Ⅱ.鼻歌
小屋の中は、海の匂いで満ちていた。
壁の向こうで、波がゆっくりと岸に当たっている。
遠くでは都市の融合演奏が続いているが、ここまで届く頃には、音はすっかり柔らかくなっていた。
まるで、誰かの遠い記憶のように。
机の上の音記録装置のランプが、小さく赤く光っている。
アリアは椅子に座ったまま、目を閉じていた。
歌うつもりはない。
歌は――もう出ない。
それは何度も試して、何度も確かめた事実だった。
声は出る。
言葉も話せる。
だが音程が生まれない。
歌にならない。
だから今日は、違うことを試す。
歌ではない。
メロディでもない。
ただの――
鼻歌。
アリアはゆっくり息を吸う。
口は開かない。
喉にも力を入れない。
ただ、鼻から息を流す。
「……ん」
かすかな振動。
ほとんど音にならない、空気の揺れ。
声帯は使っていない。
だから音程もない。
ただ、鼻腔の奥で空気が震えているだけだった。
弱い。
あまりにも弱い。
以前の彼女の歌と比べれば、
これは音楽ですらない。
ただの息。
ただの振動。
だがアリアは、もう一度同じ音を出す。
「……ん」
小屋の中の空気が、わずかに震える。
しかし今度は、すぐに違和感に気づいた。
この音は――
外に広がっていない。
彼女はゆっくり目を開けた。
普通の歌は、外へ向かう。
観客へ。
空間へ。
世界へ。
声は前へ進み、空気を押し、遠くまで届く。
だが今の振動は違う。
音が前に出ない。
むしろ――
内側に戻ってくる。
鼻腔の奥で生まれた振動が、
頬骨を伝い、
頭の奥へ響いている。
まるで小さな円を描くように。
外へ飛ばず、
体の中で回っている。
「……」
アリアは静かに息を止めた。
そしてもう一度、同じ鼻歌を出す。
「ん――」
今度は意識して、振動を追う。
鼻腔。
頬骨。
頭蓋。
微かな共鳴が、内部を巡っていく。
外の空気ではない。
自分の体の中の空間。
骨と空洞が、
小さな楽器のように震えている。
その感覚に、アリアは思わず眉をひそめた。
こんな音の感じ方は、初めてだった。
歌っていた頃は、
外へ届く音しか意識していなかった。
観客。
広場。
都市。
響きは常に外側へ広がっていた。
だが今、この鼻歌は違う。
外へ向かわない。
体の内部を回る。
閉じた振動。
小さな、孤立した共鳴。
アリアは、机の上の紙にゆっくりと書き込む。
「内部共鳴」
その文字を見つめながら、
彼女は再び鼻歌を出した。
「……ん」
弱い振動。
けれど今度は、確信があった。
これは失われた歌の残骸ではない。
別の何かだ。
音は外へ届かない。
誰にも聞こえない。
だが確かに、
彼女の体の中で回り続けている。
小さく。
静かに。
それでも、確かに存在する振動。
アリアはその感覚を逃さないように、
目を閉じた。
そして、静かに呟く。
「……外じゃない」
指先が、胸の上に触れる。
「中だ」
その夜、港の小屋で。
誰にも聞こえない鼻歌が、
アリアの体の内部をゆっくりと巡り始めていた。




