主役達の物語の裏側で 後日譚
アルゼンタムを離れ旅に出たアータシュとフレイアのその後の話
不遇な騎士の終わりと始まりの物語
瑠璃の水面を砕き、姿をやおらに現したのは異形なる触手を伸ばす。ぶよぶよとした頭部を持った怪奇なる海の魔物クラーケン。海中より生きとし生けるものを飲み込もうと十本の触手を振り上げたクラーケンによって、船の甲板が軋みながら揺れ始める。
まるで風に舞う木っ端かなにかのように翻弄される船と人間の叫びが辺りに響く。
「いかんッ!妾とてクラーケンほどの魔物を退けることは出来ぬ、アータシュは逃げるのじゃ!!」
立つことさえままならぬ狂騒の中で。不思議と彼女の声だけが自分の耳を打った。最初の揺れで床に打ち付けた頭からは。止める間も無く血が流れる。
だが、血で汚れた視界はそれでも。自分へと迫り来るクラーケンの触手を確りと捉えた。
巨体に似合わぬ俊敏なそれを静かに翡翠の瞳で見詰め。アータシュは間合いを開ける。
「なにをしておる···!!早く逃げるのじゃアータシュ!!」
焦りと恐れを滲ませた彼女の声に自分は何故だか笑っていた。
嬉しかった。ひたらすらに嬉しくて堪らなかった。
全てを手放して。身ひとつとなってしまった自分を省みてくれる人が。まだこの世に居てくれたことが何よりも身の内を喜びで燃やしていた。
「例えどんなに悲惨な目に会わされても。結局のところ私は誰かに仕えることを止められない質らしい。」
頭上を翳らす開閉を繰り返す吸盤のついたクラーケンの触手を目の端で捉えながら。私は背にした彼女へと振り向き笑った。
「──────私に命じてくれ、フレイア。」
この怪物を私に倒せと貴女が命じろと謳うアータシュに。彼女は一瞬、戸惑いに金色の瞳を揺らがせる。
やがて意を決したように声を張り上げてクラーケンを睨んだ。
「妾の名においてアータシュ・イェク・マフシードにクラーケン討伐を命じる。」
だから必ず生きてクラーケンを打ち倒し、妾に勝利を捧げよ!!
振り落とされたそれを交わし。滑つく触手を足場に変えて。遥かに聳えるクラーケンの頭部に跳躍しながらアータシュは愉しげに笑い声を上げた。
「ならば私は“我が名と誇り”に賭け貴女に勝利を捧げようフレイア!!」
大陸有数の貿易都市トルメキア。
ゆったりとした衣服に身を包み、照りつける日差しを避けるため頭部に布を巻いた人々が行き交うトルメキアの街の中を。一人の青年が歩いて居た。
目深に被ったフードを指先で僅かに押し上げると。彼は辺りから溢れる香辛料の香りと見慣れぬ形をした様々な野菜に目を細め。腕に抱えた日持ちする幾つかの食料が入った大きな紙袋を持ち直した。
不意に鼻を掠めた肉の焼ける匂いに釣られて。七面鳥ほどある巨大な鳥を鉄串に射して根気強く回転させながら。
滲み出した脂で皮が飴色になるまで焼き蒸すようにして燻製にしていた屋台の親父に、身振り手振りで買い求めることを伝えた。
『もしかして、旅行客かいお客さん?』
これはロック鳥の燻製で作るドネルケバブだよ。
『特別なタレを使ったうちのケバブは他の店にはない美味しさで病み付きになること必至だぜ!!』
屋台の親父は人好きのする笑顔で。平たいパンを二つに割るとスライスした酢漬けの玉葱を敷き詰め先程まで焼いていた鳥をナイフで削ぎ落としたものを挟むと。甘辛いタレをたっぷりと掛け渡してくれた。
『旅行客にはちょいとサービスってね。』
周りを見るとパンには少し多めに肉が挟んであるらしく。屋台の親父がサービスをしてくれたらしいと察して。彼は最近覚えたばかりの異国の言葉で礼を述べ。銭を払えば朗らかに笑い返し手を振って応える。
腕に抱えた食料も買うときに、幾らかのサービスを受けたのを鑑みると。この国は旅行客に優しい国なのかもしれないと笑い目礼をして離れた。
ロック鳥とか言う鳥の燻製は元は筋が多いようだが。長時間掛けてゆっくり焼くことで柔かくなり。肉本来の脂の旨味と。甘辛で仄かに舌がひりつくタレと。酢漬けにした玉葱の食感が口の中で合わさると何とも言えぬ旨さになるなと歩きながら舌鼓を打つ。
歩きながら食事を取ることにあまり慣れていないせいか、奇妙な背徳感がすると子供のようなことを思いながら彼は異国の料理を味わう。
ケバブをちまちまと食べながら。自分が歩いている街の通りに目を移すと。交易商の支店が多いのか肌色も言葉も多種多様な人々が行き交い活気が溢れて賑わっている様子が見て取れた。
ふと暫く歩いていると屈強そうな男衆が集まり路上の出店を覗いているのに気づき。興味本意で近づけば見慣れぬ曲線を描く剣が路端に並び鈍い光を放っていた。
(そう言えば。あの国から出奔する際に使い慣れた剣も置いてきてしまったんだった。)
此処等で新たに剣を買うのも悪くはないと。曲刀を持ち上げ光に翳し、刃先の鋭さを確かめていると。異国の人間だと見抜かれて街の男衆が手振りで異国の人間には扱い辛い剣だと教えてくる。
(確かに曲刀はまだ用いたことはないが。)
「問題ない。」
剣を見るため足元に置いていた紙袋から。小振りの林檎を取り出し、空に放ち曲刀を構えた腕を一閃する。
振るった通りに誤ることなく“賽の目状に切れた”林檎を確かめると。店子に曲刀の代金を払い腰に下げ。林檎を受け止めた食べ掛けだったケバブをひとつかじった。
「触れたら斬れる。」
剣はそれだけで十分だろうと呆然とする男衆に彼は背を向けた。
(思わぬ失費だが必要経費と割り切ろう。)
腰に下げた曲刀の重さを確かめながら歩いていると。道の先に立て看板が掲げられ人の目を引いていた。
寸の間、思案した後に人だかりを縫って看板を見上げると。遠き王国アルゼンタムから出されたと思しき一人の賞金首について情報と姿絵が一緒に貼り出されている。
賞金首の男はアルゼンタム王国軍【将軍】アータシュ・イェク・マフシードと言った。
王国アルゼンタムにて軍の将軍職でありながら。王家に不敬罪を働いたとして指命手配がなされているその人物は。
銀色の背中まである髪をひとつに纏めた。褐色の肌に彫りの深い顔立ちをした目付きが悪い翡翠の瞳をした男だった。
人々は手配書の絵姿を前に賑やかに言葉を交わす。
『なあ、父ちゃん。この指名手配犯は一体何をしたんだい?』
『さあなぁ。詳しいことはこれ以上は書かれちゃいないが賞金をえらく積まれたもんだ!』
そう親子連れが一年間は働かずに済む金額だと興奮したように話し合う後ろで。彼は口の端に付いたタレを舌先で舐めとり踵を返した。しかし、彼の足は一歩も歩かぬうちに止まることとなる。
背後にいつの間にか拗ねたような顔つきで腕を組む。燃えるような赤髪に金色の瞳を爛々と輝かせる女性がいたからだ。
「アータシュ、探したのじゃぞ!!まったくもー。お主、どこにいっとったのじゃ!?」
足音荒く近寄る彼女に思わず後ずさった拍子に目深に被っていたフードが外れ。銀色の豊かな髪が風に靡き、特徴的な翡翠の瞳に褐色の肌をした精悍な顔立ちが露になる。
「宿で待っていたんじゃないのかフレイア?」
そう言って手配書の男は困ったように。突然現れた連れ合いに苦笑を溢した。
「妾はお主の帰りがあんまりにも遅いから。なんぞあったのかと心配して探しに来たのじゃ!!」
そう、黙っていれば苛烈なほどの美貌であるというのに。子供のように分かりやすく頬を膨らませて彼に心配したと怒るフレイアにアータシュは目を瞬かせる。
「貴女が私を心配してくれたのか?」
「当たり前じゃ!お主は妾の大事な旅の供なのじゃからな!だというのにじゃぞ。妾を心配させておきながらお主は憧れの“買い食い”なるものをしておるではないか!!」
「そう言えば貴女も買い食いには縁がない良いところのご令嬢だったか。」
お主ばかりズルいのじゃーと駄々を捏ねる彼女に。紙袋からまだ湯気を立てる揚げドーナツのようなものを取り出して渡すと。喜色に目を輝かせるが妾はモノでは釣られぬぞと取り繕った。
「ま、まあ。特別に食ってやらんこともないのじゃ!!」
なんというか。この人はとても分かりやすい人だなとアータシュはまじまじと見詰めた。
こんなにも分かりやすい人だというのに。どうして人を陥れるような女性に見えたのだろうかと。彼女に悪の令嬢として冤罪を着せようとした人々にアータシュは首を傾げた。
今もかじった揚げドーナツから顔を覗かせた甘いアンズの蜂蜜漬けに。怒っていたことも忘れて満面の笑みを浮かべるフレイアからは悪意と呼べるものは微塵も感じられない。
良くも悪くも分かりやすいフレイアに。彼女を悪の令嬢とするのは些か無理があるのではないかとアータシュは一人頷く。
(だがその裏表ない分かりやすい性格に。あの時私は救われた。)
「なにを得心顔で頷いておるのじゃ?」
手についた揚げドーナツの砂糖の粉を舐めとり。アータシュが持つケバブを虎視眈々と狙い始めたフレイアに彼は慌てて話を変えて、矛先を逸らすことを試みる。
「どうやら私はアルゼンタムから賞金首として指名手配をされているらしい。」
そう言って手配書が張られた看板を指差せばケバブから目を離さずにフレイアは頷く。
「うむ、そのことならばお主を待っていた宿にも丁度手配書が回ってきたのでな。」
既に知っておるぞと胸元から手配書を取り出し。妾はお主が将軍であったなど知らなかったのじゃがと勢い良く詰め寄った。
「言うほどのことではないと判断した。」
私が抜けて明日明後日のうちに瓦解するような組織は作ってはいないとアータシュは首を傾げた。
「いや妾が言いたいのはそう言うことではないのじゃ!?」
「それに将軍の位階は王女との婚姻が前提条件だった。」
王女とは結局婚姻を結ばなかったのだから。将軍ではないと詭弁を弄するアータシュに。眉間を押さえながらフレイアは道理で手配書まで回してお主を国が取り戻したいはずだと唸る。
「それにしても、まさか二つ山を超えたこの国にまで私の手配書が回って来るとはな。」
王家の不敬に対する怒り具合を計り間違えていたようだとアータシュは喉で唸る。
「自分一人が爵位を返上し。国を離れさえすれば御子への非礼や王家に対する離反行為も咎められはしないと思ったんだが。」
生真面目な様子で考え込むアータシュに。幾ら王家預かりの身とは言え。たかが男爵家の末子を殴った程度で辺境伯であった彼を罪に処することは王家であっても難しかろうとフレイアは内心で首を傾げる。
(ましてや、婚約者を一方的な理由で奪われたとあれば非がどちらにあるかなど自明のことよなぁ。)
となればアータシュを罪人に仕立て上げてまで国に戻したい理由が。軍の将軍というだけではなく何か別にあるのかもしれぬとフレイアの脳裏に。彼と初めて会った日に垣間見た追跡の魔術が過った。
それが何かは分からないが。さんざんばらにアータシュを傷つけておいて今更都合よく手元に置こうとする行為が許せんとフレイアは鼻を鳴らす。
「それにしても私なんかの為に手配書まで出すとは可笑しなこともあるものだ。」
それほどまでの価値は私なんかにはないと。卑下するアータシュに対して。フレイアは最近分かったことだがこやつは自分自身を軽く見すぎておるようだと腕を組む。
長年に渡る貴族社会の軋轢により。軽んじられてきたところで精神的な支柱であった王家に裏切られたことで。自分自身を卑下するほどにまで誇りを傷つけられたのであろうとフレイアは嘆息する。
(どうにか傷つけられた誇りをアータシュに取り戻させてやりたいが。上手い方策が思い浮かばん。)
傍らに佇むアータシュを盗み見ながら。最初は良く似た境遇に対する同情だったとフレイアは述懐する。その同情が形を変えたのは何時からか。
どうにも旅を続けて行く内に。アータシュを見ていると胸の奥が何やらむず痒くなるようになり。気がつけば目で、耳で、肌で。彼を探すフレイアが現れた。
(この変化に名をつけるのはお互いにまだ時期尚早ではある。)
なにより彼女には彼に話していないことがあった。妾が魔族であることをアータシュは知らぬはずじゃとフレイアは目を伏せた。
魔族とは人間が住む人界の裏側の世界に生息する。知性を持った魔物の一種であり、魔王を頂点とした社会を築く者達のことだ。
幾つかの例外はあれど多くの魔族は魔界をでることはないが。
(その幾つかの例外が。魔王が人界を征服しようとした時と知性なき魔物が魔界を飛び出し暴れまわる時であるという。)
故に、人間は魔物である魔族を恐れるのだと。幼き頃より父母に言い聞かされフレイアは育った。
だというのに魔族を恐れる人間が住まう人界にフレイアが来たのは、女の一人旅には危険が付き物であるからだ。
旅をするのが人界ならば万が一道中で襲われても。彼女が魔族と知れば勝手に襲った人間が怖がって逃げてくれるだろうという目論見からだったのだ。
しかし思わぬ形でフレイアはアータシュという人間を供にした。
彼に自分が魔族であると伝えてしまおうかと嘘をつくのが苦手な彼女は何度も考えたが。真実を話した時にアータシュから多くの人間のように恐れられたらと思うと口を閉ざすしかなかった。
(妾はアータシュにまで嫌われたくはないのじゃ。)
「それにしてもアータシュ。どうしてこれほど買い出しに時間が掛かったのじゃ?」
心の迷いを誤魔化すように。そう問えばアータシュは微かに気恥ずかし気に鼻の頭を掻き。初めて訪れた異国の地の光景があまりにも新鮮で。ついあちこちに顔を出して時間を潰してしまったと翠眼を好奇心で染めてはにかんでみせる。
(何時かは話さねばならぬことじゃが。妾はアータシュのこの笑みを、もう少し見ていたい。)
「いかん。長居をし過ぎたようじゃな。」
フレイアはそう頷くと。手配書とアータシュを見比べ始めた視線から彼を守るように腕を絡めて足早にその場を駆け出した。
「フレイア?」
背丈の違いから半身身体を屈ませるアータシュに。フレイアは笑みを浮かべ視界に入った景色に腕を広げた。
「それにお主は忘れてはおらなんだか?」
通りを抜けた先にあったのは。貿易船で埋め尽くされ、水夫らが忙しなく行き交う波止場と。
「はしゃぐあまりにお主はこの国に来た目的をすっかり忘れておったようじゃぞ!!」
見渡す限りどこまでも広がり続ける。硝子の瑠璃を散りばめたような地平線だった。
「さあ、これが“お主が見たがった海”じゃ!!」
それこそが彼らを遥か遠きアルゼンタムより遥々やって来させた大きな理由だと。フレイアは傍らで息を飲んだアータシュに。どうじゃ、初めての海はと袖を引いた。
切欠は海を見たことがないというアータシュの言葉だった。
アルゼンタムから出奔して間もない頃に。フレイアはアータシュに行きたい場所はあるかと彼に訊ねると彼は躊躇いがちに海を見てみたいと彼女に告げた。
彼が騎士として仕えた王国アルゼンタムは。大陸の中央に近い内陸部に位置する国であったことから。今まで一度も彼は海を見たことがなかったのだ。
元々宛のない旅であったからフレイアは彼の願いを了承して。海を臨む国である交易都市トルメキアを一路目指す事にした。
トルメキアを行先に選んだのは交易都市として多くの人間が集まる国であることから。追っ手の目を眩ませるられるのではないかという魂胆からだったが。それは存外に早くアルゼンタムが手配書を回したことで無駄になってしまったと嘆息する。
「まるで空を映す巨大な鏡を嵌め込んであるみたいだ···!!このすべてが海なのか!すごい、すごいなフレイア!!」
翡翠の瞳を輝かせ。呆然と呟くアータシュにフレイアは振り仰ぎ。お主の念願が叶ったのじゃと笑った。
「さて、次は何がしたいアータシュよ?」
「フレイア。私は海を見れたことだけでもう十分なんだが。」
何がしたいかと聞かれて戸惑うアータシュに。彼女は直ぐには思いつかなんだかと苦笑を溢して。返事は後で構わないと笑う。
「気楽に考えるのじゃぞアータシュ?」
お主がどうしたいかを。妾は優先するとフレイアはアータシュの手を掴み微笑んだ。
「騎士を辞め、王家の忠誠より解き放たれたお主には。これから自分の意思で考え行動する自由と権利があるのじゃから!!」
観光客向けの遊覧船を見つけ嬉々として乗り込んでいったフレイアを追いかける形で乗船し。海上の身となったアータシュはマストに寄りかかりながらフレイアの言葉を静かに反芻していた。
紺碧の波間を船の甲板で歓声を上げながらはしゃぐように眺めているフレイアに。足を滑らせ落ちやしないかと見守りながらアータシュは自由と権利かと呟いた。
(これから自分が何をしたいかなんて考えたこともなかったな。私はこれから先。どうしたいのだろうか。)
そのことに改めて。自分が如何に王家への忠誠というものに縛られていたのかを実感するとアータシュは苦笑を溢した。
アータシュは突然与えられた自由を前にして戸惑っていた。
(あの全てが覆った日が無ければ。恐らく私は歴代のマフシード家の人間のように。王家の為だけに生きて死んで行っただろう。)
その生き方に。歴代のマフシードが敷いた道筋になんの疑問も抱かずにアータシュはこれまで生きてきた。
船縁から身を乗り出すように海面を見るフレイアに目を移し、危なげなその行動に肝を冷やし苦笑を溢した。
(フレイアはこのまま旅を続けて行くつもりだと言っていた。)
彼女と共に旅を続けるのも悪くはないと。むしろ自分はそれを望んでいるのではないかと。アータシュの視線に気づき此方に振り向くと手を振り出したフレイアにぎこちなく手を振り返す。
だがそれで本当に良いのだろうかと彼は内心で自問自答する。
(自分は誰かに仕える生き方しか知らない。)
自由を得たとて、今更その生き方を変えられるとは到底思えないとアータシュは自嘲する。
そもそも器用に生き方を変えられていたならアータシュは国を出奔してはいなかっただろう。
(ならば、また誰ぞかに仕えてみるか?)
しかし、主君と仰ぐ人間に関しては少々疑り深くなっている自覚もアータシュにはあった。
裏切らないと確かな信用が持てない相手に仕えることなど出来ようはずがない。
(フレイアが相手だったなら喜んで仕えたかもしれないがな。)
その考えは何故だか奇妙に腑に落ち。アータシュを動揺させる。
確かに彼女なら旅を通して人となりを知っている上に。決して彼を裏切るような真似はすまいと確信し信用している。
(だが、こんな何も持たない私を臣下になど好き好んで選ぶ人間など居よう筈がない。)
身ひとつで国を出奔したことを。アータシュはこの時になって初めて後悔した。
(私にあるのは騎士として生きた経験だけだ。)
人知れず暗雲を背に負い考え込むアータシュを見ていたフレイアは。何やら難儀なことに頭を悩ませておるなーと小さく苦笑を溢した。
実のところフレイアは何がしたいとアータシュに問いかけた時に。騎士として誰ぞかにまた仕えたいとアータシュが望むものとばかり思っていたのだ。
長年、騎士として王家と国に二心なき忠誠を捧げたアータシュはかつて一国の宰相であった父を持つフレイアの目から見ても。このまま埋没させるには惜しい逸材であると思えた。
二心なく、身命を賭して主君に仕えるということは。言葉にすることは容易くとも実践となれば何よりも難しいことに変わる。
(だがアヤツならば成し遂げるであろうと妾は確信しておる。)
裏切られることの痛みを知るアータシュならばと。それに何よりもアータシュは誰かに仕えることで真価を発揮するタイプの騎士であると彼女は見ていた。
(じゃから、アータシュが旅を止め。再び騎士として国でも人でも仕えたいと思うのならば応援すべきだと。)
そう思っているのにアータシュが自分の許から去り見知らぬ誰かに頭を垂れる姿を見るのは。何故だか酷く辛いことのように感じてフレイアを悩ませた。
(いや、まあ。本当は分かっておるのじゃよ?アータシュにとって何が幸せであるのかは。)
ましてや秘密を抱える妾の傍にいるより。そちらの方が幸せじゃろうとため息を吐き。フレイアは儘ならぬなと紺碧の海に目を落とし船を取り巻く異変に気付いた。
(船の周りの海面が滲むような黒色の何かに浸食されていく?)
目を凝らすより先に船底から突き抜けるような衝撃が襲った。立て続けに五度。上下に激しく揺れる中で船縁を掴んでいた手が外れて、フレイアの体が宙に浮き上がる。
その瞬間、彼女は水面に打ち付けられることを覚悟して目を固く瞑った。
「フレイアッ!!」
彼女がフレイアが船縁から滑り落ちる姿に。身体はあれほど悩んでいたことさえも忘れて騎士として長年に渡り身に付いた思考に沿ってアータシュは動いていた。
(結局のところ私には“この生き方”しか出来ないらしい。)
「いや、それでは少し違うな。今度は“自分の意志でこの生き方を選んだ”のだから。」
宙を浮いた小さな身体を強く抱き締め彼は晴れやかに笑った。
何時まで経っても身を震わす衝撃がないことにフレイア恐々と目を開き息を飲んだ。
「ぐッ···!無事か、フレイア!!」
「お主、頭から血が流れてッ!!」
マストから甲板の船縁まで距離があったというのに。彼女が海に落ちる寸前。あわやで間に合ったアータシュが。彼女を抱き抱えると直ぐ様、床を蹴り飛ばして。船縁から間合いを取って落下を防いだのだ。
「視界が塞がれなければ支障はない。」
勢い良く貨物に打ち付けた頭から流れ出す血を拭うこともせずに。アータシュはフレイアを背に庇い。腰に佩ぶいた曲刀を抜き身を低く屈める。
そして、“それ”はゆうるりと彼等の前に這い出て来たのである。ぶよぶよとした奇怪な頭部と。十本に分かれた腐臭漂う触手には開閉を繰り返す鋭利な吸盤がある。その生き物の名はクラーケン。
「クラーケンが何故に斯様な場所におる!?」
説明をと視線で語るアータシュに。フレイアは驚愕そのままに本来クラーケンは魔界か。人の手が及ばぬ深海に生息しており。滅多なことでは人間の生活圏には現れぬのだと。
「そうクラーケン族の長が魔界を統べる魔王と誓約したのだと聞き及ぶのじゃ!!」
クラーケン族は誓約をことの他重視する一族であるはずだとフレイアは青ざめる。
「ましてや魔王相手に結んだ誓約を破るなどあり得ぬ!!」
魔界で異変が起きているとでも言うのかと。焦りを彼女は滲ませクラーケンを睨む。
「貴女は魔物について詳しいんだな。」
そうアータシュに告げられたところで。フレイアは知られてはならないことをアータシュに知られてしまったと顔色を失った。
(アータシュに妾が魔族だということを知られてしまった?)
ましてや今目の前に現れた醜悪な魔物と同じ存在であるとアータシュに拒絶されたら。フレイアは恐怖に身を強張らせた。
「フレイア、」
だが、アータシュは気まずげにその事なのだがと頬を掻いた。
「貴女が人間ではないことは知っていた。」
「·················な、なんと!?何時からじゃ!!?」
「かなり、その。うん、初めて会った時からだな。」
そう言って拒絶などではなく温かな手をフレイアの頭に置いた。割りと貴女は魔族であることを隠せては居なかったが。自覚していなかったのかと。
最初にアルゼンタムで出会った時。人間にしては可笑しな発言が多々あったからと苦笑を溢すアータシュに。フレイアはだとしても妾が恐くはないのかと泣き出しそうな顔で言い募る。
「私は自分の“恩人”を恐がるほど薄情ではない。なによりも貴女は、優しいひとだからな。」
「優しい、か。そんな風に褒められたのは初めてじゃなぁ。」
アータシュの言葉にフレイアがくしゃりと笑うのと。ぞろりぞろりと船を締め付けていたクラーケンが触手を振り上げたのは同時のことだった。
「いかんッ!!妾とてクラーケンほどの魔物を退けることは出来ぬ、アータシュは逃げるのじゃ!!」
アータシュは一瞬でフレイアを後方の安全圏に連れて行き。非戦闘員は下がっているように促して彼女目掛けて迫った触手を斬り捨てた。僅か一振、その斬撃だけで。
「例えどんなに悲惨な目に会わされても。結局のところ私は誰かに仕えることを止められない質らしい。」
「アータシュ?」
そう諦めるように。或いは受け入れるように彼は屈託なく笑う。
全ての憂いを振り払い。声を張り上げたアータシュにフレイアは言葉を無くした。
「──────私は騎士という生き方しか出来ないんじゃない。」
銀糸の髪が翻る。フレイアからは背を向けクラーケンと相対する彼の顔を見ることは出来ない。
「私が騎士として生きていきたいんだ。この命を捧げるに値する主に忠義を尽くすことが私の、そしてマフシードの誇り。ようは、まあ。骨の髄まで騎士なんだよ。私という男はな。」
それでも彼が笑っていることだけは。その翡翠の瞳が海をみたときのように輝き。
「フレイア、これが私のやりたいことなんだ。」
アータシュが誇りを取り戻し。騎士に立ち返ったことだけは理解出来たから。
ならばフレイアがアータシュに伝えられることはひとつだと。目に込み上げたものを手で払うとフレイアは高らかに謳った。
「妾の名においてアータシュ・イェク・マフシードにクラーケン討伐を命じる。」
だから必ず生きてクラーケンを打ち倒し妾に勝利を捧げよ!!
「ならば私は“我が名と誇り”に賭け貴女に勝利を捧げようフレイア!!」
獰猛に犬歯を剥き出しに笑い。彼は迫り来るクラーケンの猛攻を意に介することなく曲刀を無尽に振るう。
「クラーケンの弱点は他の部位に比べて柔らかい頭じゃ!!」
そのフレイアの声に。斬り落とした触手から吹き出る青い血に全身を濡らしながら間合いを詰め。アータシュは粘つく触手の上を滑り落ちるよりも早く駆けて遥かな頭頂部を目指す。
「フレイア!もうひとつ貴女に聞きたいことがある!!」
貴女のフルネームはなんだと叫んだアータシュにフレイアもまた声を張り上げた。
「妾の名はフレイア、フレイア・フォン・ポーラル・シュルテンじゃッ!!」
やがてアータシュの狙いに気付いたクラーケンが。身体を震わせ鼓膜を割くような咆哮を上げたが。既に事は結していた。
「──────お前が生まれた海に堕ちるが良い。」
斬りつけた傷口を足場にして。アータシュはクラーケンの頭を左右に切り開いた。
「よもやクラーケンを人の身で降すものがおるとは!!」
巨大な水柱を上げて海中に沈むクラーケンを見送ったところで。フレイアはアータシュの姿が見えないことに気づき青ざめた。
「まさかクラーケンの下敷きに!?」
船縁に駆け寄り勢い良くアータシュを呼ぼうとした彼女の横から。海水でも洗い落とせなかったクラーケンの血にまみれた手が伸びた。
「アータシュ、無事だったのじゃな!!」
「無事だ。それと先程、知ったんだが。私は泳げないらしい。」
うっかり沈みかけたと真面目な顔で言うアータシュにフレイアは脱力し苦笑する。
「なにはともあれ。お主が生きていて良かったのじゃ。」
床に座り込むフレイアの前に。曲刀を置きアータシュは徐に膝を着き、頭を垂れ。胸元に腕を当て朗々と謳い上げる。
「私、アータシュ・イェク・マフシードは終生変わらぬ忠誠をフレイア・フォン・ポーラル・シュルテンに捧げることを誓う。」
かつて彼を縛っていた言葉をアータシュは自らの言葉に変え。己の意志に従い我が身をフレイアに差し出す。
アータシュの言葉にフレイアは瞠目して。妾を主に選ぶのかと声を震わせた。
「それに妾は魔族で。それにお主の忠誠に見合うものなど!」
「全てを承知で私は貴女を選んだんだ、フレイア。それに私の意志を優先してくれると言ったのは他でもない貴女だ。」
熱を帯びた翡翠の瞳で見詰めるアータシュに。フレイアは折角自由を得たのに再び囚われるのを望むなど。お主は物好きじゃと泣き笑いを浮かべた。
「言っておくが妾の臣下となったなら。お主がどんなに嫌がっても絶対に絶対に手放してなんかやらんからな!!」
「手放されても困る。貴女以上に仕えたい人には二度と会えはしないだろうからな。」
泣き顔ではしまらんと目を擦り。フレイアは曲刀を両手に捧げ持ち、跪いたアータシュの肩に軽く置く様に叩く。
「アータシュ・イェク・マフシードを妾の騎士として認めよう。どこまでも誇り高くあれ、妾の最愛なる騎士よ。」
噛み締めるようにアータシュは翡翠の瞳を瞬かせると。剣の刃に口付けて柔かにフレイアへと微笑んだ。斯くして仕えるべき相手に裏切られた不遇なる騎士の物語は終わりを告げた。
しかし波乱で始まった物語が穏やかに終わる筈もなく。
「その女は誰ですのアータシュ様?」
握り締めた水晶玉が映す光景が信じられず。アルゼンタムの王女フィーネは爪がひび割れ血を流すのも気づかずに歪んだ弧を口元に浮かべた。
「やはり人に任せるだけではいけないようですわ。」
水晶玉を高く掲げ躊躇いなく床に落としたフィーネの淀んだ目が砕けた欠片に幾重にも映り込み不吉な予兆のように輝いた。
「幸い居場所を知ることが出来ましたし、早速トルメキアに参るとしましょう。」
アータシュ様の目を醒まさせる為にも。
「どうかしたのかフレイア?」
クラーケンの件が騒ぎになったことを受けて。トルメキアを去ることにしたアータシュとフレイアは次の行先を夜営しながら話し合っていたのだが。突然奇妙な怖じ気が襲いフレイアの背中を震わせた。
「いや、なに。女の情念を感じ取って寒気がしたのじゃ。」
「良く分からないが焚火の火を少し強くしよう。」
それからとアータシュに意図も容易く引き寄せられ。膝の上に抱き抱えられたフレイアは顔を真っ赤にして。いきなり何をするのじゃとわたわたと身を揺する。
「こうしていれば風避けになるかと思ったんだが?」
他意を一切含まない翡翠の瞳に。お主、実のところ相当な天然じゃろう。それでよくよからぬ輩に無体を働かれずに済んできたなと目を遠くさせた。
それにしてもなんだか世界の裏側にまで着いてきそうな執念染みた殺気だったと。先程の悪寒を思いだしフレイアは腕を擦り。顔をひきつらせたが奮起するように頬を叩き気合いを入れて誓う。
「相手が何であれ、妾に負けるつもりは全くこれっぽちもないのじゃがな!!」
「ん?ああ、そうだな。フレイアは私が出会った女性のなかで一番の美女だし。フレイア以上に惹かれる人間も居ないだろう。」
「そーいうとこじゃぞアータシュぅ!!」
既に新たな物語が始まりを見せてはおりますが。一先ずはこれにて終幕と致しましょう。
これにて不遇な騎士アータシュの話は一先ず終わりになります。