました!……あ、その、身分証明の……」
職員は明らかに舞い上がっていた。俺は用意した書類を差し出す。その所作一つひとつに、周囲の全視線が突き刺さる。ハルが隣で「お願い、深呼吸して! 普通に、普通に仕事して!」と心の中で祈っているのが伝わってくる。
職員が俺の情報をシステムに照会しようとしたその時、PCから「ピコーン」と無機質なエラー音が響いた。
「……あれ? お客様、お名前をいただけますか?」
「佐藤勇者句だ」
「……不思議ですね。記録が見当たらない……どころか、検索画面が『該当者なし』ではなく『閲覧制限』になっていて……」
職員が困惑して画面を覗き込む。前回の魔法ハックの残滓が、正規システムの中で「謎の重要極秘案件」としてバグを撒き散らしているのだ。
「ああ、それは恐らく以前の担当が……」
俺が事情を説明しようと口を開くと、周囲の職員が「佐藤様が喋った!」とばかりに一斉に駆け寄ってきた。窓口は一瞬で人だかりになり、業務は完全に停止する。
「いいですか、佐藤様! 弊社のシステムには、このような『特別な存在』を扱うための……えっと、優先ルートがあるはずです!」
「いや、私はただの佐藤だ。優先などいらん」
「いいえ! お気遣いは不要です! ……佐藤様、お茶をお持ちしました! あと、この書類の不備はこちらで修正しておきますから!」
「……あ、お待ちください、佐藤様! 今回はマイナンバーの交付申請だけですが、この際ですから『国民健康保険』への加入も済ませておきましょうか? 医療費の窓口負担が軽減されますし、何より、その……佐藤様のような高貴な方が、万が一にも病に倒れるようなことがあっては、この国の損失ですから!」
窓口の職員が、聖杯でも捧げるかのような手つきで保険の手続き書類を差し出す。その必死な眼差しには、もはや事務的な冷徹さなど微塵もない。
「……保険、か。魔王の呪いとは違う、この国独自の『病』に対する防壁。……よかろう、加入の手続きを願いたい」
俺が頷くと、職員は歓喜に震えながら手続きを進めた。さらに、そばにいた別の職員が「佐藤様には、身分証明の補助としてこちらの書類も必要でしょう!」と、本籍地や世帯状況まで記載された「住民票の原本」まで恭しく発行してくれた。
「ありがとう。……ハル、これで万全か? 役所の職員が『この保険証と住民票があれば、マイナンバーカードが届くまでの間、しっかりとした身分証明の役割を果たせますよ』と、涙ながらに教えてくれたぞ」
俺は役所の自動ドアを抜けると、手に入れたばかりの『国民健康保険証』と『住民票の原本』を掲げた。それは、戦場でどれほどの功績を上げても得られなかった、この国での「存在証明」という名の聖遺物だ。
ハルは俺の成長に感動するどころか、疲れ切った顔でため息をつく。
「あんた、やっと『正規のルート』の歩き方を覚えたわね。保険証と住民票……そう、これさえあれば、どこの買取店だって断りようがないわ」
「……ああ。だがハルよ。あの役所での出来事、本当に俺の魔法は発動していなかったのか? 職員たちの熱狂ぶりは、まるで『納得の吐息』を受けた直後の民衆のようだったぞ」
俺の問いに、ハルは呆れたように肩をすくめた。
「……無自覚って本当に怖いわね。あんた、魔法は使ってないわ。でもね、その整いすぎた顔面と、堂々とした勇者の立ち居振る舞いが、無意識下で周囲の理性を溶かしてたのよ。ある意味、魔法よりタチが悪い『天然の魅了』ね」
「ほう、それがこの国における『人徳』というやつか。魔力消費なしで相手を屈服させる術、実に有益だな」
「違うってば! あれは屈服じゃなくて、ただの騒ぎ! ……まあいいわ。とにかく、これで店主を納得させる準備は整ったわよ」
俺たちは足早に、あの貴金属店へと踵を返した。今度こそ、俺という異世界人が「ただの佐藤勇者句」として、この社会のシステムに正式に組み込まれる時が来たのだ。
再びあの貴金属店の自動ドアが開く。店主は、俺たちの姿を見るなり、また面倒事が始まったかという顔をしたが、俺が提示した二枚の書類を見るや否や、表情が凍りついた。
「……住民票と、国民健康保険証ですね」
店主は静かに、店内の規約が記されたタブレット画面を確認した。そこに表示された買取条件の一覧と、俺の手にした保険証と住民票を交互に見比べる。今まで魔法で誤魔化してきた「社会の隙間」が、この存在証明によって完全に封じられたのだ。
「フフッ、店主よ。どうだ? 俺の正当性は揺るぎようがないだろう」
「……ええ。おっしゃる通りです。不備はございません」
店主は小さく頷くと、プロの表情で書類を丁寧に受け取った。
「では、これより古物営業法に基づき、査定に入らせていただきます」
俺にとって、魔王軍の幹部を倒すよりも困難だった「事務手続き」という名の迷宮。それをようやく攻略し、俺たちは正当な取引のテーブルについた。
かつて戦場で血を流して得た金貨が、平和な社会の潤滑油へと姿を変えていく。俺は「働かない未来」を夢見ながら、焼肉という名の褒美を目指し、俺たちの新たな冒険が幕を開けた。




