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●第二章
二学期が本格的に始まった。提出した夏の課題と、それにまつわるお小言の一日だったと帰宅の道すがら満は思う。陽射しは傾けど、夏の名残がじっとり首筋を汗で濡らす。セミもまだ引退する気はなそうだ。部活は第二美術室で追加作業分の企画書制作をするトイチを手伝い、パーツのあちこちを指示されるままに測ったりして終った。だらだと歩いていると、家の前でやはり帰宅途中の妹とかち合った。ミチ子は同じ部活の先輩、四方田カオリと一緒だった。二人とも揃いのショートカットで、仲の良い姉妹に見える。実際、ミチ子はカオリのことを「お姉ちゃん」と呼ぶことがある。
隣家の一人娘であるカオリと満は、母親同士が古くからの友人であり、就学前はよく遊んだ。当時のカオリは身体の弱い女の子だった。外で走り廻るより、どちらかの家を行き来するようなことが多かったように思う。いつの頃からかミチ子も加わるようになり、カオリを実の姉のように慕い、いまでは同じ水泳部に所属している。
「おかえりぃ」ミチ子が陽気に手を振った。自宅前でそれはないだろうと思いつつ「ただいまおかえり」一度に返すと、カオリは「わたしはこれで、」と妹のそばをついと離れ、満の横を通り抜けた。かすかにプールの、塩素の匂いがした。カオリは自宅に入るや否や、ガチャリと音を立てて鍵を締めた。その音は、満を締め出されたような気分にさせた。
「お兄ちゃん、」妹に呼ばれて玄関を見遣ると、「鍵、持ってない?」
「また忘れたか」しょうがないな、と通学鞄の中から鍵を出し、誰もいない、ムッと残暑の熱を貯め込んだ家に一緒に入って、「ただいま」と靴を脱いで揃えた。横に屈む妹からもほのかにプールの匂いがした。
満たちが住むのは、国立の総合大学を中心として作られた研究学園都市だ。市内には、バイオ、ケミカル、アトミック、素粒子から農業、工業、医療に宇宙開発と、ありとあらゆる分野の研究施設が点在する。雑木林ばかりの何もない土地を切り開いて作られたので、いずれの施設も緑豊かと云うより、森の中に研究棟が建っていると云った様相を呈している。
必然、大学関係者、研究職員などを親に持つ子供が多い。満の両親は共に研究所勤めで、施設の一般公開を間近に控え、なにかと忙しいらしい。と、云うか、それを理由になんだか子供たちをほっぽっているんじゃないかと思うくらいに、お祭り気分になっているのが分かる。月末の公開日が終るまでそれは続き、例年通りなら終わったあとも半月くらい燃えつき腑抜けになるはずだ。
二階の自室で着替え、ハーフパンツとTシャツ姿で一階に降り、中身の溢れそうな脱衣カゴに制服のカッターシャツを乗せた。あとで洗濯機を廻さないといけないな、と思った。
冷たいもので咽喉を潤したくてリビングに入ると、エアコンが盛大に唸っていた。妹は続きのダイニングキッチンにいた。丈の長いTシャツ姿で、テーブルに手をつき、裾から黒く日に焼けた細い足がすらりと伸びている。台所の給湯パネルにランプがついているのを見て、これからシャワーを浴びるつもりにしても、その格好はどうなのだ。
不意に振り返った妹は「お兄ちゃん!」物凄い剣幕でメモ紙を突きつけてきた。
「なんだよ」水切りから取ったグラスに麦茶を注ぎながら受け取った。
メモには父のひどいクセ字でこうあった。
「娘へ。甘い誘惑に勝てなかった父と母を許してくれ。愛してる。父」
あの夫婦は。またやらかした。ミチ子が乱暴に冷凍庫を開けて、「ない!」叫んだ。「あたしのチョコチップクッキーがない!」
テーブルの上には、これまたいつも通りにお金が置いてある。食べた分以上の金額は、謝罪でなく余剰ストックの要求だ。
満はきゅーっと麦茶を飲み干し、「買ってきてやるから、さっさとシャワー浴びて塩素、落としてきなよ」
「え、そう?」えへへ、と嬉しそうにミチ子は笑って、「ありがと」あっさり機嫌を直した。
コンビニの方が近いが、自転車にまたがり少しばかり足を伸ばし、ドラッグストアで父と母を狂わせた甘い誘惑アイスを買うことにした。距離の分、差額でひとカップ余計に購入できる。父の置いた金額分を目一杯使って、チョコチップクッキーの他に抹茶とストロベリー、バニラ、それから自分用にチョコミントを選んでドライアイスを多めに貰った。
飲んだ麦茶を汗にして帰宅すると、すっかりクーラーの冷気で心地いい温度になったリビングのソファにカオリが座っていた。ライトグレーのタンクトップの上に、ベピーピンクの薄手のカーディガン。カーキ色のクロップドパンツから妹と同じく日に焼けた脛が見えた。
カオリは満を一瞥すると「お邪魔してます」小さく挨拶、視線を手にした黄色のケータイに戻した。ローテーブルには、残り少ない麦茶にストローの刺さったグラスがあった。
満は冷凍庫の中身を整理しつつ、今し方買ってきたアイスを並べ、「ミチ子は?」姿の見えない妹を訪ねた。
「お買い物」
「はぁ?」どんな入れ違いだ。アイスを買ってきた兄の優しさを炎天下の陽炎にするのか。
「お夕飯に呼ばれたから」
あ、はい。ソウデスカ。
カオリの家も、満の家と余り変わらない。母親は満の母と同じ研究所勤めで、父親は大学勤めである。
さすがに説明不足だと感じてか、カオリは云った。「今日はお父さん、帰り遅いってメールがあって、」
あ、はい。ソウデスカ。
六文字家は、一歩間違えればネグレクトでないかと疑いを持たれるほどに両親は勝手気ままだ。しかしみっちりきっちり子供たちに家事一式を幼少の頃から叩き込んでおり、特にここ数年を鑑みるに、その結果の実践が顕著になったと思う。
「お茶のお代わり、いる?」
「うん」
冷蔵庫から取り出した麦茶パックの浮かぶ円筒ガラスの水出し茶ポットと、自分の分のグラスを持ってカオリの斜向かいに座った。カオリはケータイをテーブルに置き、グラスを指先で押しやった。麦茶を注ぐと中でストローがくるりと踊った。
二人で黙って麦茶を飲んだ。窓越しにエアコンの室外機の唸りとセミの鳴き声がした。
何だか気まずい。満は思った。