【番外編】 シング・ア・ソング
風に乗って、どこからか歌声が聴こえてきた。
放課後の保健委員会で配る書類の束を抱えて廊下を歩いていた私は、ふと足を止めて、来た道をそろそろと引き返してみた。
ほんのわずか、扉の空いている音楽準備室の中を覗き込む。
室内には、ここロイヤルアカデミーの音楽教師であるヒューイット先生と、彼の指導する合唱部の生徒達が数人いて、めいめい書棚から出した楽譜を広げている。たぶん、次の音楽祭で歌う曲を決めているんだろう。
一人の女子生徒がヒューイット先生の目の前に楽譜を差し出した。
「ヒューイット先生、これなんてどうですか?」
「ああ、『愛の調べ』か。少し長いけど、悪くないね」
「歌ってみてくれませんか?」
扉の影で、私は息を呑んだ。
いいよ、という軽い返事と、数拍の静けさ。
そして、天上の音楽が紡ぎ出される。
菫は星にささやく
うるわしき愛の調べ
薔薇は月にほほえむ
かぐわしき夜の花園
彼が歌いだした途端。
無機質な校舎は、たちまち幻想的な花園へと変貌したかのようで。
うわ……体の芯が痺れる。
脳髄が溶ける。
なんて暴力的に甘い歌声。
両手に抱えた書類を思わず落っことしそうになり、私は慌ててそれを抱え直して、足音を忍ばせながら急いでその場を去った。
◇
私は音痴だけど、歌を聴くのは大好きだ。
クリス・ヒューイット先生は私の夫である。そして、死ぬほど歌がうまい。
普通ならここで、めでたしめでたし、となる。
だけど一つ、問題があった。
クリスは、私の前では歌を歌わないのだ。
◇
「ヒューイット先生に、歌ってもらった事がない?」
マージェリーはオリーブ色の切れ長の目を大きく開いて、たった今地上に這い出てきた地底人でも見るようにまじまじと私を見た。
いたたまれない気持ちで私は頷いた。
ここはマージェリーの家、つまり彼女の嫁ぎ先であるこの国の第二王子シリルの家、つまり華やかなる王宮の一画だ。
来たる音楽祭のメインコンサートには、ロイヤルアカデミーの卒業生達も招待する。その連絡係を引き受けた私は、王宮へマージェリーに会いに来ていた。在学中、学級委員をしていた面倒見のいい彼女は、卒業後も同窓生たちの取りまとめ役をしてくれているのだ。王子妃であり顔の広い彼女に一言頼めば、たいていの卒業生には連絡が行き渡る。
マージェリーは喜んで彼女の私室に通してくれ、極上のお茶とお菓子でもてなしてくれたけれど、すぐにどこか上の空な私の様子に気がついて、あれこれと質問をしてきた。なにしろ面倒見のいい性格なのだ。
そして私はかつての生徒であるマージェリーに、自分の個人的な問題をぽろりと打ち明けてしまった。
「……驚きましたわ。ヒューイット先生の歌といえば、宮廷の声楽家も顔負けだとアカデミーでは有名でしたもの。奥様であるカレン先生なら、当然いつも堪能していると思っていましたわ」
「もちろん私だって、彼の歌を聴いた事くらいあるわよ。音楽ホールでの授業中に生徒へ指導してるのを偶然耳にしたりだとか、オーケストラの練習中に生徒へ指導しているのを偶然耳にしたりだとか……」
マージェリーの顔にじわりと憐憫が浮かぶ。私は慌てて言いつのった。
「だけど、私の前では本当に、一切何も歌わないのよ。楽譜を広げた事もないし、鼻歌ひとつ歌った事がないの」
「まあ、あのヒューイット先生が? それは意外ですわね」
マージェリーの言う通り、結婚当初は私も意外に思った。
クリスはとても熱心な音楽教師だ。音楽を愛し、生徒達を愛しているのが傍目にもひしひしと伝わってくる。
そんな彼なのに、私達が住んでいるこぢんまりとしたあの屋敷に帰ってくると、全く音楽の話をしない。音楽どころか、アカデミーの話はほとんど持ち出さない。まるで電気のスイッチをぱちんと切ったみたいに。
たぶん、仕事のオン・オフをはっきり分けているんだろう。プライベートに音楽教師の仕事は持ち込まない。そう決めて、家ではハミング一つしないんだと思う。
彼がそう決めているなら、私はそれを尊重するべきなんだろう。
……だけど、もしかしたら、そうじゃなくてクリスは……。
「カレン先生は、ヒューイット先生の歌をお聴きになりたいのですよね?」
「えっ? ……ええ」
「それならそう言えばいいのではありませんか? カレン先生が一言、歌って、とお願いすれば……」
「……だめよ……」
「は?」
私は顔を歪め、両手で頭を抱えて叫んだ。
「そんな、仕事を忘れてくつろいでいる最中に、頭から冷水を浴びせるような真似はできないわ! そんな事をしたら、繊細で優しい音楽家の彼は、精神的に追い詰められて参ってしまうかもしれないもの!」
「繊細……あの方はむしろ象のように図太く見え……ごほん! では、カレン先生、ヒューイット先生の歌は諦めるのですね?」
「そ、それは……でも……ううう……」
懊悩する私に、マージェリーが呆れてため息を吐く。
「カレン先生……ロイヤルアカデミーの保健室ではいつも颯爽としてらしたのに、相変わらずヒューイット先生の事となるとてんでダメですわね。こういうの、医者の不養生と言うのでしたかしら」
ぐうの音も出ない。
マージェリーはしばらく、有能な侍女長が新入りの侍女でも見るような目で私を見つめていた。
それから、何か名案を思いついたようにぱっと頬を紅潮させると、おもむろに私の手を取り、ニヤリとほほ笑んだ。
「ご安心下さいな、カレン先生。このわたくしが、どうすれば良いかすっかりお教えいたしますわ」
◇
「ただいま、アメリア」
アカデミーから帰ってきたクリスがリビングルームに顔を出すやいなや、私は光の速さで、それまで最終チェックを入れていた音楽祭の招待客リストを目につかない場所に片付け、下ろしていた髪をさっと片側に寄せ、赤フレームの眼鏡を外してテーブルに置き、足を組んで王子妃のごとく澄ました顔を彼に向けた。
「おかえりなさい、クリス」
眼鏡を外しているから何もかもがよく見えないけど、自分がマージェリーばりの優雅さを醸し出せている事を祈る。
クリスはいつもと様子の違う私に少し戸惑っているみたいだった。それでも、いつものように私の座っているソファのすぐ隣に腰を下ろすと、明るい口調で言った。
「今日は仕事をしてないんだね。君が卒業生への連絡係をしてくれるって学院長に聞いたけど、マージェリーにはもう会いに行ったの?」
「ええ」
ちょっと素っ気なく答える。
沈黙。
いつもならここで、私が今日あった出来事をあれこれとクリスに話すのだけど、今日の私は貝のように口を閉じている。沈黙は金。どうにもいたたまれないけど、せっかくのマージェリーのアドバイスを無駄にするわけにはいかない。
それでもクリスは感じの良い笑顔を浮かべた、ように見えた。眼鏡がないと本当に何も見えない。
「今日の夕飯は何かな。さっき厨房の前を通った時、料理人のアンダーソン夫人に、市場でいい魚が手に入ったから楽しみにしててくださいよ、って言われたけど。そうだ、週末は久しぶりに釣りに行かない?」
「そうね」
沈黙。
「……アメリア……もしかして、何か怒ってる?」
そろりと、クリスが私に尋ねる。さすがに胸が痛い。だけど、ここが正念場だ。私はクリスに向き直った。
「いいえ。ただ少し、気分が……」
「悪いの?」
「いいえ。その、だけどもし……あなたが……」
「僕が?」
「ええ、あの……もしよかったら、あなたが、私の気分を良くしてくれるような、あの事を……」
頬を染めていく私を見て、クリスは大真面目にそれを提案した。
「…………ベッドに行く?」
「いいえ!」
思わず大きな声を出してしまった。いけない。私は真っ赤になったまま、マージェリーに教えてもらった「高貴なおねだり作戦」を頭の中で復唱した。
『気のないそぶりをしつつ、上品に婉曲的に要求を伝えること。少しだけ甘えても可』
彼女に教わった時はそんな方法があるのかと感心したけど、ちょっと遠回し過ぎてクリスに伝わる気がしない。でもとにかく作戦を完遂させなければ。私はクリスの胸にそっと手を当て、上目遣いに彼を見た。彼の心拍数が上昇した。
「クリス……私、あなたにしてほしい事があるの」
「う、うん、何だい?」
「今日、音楽準備室で、あなたが生徒にしてあげていた事を……」
「ああ!」
クリスのキャラメル色の瞳に何かが閃いた。
私はほっとした。
彼は朗らかに言った。
「腹式呼吸のトレーニングのために腹筋を鍛えたいから、足を押さえててほしいんだね!」
「違うっ!!」
私は優雅さをかなぐり捨てて立ち上がった。ムカムカしながら、そのまま大股でリビングルームの出口に向かう。なぜ合唱部は音楽準備室で腹筋をするのか。なぜ彼は私のこんなに単純な願いに気がつかないのか。いや、きっとそれ以前の話で。
やっぱり、クリスは私に歌なんて聴かせたくないんだ。
私は田舎貴族で、教養も音感もないから。
国王の甥で才能に溢れた彼とはもともと釣り合わなくて、彼の素晴らしい歌を聴かせる価値なんてないから。
だから、高貴な生まれのアカデミーの生徒達にはあんなに気軽に歌ってあげるのに、私には一度も歌ってくれない。
クリスが私の名前を呼ぶけれど、振り返らずにどんどん歩く。頬が熱い。さっきからろくに見えていない視界がさらに滲む。
そして、天地がひっくり返った。
「アメリア!」
暖炉の柵につまづいて盛大に転びかけた私を、追いかけてきたクリスが抱き止めた。
「大丈夫かい? 眼鏡もせずにあんなに速く歩いたら、危ないよ」
そう言って、空いている方の手で、私に眼鏡をかけてくれる。ようやくクリスの顔がはっきりと見えた。心配そうに私を見つめる、いつもの優しい顔が。
「……ごめんなさい」
「別に構わないけど、何か言いたい事があるならはっきり言ってほしいな。まわりくどいのは苦手なんだ」
ちょっとすねたように言われて、胸のつかえがするりと解けた。
そうだ。
クリスはいつもまっすぐで、裏で誰かを見下したりなんて、決してしない。
私はようやく、自分の願いを彼に伝えた。
「……歌を、歌ってほしいの」
「……それだけ?」
「だって、クリスは家では一度も歌った事がないでしょう? 私には聴かせたくないのかと思って……」
クリスは苦笑して、私の髪を撫でた。
「違うよ。君はいつも仕事で忙しそうだから、せめて僕は音楽の話は持ち出さないようにしようと決めたんだ。だって嫌だろう? せっかく自分の家に帰ってくつろいでるのに、そこにもアカデミーと同じような音楽教師がいたら」
「じゃあ、私のために……?」
「そうだよ。働き者の君には、しっかりした休息が必要だと思ったんだ」
自分の勝手な思い込みが恥ずかしかった。劣等感を口実にクリスを逆恨みして、一人でひがんでいただなんて……。
私はクリスの胸に顔を埋めた。
「ごめんなさい、クリス……ありがとう」
すぐに、彼の両腕にぎゅっと包まれた。
私の耳元で、あの甘い声がささやく。
「君が望むなら、毎日だって歌ってあげるよ」
それからソファに戻って、私はクリスに歌を歌ってもらった。
温かな腕の中で、心をとろかす歌声を聴く。
天国にいるみたいだった。
◇
私はできるだけ、仕事を家に持ち帰るのを控えるようになった。
屋敷にいる時は、思い切りくつろぎ、休み、楽しむようにしている。この間はクリスと近くの湖に釣りに行った。小舟の上で聴く彼の歌も素晴らしかった。私達はバケツからはみ出すほどの大量の魚を釣って帰って、アンダーソン夫人を驚かせた。
だけど、次に釣りに行けるのは、もうしばらく先の事になるだろう。
休日の昼下がり、庭から摘んできたハーブを厨房で洗いながら、私は小さな声で、音程に気をつけて、歌を歌った。
クリスに教えてもらった子守歌を。
洗い終えて、手を拭き、少しだけふくらんできたお腹をなでる。
愛するクリスの歌声に、いつか、かわいらしい子どもの声が加わったらどんなに素敵だろう。
その頃には、私もせめてもう少し、歌がうまくなっていればいいんだけれど。