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ある聖戦の裏側で  作者: 雨杜結依
英雄はまだ人間だった
8/19

第捌話 「私には、ただの騒音にしか聞こえなくて」

夜の雨は、世界の輪郭を曖昧にする。


窓ガラスを叩く水音が、六畳一間の安アパートを白く閉ざしていた。

外を走る車の音も、遠くのサイレンも、全部、分厚い雨幕の向こう側へ沈んでいる。


テーブルの上では、電気ケトルが小さく湯気を吐いていた。

依里は、床に置いたクッションへ膝を抱えるように座り、濡れた前髪をタオルで雑に拭いている。


今日も出撃帰りだった。制服姿のまま。

どこにも怪我なんてない。頬も、指先も、ちゃんと人間の温度をしている。


なのに。

彼女が身体を動かすたび、雨と柔軟剤の匂いに混じって、微かに焦げた金属臭がした。

高熱の蒸気。焼けた鉄骨。軍施設の、あの喉に刺さる乾いた匂い。

それだけが、どうしてもこの部屋の生活臭に馴染まなかった。


「……なんか最近、ほんと雨多いね」


依里がタオル越しに言った。


「梅雨だからだろ」


「そっか」


それだけ言って、彼女は笑う。

以前より少しだけ、笑うまでの間が長くなった気がした。



「ねえ、透」


依里がベッド脇の棚を指差した。


「まだある?」


「何が」


「ほら、あの曲」


古びた音楽プレイヤー。

ケースの角が割れて、イヤホンのコードも何度も補修してある。

中学の頃、たまたま中古ショップで買ったアルバムだった。何がそんなに良かったのか、今となってはうまく説明できない。

ただ、放課後の帰り道とか、試験勉強の途中とか、どうでもいい時間に二人で何度も聴いた。

世界がまだ、今ほど壊れていなかった頃の音だった。


「あー……あったはず」


棚を漁ると、絡まったコードが指に引っ掛かった。

依里が少し嬉しそうに身を乗り出す。


「なんかさ。今日、すごい疲れてて」


「……」


「こういう時、あれ聴くと落ち着くんだよね。昔みたいな気分になるっていうか」


私ん家でカルボナーラを作る約束。コンビニのプリン。塩辛いスープ。灰色の赤。

そういう壊れかけた日常の残骸へ、依里は必死にしがみついている。

多分、俺も。



イヤホンを片方ずつ分け合う。距離が近い。肩同士が軽く触れる。

窓の外では、雨が絶えず街を削っていた。


再生ボタンを押す。

ザー、と一瞬だけ走る小さなノイズ。そのあと、聴き慣れたギターのイントロが流れ始めた。


少し掠れたボーカル。安っぽい電子ドラム。どこか古臭いメロディ。

でも、その不格好さごと、ちゃんと覚えている。

中学の帰り道。イヤホンを奪い合って、依里が歌詞を間違えて笑っていたこと。冬のコンビニ前で、肉まんの湯気を吐きながら聴いたこと。

そういう細かい記憶が、旋律に触れるたび静かに蘇る。


……はずだった。


「……っ」


隣で、依里の肩がぴくりと震えた。

視線を向ける。依里は眉を寄せていた。まるで、耳元で金属でも擦られているみたいな顔。


「どうした」


「え……」


「イヤホン痛いか?」


「違、う……」


依里が困ったように笑う。けれど、その笑顔はうまく定着しなかった。


「なんか……変な音しない?」


「変?」


「うん……」


雨音の中で、曲はそのまま流れ続けている。俺には、いつもの曲だった。

サビ前の少し走るギターも。音程を外しかけるボーカルも。全部、ちゃんとあの頃のままだ。

なのに、依里だけが、怯えたみたいに耳元を押さえた。


「……キィキィしてるっていうか……」

「無線みたいな……雑音みたいなの、ずっと鳴ってる」


喉の奥が、ひどく冷えた。依里は続ける。


「ねえ透。これ、本当にいつも聴いてた曲だっけ」


窓の外で、強い雨が排水管を叩いた。


「なんか……私には、ただの騒音にしか聞こえなくて」



その瞬間、頭の中で、何かが音を立てて崩れた。


味覚。色彩。そして今度は、俺たちが積み重ねてきた「思い出の音」まで。

戦うたびに、依里の中から人間だった部分が削り取られていく。世界を守る代わりに。

心臓は動いている。呼吸もしている。笑うことだってできる。

なのに、その中身だけが、少しずつ別の何かへ置き換わっていく。


「……あー」


気づけば、口が勝手に動いていた。


「多分それ、イヤホンだな」


「え?」


「接触悪いんだろ。ほら、コード根元ヤバいし」


依里がきょとんと俺を見る。その目は、少しだけ安心したみたいに揺れていた。


「……そっか」


「古いしな」


「びっくりしたぁ……」


依里は胸を撫で下ろし、小さく笑った。


「なんか私、とうとう頭まで変になったのかと思った」


その言葉が、胃の底へ鈍く沈んだ。

違う。変になっている。

でも、それを言った瞬間、全部終わる。

スープの味。赤色。工程の途中にあった、この曲。

点だった違和感が線になる。依里自身が、自分の崩壊を理解してしまう。


だから。


「ほら、右側だけ外してみろ」


平然を装ってイヤホンを弄った。


「……どう?」


「あ」


依里が少し目を丸くする。


「さっきよりマシかも」


嘘だった。何も変わっていない。

変わったのは、多分、依里が「壊れたのはイヤホンだ」と信じようとしてくれただけだ。



曲は流れ続ける。

俺には懐かしい旋律が聴こえている。依里には、多分もう届いていない。

それなのに彼女は、歌詞を思い出すみたいに小さく口ずさんでいた。


少しだけ音程がズレている。雨音のほうが、ずっと綺麗だった。


隣を見る。依里は目を閉じていた。

昔みたいに安心した顔を作ろうとしている。その努力だけが、痛いほど分かった。


イヤホン越しの音楽を聴きながら、ぼんやりと思う。


多分もう、俺たちは同じものを見ていない。

同じ味もしない。同じ色も見えない。同じ音楽も聴こえていない。


それでも、依里が壊れていく世界に合わせて、俺が嘘を吐き続ければ、まだ隣にいられる気がした。


雨はずっと降り続いていた。

部屋の薄暗い天井を見上げながら、俺は曲の終わりを聴いていた。

依里の耳にはもう届かない、懐かしい旋律の終わりを。

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