44:夢の中
「ママぁーっ。ご本、よんでー!」
元気な声がして、リビングから娘のエレオノーラがやってきた。
今年で4歳、両側で括ったあたしと同じ真っ赤な髪をぴょこぴょこ跳ねさせながら、とてとてと走ってくる。とても可愛らしい。
その手には、彼女の体半分が隠れてしまいそうなほど大きな一冊の本を大事そうに抱えている。それは娘のお気に入りの本、『大魔導師ローズマリー奇譚』だ。
どう考えても4歳の女の子に読み聞かせる内容の本じゃないんだけれど、これを読んでいる間はとても静かにじっとして聞いているので、本当に好きなんだろう。
「分かったわ。この洗い物だけ済ませたら読んであげるから、ちょっとだけ待てる?」
「うんっ、待てるよ! ……2分より長い?」
「はいはい、2分ね。じゃあ数えてて。行くわよー」
大きな声で「いーち、にーい……」と数え始めたエレオノーラを微笑ましく横目で見ながら、あたしは朝食の器を手早く片付けてしまう。
つい最近100までの数を数えられるようになったので、娘の中では2分がブームになっているらしい。
とは言っても数えるのがゆっくりなので、それは実際には2分よりずぅーっと長いのだけれど。
「…………そしてこの一件の後、彼女の行方を知るものはない」
「しうものはないー!」
「面白かった?」
「うんっ!」
本当に内容を分かっているのだろうかとちょっとだけ不安にもなるのだけれど、まあ楽しんで聞いているようだし、いいとしよう。
本を読み終わると、エレオノーラがあたしの膝の上からキラキラした瞳で見上げてきた。
「ねぇねぇ、ママもまほうでドラゴンやっつけたー?」
「あはは。ドラゴンはないかなぁ。でもワイバーンなら、パパと一緒にやっつけたことがあるわよ」
「うわぁっ、ママすごぉーい! あのね、エルもおっきくなったらまじゅちゅしゅになるの! それでパパとママといっしょにドラゴンやっつけるのよ!」
「そっかー。それじゃあママもエルに負けないように頑張らないとね」
本の影響か、それともあたしに似たせいか、エレオノーラは魔術士に憧れているようだ。
だけどこればっかりは、成長して彼女自身がスキルを獲得しない限りどうしようもない。あちこち文献を漁って、魔法を覚えるために少しでも役に立ちそうなことは色々と試してみているんだけどね。
一応、魔術士の子供は魔法を覚えやすいと言うから、可能性は低くないはずなんだけど。……どうなることやら。
「ご本、パパにも読んでもらうの! パパ早くかえってこないかなぁー」
「そうねー。もうそろそろ戻ってくる頃かな?」
ちょうどその時、玄関の扉が開く音がして、「ただいま」と聞き慣れた声が聞こえてきた。
エレオノーラが「パパだ!」と勢いよくあたしの膝から飛び降りた。そしてあたしもそれに負けない勢いで椅子から立ち上がり、彼を迎えるために玄関へと急ぐ。
「ただいま、エル」
「おかえりパパぁー! かたぐるましてーっ!」
あれっ? ご本じゃなかったっけ?
思わずくすりと笑いながら、娘に抱きつかれて嬉しそうに頬を緩ませているその人を見る。
「あ。メリッサも、ただいま」
ずっと昔からあんまり見た目の変わらないその人は、そう言ってあたしに軽く口づけを…………
◇
…………と、そこで意識が急浮上して、あたしは目を開けた。
目の前には、薄闇の中でまだぐっすりと眠っているアルの横顔がある。……あれっ、これもまだ夢の中?
と思ったら、その向こう側に長くて真っ直ぐな空色の髪が見えた。……ああもうっ、がっかりだわ。
でも、いい夢だったな。エレオノーラ、だっけ。あたしによく似た赤い髪の、とっても元気で可愛らしい女の子。
あたしもいつか本当に、あんな風にママなんて呼ばれる日がくるんだろうか? それも、その娘の父親は…… アルだったよね!?
夢の中の、優しい笑顔で娘を抱き上げるアルの姿。その瞳がそのままあたしにも向けられて、距離が縮まって、ごく自然に、ちゅって。
いやあああぁーっ、あたしってばなんて夢見てるのよもうっ、恥ずかしいよーっ!
……今すぐもう一度眠れば、夢の続きを見られるだろうか?
そんなことを考えて軽く身悶えをしてから、あたしはアルの胸の上に置かれたフィオナの腕を向こう側へと押し退けて、また目を閉じた。
◇◆◇
……おかしい。アレックスを膝枕してたはずなのに、いつの間にかアレックスじゃなくなってる。もっとずっと小さい。子供?
だけどこれは、アレックスと同じ髪の色。撫でるとサラサラしていて気持ちいい。かわいい寝顔もよく似てる。
ああ、そうだ。この子はアーサー。
アレックスと、わたしの子供。
すやすやと気持ちよさそうに眠るアーサーの顔をじっと見る。……かわいい。
見ていると、触りたくなってきた。……少しだけ頬を触る。ぷにぷにでやわらかい。
だんだん楽しくなってきてあちこち触っていると、とうとうアーサーはうるさそうに小さな手を振って、膝枕の上でもぞもぞと寝返りを打った。
落ち着かなげにあれこれ姿勢を変えてから、最後はわたしのおなかにぐりぐりと顔を押し付けて、安心したようにぷすぅーと息を吐く。
……ふふっ、くすぐったい。こんなところもアレックスにそっくり。
それからしばらくの間、触るのを我慢してアーサーのかわいい寝顔を眺めていると、やがて彼はうーんっと伸びをして目を開いた。
「……ん。かーさん? ……おはよ」
「うん。おはよう、アーサー。朝ごはん、食べる?」
「たべる。ぼくも手伝うよ」
アーサーはそう言うと、さっさとわたしの膝から降りて行ってしまった。むぅ。ちょっとだけ寂しい。
二人で台所に立つと、アーサーはまだ小さいのに慣れた手つきで火を興し、作りおきのスープを温めはじめた。わたしは卵を割ってオムレツの準備。
アーサーは鍋の底をかき混ぜながら、そのわたしの手元をじーっと見ている。
「……やってみたい?」
「うんっ、教えて!」
とても嬉しそうな笑顔で言う。……かわいい。……すごくかわいい。もう、なんて言うか、たいへん。
それからわたしはアーサーを手伝って、3つのオムレツを作った。ひとつは大きくて、あとの二つはそれより小さい。
できあがったオムレツは、形も火加減もなかなかの出来だ。小さな子が初めて作ったにしては、とても上手。……もしかしたら、初めてじゃないかもしれない。そこは謎。
アーサーは満足そうににこにこしながら、その一番大きなオムレツのお皿を持って、テーブルへと運んで行った。
そのテーブルで、先に座って待っていたのは、アレックスだ。
「とーさん。これ、ぼくが作ったの!」
「へぇーっ、凄いなアーサー。僕が作るオムレツより美味しそうだよ」
「えへへー」
アーサーの髪をくしゃくしゃとかき混ぜたアレックスが、おはよう、とわたしに微笑みかける。
わたしもそれに笑顔でおはよう、と返して、3人で食べる朝ごはんの準備を進めていった。
……しあわせ。好きな人と家族になって、みんなで一緒にいられる。胸の奥がじんと温かくなる。
……とってもしあわせ。まるで夢みたい。
◇
……夢だった。でも素敵な夢。
だけど覚めてしまって、ちょっと残念。
目を開けると、そこには窓の隙間から入ってきた朝日に浮かぶ、アレックスの寝顔がある。
わたしはアレックスのことが好きで、とっても大切。でも、アレックスはわたしのこと、どう思ってるんだろう? ……いま見た夢みたいに、わたしと家族に、なってくれるかな?
そのアレックスの向こう側には、癖のある真っ赤な髪が見えている。
この子も、アレックスのことが好き。……アレックスはこの子のこと、どう思ってるんだろう? ……やっぱり好きなのかな? わたしより。
……アーサー、かわいかったな。
わたしはアレックスを起こさないように気をつけながら、そーっと体を起こして、彼の頭の下に太ももを滑りこませた。
ゆっくりと指で髪をすくと、彼はもぞもぞと身動ぎをして、わたしのおなかに顔を埋める。吐息が温かくて、くすぐったい。
……うん。アレックスもかわいい。
◇◆◇
「やぁっ! ……たっ! はぁっ!」
可愛らしい掛け声と共に、娘のアンジェリカが次々に木剣を打ち込んできます。
アンジェリカはまだ5歳になったばかりですが、いずれ私のあとを継いで能天使となる身ですから、その力は普通の5歳児とは比べものになりません。私は油断することなく、丁寧にその剣を受け止め、捌いて行きます。
ですが、さすがに10分も休みなく剣を振るっていると、目に見えて動きが鈍ってきます。
そこで私はアンジェリカの剣を身を捻って躱し、手に持った木剣で彼女の頭をポカリと叩きました。
「いったぁーい! お母さま、酷いですぅー!」
「軽く叩いただけですよ。本当はそんなに痛くなかったでしょう?」
「…………はい」
少し厳しめの口調で指摘すると、両手で頭を押さえてうずくまり、泣き真似をしていたアンジェリカが立ち上がりました。やっぱり何ともなさそうです。
こうしたことは、私にも少しばかり身に憶えがありますからね。
「でもまあ、アンジェリカももう疲れたようですし、今日はもうこれで終わりにしましょうか」
「はいっ!」
さっきは窘められてしゅんとしていたアンジェリカが、それで急に元気になりました。ちゃっかりしたものです。
私は娘と手を繋ぎ、今日のこれからの予定を話しながらお屋敷に帰ります。とっても小さくて、柔らかな手。こんな小さな女の子に剣の訓練をさせるなんて可哀想だとは思いますけれど、こればかりは一族のしきたりですから仕方がありません。
……そうです! 私だって本当は、こんなに小さくて可愛い娘を木剣で叩いたりしたくはないんですよ。
ですが、私自身がそうだったように、この子が能天使となって悪と戦うことは宿命のようなものですし、実際にこの子はそのための力を持っています。
ですから、アンジェリカに戦い方を教えるのは私の義務なんです。この時ばかりは可愛い娘と言えど、厳しく接しなければいけませんっ!
「ねぇねぇお母さまっ。次のお休みの日には街に出てお買い物したいの。行ってもいい?」
「もちろんいいですよ。私が連れて行ってあげます」
「やったぁ! じゃあ、お父さまも一緒?」
「そうですね。私からお願いしてみましょう」
「わぁーい! お母さま、ありがとうっ!」
……ただその反動で、お稽古の時間以外はやや甘やかし気味なんですが。
ひょっとすると私のお母様も、昔は私に対してそんな気持ちで接しておられたのでしょうか?
こうして娘と手を繋いで歩き、楽しくお喋りをしながらそんなことを考えていると、なんだかとても不思議な気持ちになりますね。
「あっ、お父さまだ! おとーさまぁー、あのねーっ!」
するとそこへ向こうから歩いてくる人影があって、アンジェリカが私の手を振りほどいて駆けて行ってしまいました。
……まったくもう、しょうがないですね。
「アン、今日も元気だね。稽古が終わったのなら、これからみんなでちょっと出掛けようかと思ってるんだけど、どうかな、セシリア?」
アンジェリカの駆けて行く先には、そっくりな顔の男の子と手を繋ぎ、真っ赤な髪の女の子を肩車しているその人が、申し訳なさそうな顔で笑っています。
たぶん、エレオノーラあたりにねだられて断りきれなかったのでしょう。いや、もしかするとアンジェリカもグルなのかも知れませんね。
何せ彼は、私以上に子供たちに甘い人なんですから。
◇
ゴッッ!!
「あ痛たぁっ!?」
「グッドシーダー卿!?」
「大変だ! 衛生兵っ、回復術士、急げ!」
「マイク、貴様、なぜ剣を止めなかったかぁっ!?」
「ももも、申し訳ありませんっ! まさか当たるとは思いませんでしたので……」
うぅー。頭がズキズキします。
そう言えば今は朝のお稽古の最中でした。どうやら少しぼんやりしていて不覚を取ってしまったようです。
私の相手をしていた兵隊さんは絶望しきったような青い顔で膝をついていますし、ギャバン隊長をはじめ周りの皆さんも大騒ぎです。早く取り繕わないと。
「だ、大丈夫ですっ。考え事をしていて少し気を逸らせました。さぁ、続けましょうっ!」
「……だ、大丈夫なのか?」
「刃引きとは言え鉄剣だぞ。それが防具もない脳天を直撃したってのに……」
「深く考えるな。あのお方はグッドシーダー卿だぞ」
「……あ、ああ。……それもそうだな」
そんな兵隊さんたちの声を聞き流しつつ、私は大きく深呼吸をして心を落ち着かせます。
冷静になって、集中しなければお稽古の意味がありませんし、なにより相手を務めて下さっている兵隊さんたちに失礼ですからね。
じっと自分の鼓動に耳を澄ませると、それはいつもよりやや早く、体温も高いような気がします。やはり明け方、あんな夢を見てしまったせいで動揺しているのでしょうか?
あの夢…… 夢の中で私の娘が「お父さま」と呼んだのは……
ふぁわわわわわぁ……
「失礼ながらグッドシーダー卿。お顔が赤いようですが、熱でもおありなのでは? 今日の稽古はここまでになさった方が宜しいかと存じます」
「……そ、そんなに赤いですか? はわぁ…… えぇーと、……そ、そうですね、ギャバン隊長の仰る通り、少し体調が優れないようです。申し訳ありませんが、今朝はここまでということで」
「はっ! ……おい、マイクを立たせろ! 訓練上の事故だ、不問に処す。それよりも貴様、グッドシーダー卿から一本取ったんだぞ、胸を張らんか!」
「おお、そうだ! 卿のご不調が原因とはいえ、一本は一本だ!」
「ひょっとするとこれって、特務隊創立以来の快挙なんじゃねぇのか?」
「やったじゃねぇかマイク、今夜は一杯奢れよ!」
兵隊さんたちの騒ぎを背に、私は早足で中庭を出ました。
ああもうっ、困りました。考えれば考えるほど、胸がドキドキして息苦しくなってきてしまいます。もう外は肌寒いほどの季節のはずなのに、まるで真夏のような暑さです。
もしかするとお母様も、お父様に出会ったときにはこんなふうに感じられたのでしょうか?
…………えっ? それって…………
アレックスさんが、私の…………?
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