第1話 聖域不可侵大帝国・クロノス・ヴァルハラ、最期の光
王国「聖域不可侵大帝国・クロノス・ヴァルハラ」の空は、奈落深淵絶対絶望虚無領域「デス・カタストロフィ・エターナル・オブ・ハデス」から溢れ出た瘴気によって、永遠の黄昏の中に沈んでいた。
かつて栄華を誇った白亜の城塞は煤けた瓦礫の山と化し、大地には亀裂が走っている。俺、ラグナ=フェルディア=クロムヴァルド=シルヴェイン=アルティナスは、右肩から滴り落ちる血を無視し、聖剣を握りしめた。息を吐くたび、肺から熱い血が込み上げる。戦いの果て、右腕の防具は粉砕され、鎧は至る所がひしゃげていた。それでも、俺は足を止めなかった。
正面に鎮座するのは、魔王「深淵の魔王・終焉をもたらす混沌の支配者・ギルガメッシュ=ザ=デス=エンド=ラグナロク=インフィニティ=カタクリズム」。
それは形なき闇の集合体だった。ただそこに在るだけで空間が歪み、物理法則が崩壊する虚無の権化。その気配だけで、俺の肉体は悲鳴を上げていた。
「……終わらせる。この国に、これ以上の絶望は必要ない」
俺は咆哮とともに、全ての魔力を聖剣の一点に凝縮させた。魔王の核を捉える。防御の隙、一瞬。この機会を逃せば世界は闇に飲まれる。俺は空中で体勢をねじり、全てを断ち切るための一撃を振り下ろした。
「これで、最後だ……ッ!」
聖剣が魔王の核を真っ二つに裂こうとした――その刹那だった。
剣尖が闇に触れた瞬間、そこからこの世のものとは思えない「白い閃光」が噴き出した。それは魔王の闇を溶かすような、純粋すぎる光。剣が触れた場所から、俺の右腕ごと世界が透明な粒子となって分解されていく。
「な……ッ!? この光は、一体……!」
光の渦の中で、魔王の巨体が形を崩して消滅していく。だが、俺の身体も同じ運命を辿っていた。意識が遠のき、光の重力に押し流される。死んだのか、と思ったその時、視界の中に眩い「神」の姿が現れた。
それは慈愛に満ちた、あまりに美しく、冷徹な光の塊だった。
『……ラグナ=フェルディア=クロムヴァルド=シルヴェイン=アルティナスよ。汝の魂は限界を迎えた。聖域不可侵大帝国を守り抜こうとしたその忠誠、称賛に値する』
「誰だ……女神か? ここはどこだ……!」
『私はこの世界の理の観測者。汝、死の淵より救い出そう。だが、汝のいた世界は既に崩壊した。汝の剣と力、そしてその重すぎる命の灯火、この場所では不要となる』
女神の指先が、俺の額に触れる。その瞬間、俺の全身を縛り付けていた鎧の重みと、聖剣の魔力が霧のように霧散していく。女神は満足げに、この世界の「勇者」としての機能を完全に「除去」したと確信していた。
『これから汝には、別の理が支配する地「日本」へ向かってもらう。そこは剣も魔法も存在しない、平和という名の迷宮。汝はその地で、かつての勇者としての誇りを捨て、一人の人間として生きるのだ』
「日本……? 剣のない地で、私は何をすればいい……!」
『名を変えよ。ラグナ=フェルディア=クロムヴァルド=シルヴェイン=アルティナスという名は、長すぎるしその地では異物にしかならない』
女神が微笑んだ。その瞬間、俺の意識の中に「佐藤勇者句」という、異様に響きの悪い、だが決定的な名が刻み込まれた。
『今日から汝は、佐藤勇者句。その名で、日本という名の、最も攻略困難な迷宮を歩むのだ。行け、勇者よ――今度は魂の平穏を得るために』
視界が白一色に染まる。
女神の光が俺を飲み込み、時空の狭間へと押し流す。
意識が暗転する直前、俺は腰に下げた古びた革袋の感触を最後に覚えていた。それは何千もの死線を越えてきた相棒であり、俺の命の一部であったが、女神の慈悲によって「無力化」されたはずのただの荷物に過ぎないと思われていた。
鉄の塊が金属音を立てて疾走する音、そして、人々の喧騒。
光の向こう側で、俺は――佐藤勇者句は、まだ気づいていなかった。
そこが、かつての戦場とは比較にならないほど複雑怪奇な、「平和」という名の迷宮であることを。
かつての勇者は、剣を失い、名前を奪われ、そして「佐藤勇者句」という名の、あまりにも滑稽で重苦しい新たな役割を背負い、この世界の日本という地に降り立ったのだ。
意識が暗転する。最後に残ったのは、女神の言葉の残響と、どこまでも続くアスファルト、そして排気ガスの匂い。
俺の物語は、ここから始まる。
魔王のいない世界で、何よりも難解な「佐藤勇者句」というクエストを攻略するために。




