Ⅵ.精神崩壊寸前
夜の港は、何事もなかったかのように揺れていた。
波が岸壁に触れ、
細く砕け、
また引いていく。
規則はない。
だが確かに、揺れている。
アリアはその縁に立ち、目を閉じた。
以前なら、自然に重なれた。
波の振幅を感じ、
鼓動を合わせ、
四拍をそっと差し込めば、
世界が応えた。
今は――重ならない。
波は鳴っている。
風も揺れている。
遠くで誰かが笑っている。
外界は、生きている。
揺れている。
なのに、自分だけが平坦だ。
彼女は胸に手を当てる。
トクン。
鼓動はある。
確かに振動は存在する。
だがそれが、世界へ伸びない。
接続できない。
まるで透明な膜が、彼女を内側に閉じ込めている。
「……いくよ」
小さく呟き、足で地面を打つ。
トン。
無音。
もう一度。
トン、パン。
何も起きない。
四拍が、世界に届かない。
アリアは息を吸い込む。
声を出す。
「あ――」
高さがない。
旋律が立ち上がらない。
ただの呼気が夜に溶ける。
その瞬間、胸の奥が冷える。
恐怖。
敗北した時よりも深い。
最強静域の中では、奪われた。
だが今は違う。
静域はない。
世界は揺れている。
それでも、自分だけが揺れない。
「私は……ただの人間?」
言葉が零れる。
揺れを生む存在ではなく、
ただ息をするだけの存在。
革命の中心は“歌”だった。
思想は、声に乗って広がった。
接続は、旋律が媒介した。
歌えなければ――
思想は空論。
理論は机上。
接続は幻。
彼女は膝をつく。
港の石畳は冷たい。
涙が落ちる。
その水滴は、小さく揺れて広がる。
自分の涙のほうが、よほど波を生んでいる。
「……なんで」
震える声すら、揺れない。
これまで、恐怖を否定してきた。
最悪基準を超えると信じてきた。
だが今、最悪は別の形で訪れている。
自分が、基盤を失った。
王は世界を止めた。
だが副作用で、
彼女の中の世界も止まった。
革命を掲げた少女は、
ただの沈黙になった。
夜の波音だけが続く。
一定ではない。
揺れ続ける。
その音が、いまは遠い。
アリアは顔を上げる。
世界は動いている。
自分だけが止まっている。
その現実が、
何よりも残酷だった。




