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ある聖戦の裏側で  作者: 雨杜結依
英雄はまだ人間だった
9/19

第玖話 「……透ってあったかいよね」

雨上がりの夜だった。


昼間まで街を濁らせていた雨雲はもう流れていて、窓の外には、洗い残しみたいな湿った風だけが残っている。

アパートの鉄階段を誰かが降りる音がした。


ギィ、と古い金属が軋む。その音のあと。

部屋のドアが、ゆっくり開いた。


「……ただいま」


依里の声は、少し掠れていた。


振り向く。

制服。濡れかけた前髪。肩から提げた軍用ケース。

外見だけなら、どこにも異常なんてない。

でも、玄関に立つ彼女の輪郭は、最近ずっと薄くなり続けていた。まるで、人間の形をした霧みたいに。


「遅かったな」


「うん。今日ちょっと長引いて」


依里は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。


「なんかさ。今日、すごい冷える」


六月の夜にしては、確かに風が冷たかった。窓の隙間から入る湿気が、畳の匂いを重くしている。

依里は自分の腕を擦る。


「寒い?」


「うーん……なんか、変な感じ」


笑いながら言う。その笑い方が、最近どんどん上手くなっていた。



電気ケトルが沸騰する。

白い蒸気が、薄暗い部屋へゆっくり広がった。

棚からマグカップを二つ取り出し、インスタントの紅茶を開ける。


依里は床に座ったまま、ぼんやり両手を見ていた。


「ほら」


「あ、ありがと」


カップを受け取る。その瞬間だった。


「……え」


依里が少しだけ首を傾げた。


「どうした」


「いや……」


彼女はカップを両手で包んだまま、不思議そうに瞬きを繰り返す。


「熱く、ない」


喉の奥がひどく重くなった。依里は困ったみたいに笑う。


「えー……またかなぁ。最近ほんと変」


「冷房で感覚鈍ってんじゃねえの」


「かなぁ」


依里はそう言って、何気なくカップの縁へ指を添えた。

数秒後。


「あっ」


慌てて手を引く。指先が、じわりと赤くなっていた。


「……熱」


「だから言っただろ」


「いや、全然分かんなかった……」


依里は自分の指先を眺める。

痛みはあるらしい。でも、その前段階の「温かい」が、綺麗に抜け落ちている。

まるで、人間の感覚だけを、選別して剥がされているみたいに。



「透」


依里がぽつりと言った。


「手、貸して」


「……手?」


「なんか寒いから」


少しだけ迷ってから、依里の隣へ腰を下ろした。

彼女の手を取る。


細い。柔らかい。少し冷えている。

ちゃんと、生きている女の子の手だった。俺はその両手を、自分の掌で包み込む。


「こうしとけばそのうち温まるだろ」


「うん」


依里は小さく頷いた。


沈黙。

窓の外で、どこか遠くの車が水たまりを踏み潰す音がした。

俺は、依里の指先を少し強く握る。繋ぎ止めるみたいに。この温度だけは奪わせないと、祈るみたいに。


「……どう」


「え?」


「少しは温かいか」


依里は、自分の手を見下ろした。それから、少し困ったように笑う。


「……まだ、冷たいかも」


指先が、じわりと冷えていく。



何秒経っても。どれだけ握っても。

依里の表情は変わらなかった。


昔なら、冬の帰り道なんかで手を繋ぐと、依里はすぐ「熱っ」と笑っていたのに。

今は、自分の手首から先が、本当に存在しているのか確かめるみたいに、ぼんやり指を見つめている。


「……ねえ透」


「ん」


「なんかさ」


依里の声は静かだった。


「自分の手、どこにあるのか分かんなくなる時あるんだよね」


息を止める。


「軽いっていうか……ちゃんと触ってるはずなのに、何も触れられてないみたいで」


依里が小さく笑った。


「変だよね」


変じゃない。壊れてる。お前はもう──そこまで喉元まで出かかった言葉を、奥歯ごと噛み潰した。



依里の頬へ手を伸ばした。

少し冷たい肌。けれど、その感触は妙だった。柔らかいはずなのに、どこか、生身の「返し」がない。粘土細工に触れているみたいだった。


「……冷た」


呟く。


「そう?」


「お前、身体冷えてんだよ」


「そっかぁ……」


依里はされるがまま、頬へ俺の手を擦り寄せた。でも、その目はどこか遠い。


「なんかね。お湯なのか、氷なのかも、よく分かんない」


その瞬間、胸の奥で、何かがぐしゃりと潰れた。



依里は、自分が崩れていることをまだ理解していない。理解しないようにしている。

だから、俺も嘘を吐く。

味覚の時みたいに。色彩の時みたいに。音楽の時みたいに。また。


「悪い」


笑った。


「私の手、外いたから冷えてんだわ」


「え、ほんと?」


「ああ。だから分かりづらいんだろ」


依里は安心したように肩を抜く。


「なんだぁ……びっくりした」


その顔を見ていると、吐き気がした。

安心させるための嘘。守るための嘘。そんな綺麗な言葉じゃない。

本当はただ、依里が壊れていく現実を、自分が見たくないだけだった。



依里はそのまま、私の肩へ少し体重を預けた。


「……透ってあったかいよね」


反射みたいに言う。でも、その声には確信がなかった。記憶の中の「温かい」をなぞっているだけだ。もう感じられていない。


黙ったまま、依里の手を握り続けた。強く。指が壊れそうなくらい。


それでも、自分の温度が、依里の中へ一ミリも届いていない気がした。

抱き締めても。触れても。隣にいても。

依里は少しずつ、人間の外側へ落ちていく。


その事実だけが、湿った夜気みたいに部屋へ満ちていた。

窓の外では、また小さく雨が降り始めていた。

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