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その画材店は「A&Cファクトリー」と書かれたポップな看板を掲げている。杜須吾郎と明美夫妻が経営する小さな一戸建ての、可愛らしいお店だ。近隣の学校やカルチャーセンターに画材の卸しなどをするが、夫婦ともにイラストレーターとして、ムックや単行本、雑誌の表紙やカット、行政関係のパンフレットなど幅広いフィールドで活動している。吾郎の立体作品と明美の平面作品を融合させた合作も多い。
現在、明美は週に一度、近所のモール内にあるコミュニティルームにて主婦層メインの絵画教室をやっている。昔は吾郎も工作教室を開催しており、そこで満とトイチは知り合った。今はもう生徒の集まりが少ないので閉鎖されてしまったが、未だに二人は足しげく通い、満は素材や道具の消耗品を、トイチは絵の具やイラストボードやカンバスなどを購入し、ついでにそれぞれ行き詰まった作品の相談をしたりする、今なお二人にとって杜須夫妻は「先生」だった。もとが小さなお店と云うことを差し引いてもフランクで、満たちが顔を出すとお茶とお菓子で歓待してくれ、世間話をしたり、制作途中の作品やクライアントのやりとりなど、抱えている案件の裏話を面白おかしく語ってくれる。二人にとって、プロの製作現場を間近で見られるのは、購入品目以上に得るものが多い。
満が紙を使った造形を始めたのは吾郎の工作教室に因るところが大きい。教室は二人が小学校高学年に上がる頃に終わった。小学校が別々だった満とトイチは数年のブランクののち、中学で再会し、同じ部活に入った。満が変わらず造形を続けていた一方で、トイチは絵画に転向していた。しかし造形の影響を満はトイチの描く世界の中に見ていた。友人は立体造形を平面の中に落とし込んでいた。
トイチが扉を開けようとすると、中から殆どドアベルを鳴らさずに赤いメガネをかけたボブカットの女がつるりと出て来て、扉が閉まるのと同時にぶつかり、「あうっ」はね飛ばされて派手に尻餅をついた。海外のバンドロゴの入ったピンクのTシャツの上に黄色い半袖のチェック柄ブラウス、ボトムスは多分に色褪せたローライズのジーンズ。ラフさより無頓着さが滲み出る。落としたネイビーのデジタル迷彩柄トートバックからペットボトルが転がり出た。「いったぁ、」
「大丈夫ですか」
屈んだトイチの巨体に少し臆してか、その女はメガネ奥の目を大きくし、「え、ええ」しかし差し出された手に掴まり、助け起こして貰った。満はごろごろと転がったコーラのペットボトルを拾い、衝撃で内圧の高くなったそれをジーンズの尻を払い終わった女に手渡した。
「ありがとう」女は微笑み、トイチにもう一度「ごめんなさい」と謝ると、足早に停めたシルバーの軽ワゴンに乗り込み、エンジンをかけえるや否やトップスピードで道路に飛び出した。
「四人目だ」満が云うと、トイチはどうにも情けない溜め息をついた。ちょっと不憫に思った。
チリン、とドアベルを鳴らしながら二人が入店すると、お店のロゴが金糸で刺繍された濃紺のエプロンを着た明美先生が「いらっしゃい」と朗らかに出迎えてくれた。店内は画材や道具の販売だけでなく夫妻の作品ギャラリーも兼ねており、ポップでファンシーな作風が店内の印象を明るく賑やかにしている。
「こんにちは」
挨拶して、満はデザイン(アート)ナイフの替え刃を二ケース買い求めた。トイチが「吾郎先生いますか」と訊ねると、明美は奥のアトリエを目顔で示し、「吾郎ちゃん、トイチくんが用あるってー」
おーう、と奥から吾郎の返事を訊き、明美の「どうぞ」の言葉に、大きな身体で狭い通路を器用に横切り、店舗とアトリエを区切る暖簾くぐった。
明美はレジ横の小さなテーブルに満を誘い、対面に自分も座りながら訊ねてきた。「順調?」
「まだ文化祭まで時間あるんで、予定通りの五体、出品できるかなと」
「予定は未定だよ」あはっと笑う。
「いやでも、もう一体は殆ど完成しているようなもので、他も平行して作ってるから、」なんだか言い訳じみた返事になってしまった。「連作だからやっぱ揃えたいんで、」
「でもそれだけじゃないんでしょ?」
「そっちはあらかた終わってるし、」満は暖簾の向こうに目を向け、「メインはトイチだから」
「トイチくんは大丈夫かな」
「あいつ、手を付けるまでは遅いけど、始めたら直ぐなんですよ」
実際、物凄いイキオイで作品を仕上げるのを幾度も見た。ボードやカンバスの上で踊るような筆捌き。迷いの無い線と面の塗り。真っ直ぐで最短で最速の制作は、いつでも見惚れてしまう。
そうだねぇと明美は同意する。「モンジくんは作りながら考えるタイプだけど、トイチくんは先にきっちりかっちり手順仕上げて、ほんと実作業だけって感じだよね」
「ですねー」
「だからね、モンジくん」明美はびっと指さし、「君はギリギリで結局間に合わないかもだよ」
「やめてくださいよ」不吉な。とは云え身に憶えが多々あり、もちろん今回もそんな予感をじわじわと感じているので余計だ。
「五体作るぞって気持ちはいいと思うけど、無茶するよりも、絞って作り込むのだってアリじゃない? 完成させることが一番だと思うよ」
「ですよねー」
「わたしも駆け出しの頃ひどい目に遭ったよー」と明美は過去に受けた案件の酷い顛末を語ってくれた。正直、プロの世界は厳しいとか辛いってレベルじゃない、と満はいつも思う。不条理がまかり通る恐ろしい業界に、身震いせずにはいられなかった。
「作品点数にこだわるより、どれだけ思い入れをぶっこむかでいいんじゃないかな」
「ですよねー」同意しかけて、「なんか負け戦、確定みたいじゃないですかっ」
「いやいや」明美は悪びれた様でなく、「がんばれ、がんばれ」無責任に云った。「困ったことがあったらいつでもおいでよ。旦那が助けてくれるからっ」夫の吾郎に丸投げた。
「紙は足りてる? 他に入り用ございませんか?」明美のニコニコとした問いに、満は自宅の棚を思い浮かべ、「大丈夫ですね」云って思い当たった。「スチレンボードがちょっと心もとないかな」
「買って行く? 厚さは?」立ち上がりかけた明美を制し、「三ミリ厚ですね、その時はまたお邪魔しますし、一ミリもついでに必要かもしれないので」
そっかそっか、と「いつでもおいで。在庫は心配しないでいいよ、品切れても旦那の分、売ってあげるからっ」
アハ、と楽しげに笑う。この明るさが作風にも多分に影響しているのだと、満はいつも思う。
「そうだ、こう云うの興味ある?」
明美は腕を伸ばして、A4に断裁された各種ファインペーパーの棚の上からA3サイズのクラフト紙の薄い包みを取り出した。