第11話 偽造の闇、あるいは新たな試練
店主が事務的に「身分確認」を要求した瞬間、俺の背筋に冷たいものが走った。
「身分確認……だと?」
俺は店主の前に向き直り、威風堂々と胸を張った。
「案ずるな店主よ。名は……ラグナ=フェルディア=クロムヴァルド=シルヴェイン=アルティナス。聖域不可侵大帝国・クロノス・ヴァルハラの元勇者で、今はこの国に合わせて『佐藤勇者句』と名乗っている。この俺の威名を聞けば、身分証など不要であることは明白だろう?」
店主はポカンと口を開け、眼鏡の奥で呆れ果てたような視線を向けてきた。
「……お客様。ここは貴金属店であり、ファンタジーの世界ではありません。お名前を聞いているのではなく、公的な『身分証明書』の提示を求めているのです」
俺は店主の言葉を咀嚼し、顎に手を当てて頷いた。
「なるほど。つまり、身分証とはこの国における『ギルドカード』のようなものが必要なのだな。冒険者のランクや所属を証明するための、あの必須の証が」
「だから違うってば! ギルドカードじゃない、マイナンバーカード! ……もう、いちいち全部ファンタジー用語に変換しないで!」
すかさずハルが俺の脇腹を小突いた。俺はハルに小突かれ、ようやく状況を理解した。……どうやらこの国では、己の出自や英雄としての階位を明かすことよりも、国家が発行する紙切れ一枚の方が価値があるらしい。
「……ハル、困ったな。身分証がない。先日、二人で役所へ行って住民登録を済ませただろう? あの手続きで、俺はこの国の住人として認められたはずではなかったのか?」
ハルは呆れたように眉をひそめ、店主には聞こえないように小声で反論してきた。
「あんたねえ、魔法のこととなると急に冴えるのに、社会のことは本当にゼロね。まあ異世界から来たから仕方がないか。あの日、あんたが魔法で職員をメロメロにして『登録したことにさせた』のは、あたしも見てたわよ。でも、魔法が切れた今となっては、あんたのデータなんてお役所のシステム上には存在しないの。正規の『マイナンバーカード』を受け取らないと、この国では何の意味もないのよ」
「……あの日、全てはスムーズに進んだはずだ。職員も俺の存在を完璧に把握していた」
「だから、それは魔法の『バグ』で職員の脳をハックしただけ! 魔法が切れた今、役所の職員たちは『なぜあんなにスムーズに登録したのか』、自分のミスを不審に思ってるはずよ。そのまま放置してたら、あんたの登録データなんてデータ汚染扱いされて削除されてるわよ」
ハルが俺の首根っこを掴んで振り回したいという殺気を放つ。俺は悪びれもせず、カウンター越しに店主を観察した。
「お客様、何度も申し上げますが、高額買取には古物営業法に基づく厳格な本人確認が義務付けられております。顔写真付きの身分証明書、あるいはマイナンバーカードのご提示を……」
店主の視線は依然としてこちらの様子を値踏みするように動いている。入店時に感じた、俺に陶酔するような雰囲気は微塵もない。
「ハル。もしそのカードが手元になければ、この交渉は破綻するのか。ならば、店主の記憶に俺が正当な持ち主であると再び改変を施せば――」
「あんた、今すぐその物騒な考えを消して! そんなことしたら、一瞬で迷宮の牢獄行きよ!」
ハルが慌てて俺の前に立ちふさがる。店主に怪しまれないよう、必死の営業スマイルを浮かべているのが見て取れた。
「魔法でどうにかしないで。こっちの世界のルールは、力じゃなくて手続きで動いてるの。カードがないなら、お役所に頭を下げて『正規の手順で交付してください』って頼み込むしかないでしょ」
「……魔王の軍勢を崩すより、この国の事務処理の方が数倍も難易度が高いとは」
俺が呆然としていると、店主が少しだけ声を低くした。
「……証明書をご準備いただければ、改めて買取査定に入らせていただきますが」
店主の鋭い視線に、俺は渋々ながらも頷いた。
「分かった。……しかし、あの退屈な窓口へ戻るのか。魔法で一瞬で終わらせたあの場所へ、わざわざ正規の手順を踏んで並び直すとは。この国のシステムは、英雄に手間を強いることに関しては世界一だな」
「もう! 文句を言うのは役所に行ってから! 早く行くわよ!」
魔法で無理やり書き換えるという『馴染み(カメレオン・オーラ)』や『納得の吐息』を封印し、俺はただの「一人の男」として、この国の役所という名の巨大迷宮に再び挑むことを決意した。
かつて戦場で血を流して得た金貨が、平和な社会の潤滑油へと姿を変えていく。俺は「働かない未来」を夢見ながら、ハルに管理されるという、別の意味で逃れられない「システム」に組み込まれていった。
戦場では一度も感じたことのない、得体の知れない緊張感が胃を締め付ける。果たして、俺という異世界人の存在は、この国のシステムに認められるのか。焼肉という名の褒美を目指し、俺たちの新たな冒険が幕を開けた。




