8.最初の声
港には波の音だけがあった。
遠くの都市では、融合演奏がまだ続いている。
砂のリズム。
雪の弦。
海の低い旋律。
それらは遠い。
完成された音楽は、ここまで届いても、港の静けさを壊すことはない。
アリアは手すりにもたれたまま動かない。
ノクタの言葉が、まだ胸の奥で揺れている。
――歌いたいから歌えばいい。
それだけのこと。
簡単すぎる言葉。
だが、その簡単さが彼女を動けなくしていた。
これまで歌は、
使命だった。
役割だった。
革命の中心だった。
だから歌えなくなったとき、
すべてが終わったと思った。
だがもし――
歌が、
ただの衝動なら。
アリアはゆっくりと息を吸う。
潮の匂い。
冷たい夜の空気。
肺の奥まで満ちていく。
そして、
吐く。
そのとき、
喉がわずかに震えた。
彼女は驚いて目を開く。
今のは――
音になりかけた。
しかし、
すぐに消える。
歌にはならない。
旋律もない。
音程もない。
それでも、
確かに何かが動いた。
アリアはしばらく黙って海を見る。
波が岸に触れる。
引く。
また来る。
その繰り返し。
規則でもない。
命令でもない。
ただ自然に起きている。
そのリズムに、
彼女の呼吸が少しずつ重なっていく。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
胸の奥で、
微振動が揺れる。
小さく。
弱く。
けれど確かに存在する揺れ。
アリアは目を閉じる。
怖かった。
また声が出なかったらどうしよう。
音が崩れたらどうしよう。
何も起きなかったらどうしよう。
だが、
すぐにその考えを振り払う。
違う。
今は違う。
これは、
誰かに届かせる歌じゃない。
革命でもない。
証明でもない。
ただ――
歌いたい。
それだけだ。
アリアはもう一度息を吸う。
そして、
ほんの少しだけ声を出した。
「……あ」
それは歌ではなかった。
ただの音。
震える声。
かすれている。
弱い。
けれど、
確かに空気を震わせた。
アリアは驚いて口を押さえる。
今、
音が出た。
旋律ではない。
拍でもない。
四拍でもない。
ただの声。
それでも、
それは久しぶりの――
歌だった。
港の空気が、その音を受け取る。
波の音に混ざる。
風に溶ける。
遠くの都市から聞こえる融合音楽とは、
重ならない。
構造にも入らない。
分散にも接続にもならない。
ただ、
ここにあるだけの声。
誰も聞いていない。
誰にも届かない。
革命にもならない。
それでも。
アリアの胸の奥で、
何かがゆっくりと戻ってくる。
ドクン。
鼓動。
その振動に、
さっきの声の記憶が重なる。
アリアは小さく笑った。
涙が頬を伝う。
「……下手」
自分の声は、
あまりにも弱かった。
昔のような響きもない。
世界を揺らす力なんて、
どこにもない。
それでも。
彼女はもう一度、
小さく声を出す。
今度は少し長く。
「……ああ」
音は波に溶けていく。
夜の港に、
ほんのわずかな振動が広がる。
誰にも届かない、
小さな歌。
けれどその瞬間、
アリアは確かに思った。
私は、
まだ歌える。




