第1話 三千万円の見積書
◆1 命令書
午後七時を回ると、「ひだまりの郷」の廊下は音の種類が変わる。
夕食の食器を下げるワゴンの車輪がきしみ、どこかの部屋でテレビの時代劇が大きすぎる音で鳴り、詰所のナースコールが二度、短く鳴って止む。三好佐和子は、そのどの音を聞いても誰の部屋のものかを言い当てられた。母がこの施設を建ててから二十六年。継いでからでも八年になる。
詰所の机の上に、白い封筒が一通、置いたままになっていた。
差出人は市の消防局長。中の紙は一枚きりで、上のほうに「命令書」と太い字があった。読むのは、これで何度目になるだろう。
――消防法第十七条の四第一項の規定に基づき、次のとおり命令する。
その下に建物の名前と所在地。そして「スプリンクラー設備を設置すること」。履行の期限は、来年の三月末日。末尾には、審査請求や裁判で取消しを求める道についての決まり文句が、小さな字で並んでいた。
去年の秋の立入検査のあと、予防課の若い職員が何度か来た。改修の計画を出してください。いつごろになりそうですか。そのたびに三好は、検討しています、と答えた。春には警告書が届き、夏には、言い分があれば聞くという通知も来た。何も出さなかった。検討はしていたのだ。業者を呼び、見積もりを取り、その数字を見て、引き出しにしまった。それだけだった。
見積書は、命令書の下に重ねてある。
「概算見積書 スプリンクラー設備工事 全館一式 金三千万円(税別)」
一式、という二文字が、どの数字よりも重かった。何が含まれていて、何が含まれていないのか、三好にはわからない。わかるのは、この施設の一年の利益を十年分積んでも届かない、ということだけだった。
メインバンクの融資の担当者は、話を半分ほど聞いたところでボールペンを置いた。定員十八名の施設で、この金額の設備投資となりますと――。その先は、聞かなくてもわかった。
閉めるという道を、考えなかったわけではない。けれど入居者の顔を一人ずつ思い浮かべると、そこで考えが止まる。要介護四の田村さんは、ここに来るまでに三つの施設に断られている。夜になると、亡くなった奥さんを探して廊下を歩く。閉めたら、どこへ行けというのか。
命令が出た翌週、消防局の職員が来て、玄関の脇に一枚の標識を貼っていった。この建物は消防法に基づく命令を受けている、という文面だった。市の公報にも載ったと聞いた。面会に来た家族の何人かが、その前で足を止めるのを、三好は詰所の窓から見ていた。
従わなければ、罰がある。夜中にスマートフォンで調べて、一つだけ笑いそうになった数字があった。施設を運営する法人に科される罰金の上限は、三千万円。見積書と、同じ額だった。
ナースコールがまた鳴った。今度は長い。三好は封筒を手に立ち上がりかけて、思い直し、机に戻した。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。約束の七時半には、まだ十分あった。
ドアの外に立っていたのは、紺色の作業ジャンパーを着た痩せた男だった。四十代の後半だろうか。肩に黒いケースを提げ、もう片方の手に細長い金属の筒のようなものを持っている。
「鳴海です。柏木さんから聞いて伺いました」
柏木というのは、年に二度、この施設の消防設備を点検しに来る白髪の点検員だった。もとは消防署にいたらしい。命令書の話をしたら、黙って名刺を一枚くれた。この男に見せてみな。ただし、あいつは書類より先に建物を見るぞ。
鳴海は、玄関の標識に一度だけ目をやった。それから靴を脱ぐ前に天井を見上げ、廊下の奥を、壁を、床の継ぎ目を、ゆっくりと目でなぞった。挨拶よりも先に、建物に何かを尋ねているように見えた。
「命令書を、見せていただけますか」
三好は封筒を差し出した。指先が、少し震えていた。
◆2 「古いから」は通らない
鳴海は詰所の丸椅子に浅く腰かけ、命令書を二度読んだ。一度目は速く、二度目は指で行をたどりながら、ゆっくりと。指は末尾の小さな字まで下りていき、そこで止まった。
「審査請求の話は、いまは脇に置きましょう」
「え……」
「争うより、期限までに付ける道を探すほうが早いと思います。消防署とは、同じものを守る話になります」
見積書のほうには、まだ手を伸ばさなかった。
「建てたときは、要らなかったんです」
三好はずっと胸の中で繰り返してきた言葉を、ようやく口に出した。
「母がここを建てたとき、消防の検査も通っています。スプリンクラーなんて、誰も何も言わなかった。それが急に付けろというのは、おかしくありませんか。古い建物は昔の基準のままでいいと、聞いたことがあります」
鳴海は命令書を膝の上に置き、その一行を指で押さえたまま言った。
「その話は、半分は正しいです」
三好の顔は見なかった。
「消防法には、基準が変わっても、もうある建物は前の基準のままでいい、という決まりがあります。十七条の二の五という条文です。ただ、例外がある。デパートや旅館、病院のように、大勢の人が出入りする建物です。法律では特定防火対象物と呼びます。こういう施設も、そこに入る」
「でも……」
「とくにこういう施設では、昔の基準のままにしておけません。燃え始めたときに、自分の足で逃げられない人が、夜に眠っているからです」
廊下の奥で、誰かの部屋の戸が開く音がした。スリッパを引きずる足音がゆっくりと近づいてきて、詰所の前で止まり、また遠ざかっていく。田村さんだ、と三好は思った。また奥さんを探している。
鳴海はその足音が消えるまで黙っていた。
「……ああいう方です」
それだけ言って、鳴海は机の上の入居者のファイルに目を移した。
「建てたときに要らなかったのは、本当でしょう。あのころは、ある程度の広さがなければ要らない決まりでした。それが何度か変わって、十三年前の長崎の火事のあと、こういう施設には広さにかかわらず付ける、という形になった」
「じゃあ、うちも、法律が変わったから……」
「それだけではありません」と鳴海は言った。「入居者の方の、要介護度を伺えますか」
唐突な問いだった。三好は戸惑いながら、ファイルを開いた。
「要介護三以上の方が、十二人です。十八人のうち」
「半分を超えていますね。継がれたころは、どうでしたか」
三好は少し考えた。八年前、入居者はまだほとんどが自分の足で食堂に来ていた。車椅子の人は、一人か二人だった。
「ずっと軽かったと思います。みなさん、歩けました」
「法律は、要介護三から五の方を主として入居させている老人ホームと、そうでない老人ホームを、別のものとして扱います。前のほうは、原則として広さにかかわらずスプリンクラーが要る。後のほうなら、この広さでは今の基準でも要りません」
鳴海はファイルから目を上げた。
「いま要るのは、建物が古いからではありません。いまの入居者の方の多くが、自分の足で逃げられないからです」
三好は何も言えなかった。母が建てた建物は、何も変わっていない。変わったのは、この八年で自分が受け入れてきた人たちのほうだった。断られ続けて、ここに来た人たち。
ファイルの、田村さんの名前から目が離れなかった。
鳴海はそこで初めて見積書を手に取った。表紙をめくり、二枚目の明細に目を落とす。そこにも、ほとんど何も書かれていなかった。配管工事一式。スプリンクラーヘッド取付一式。天井開口・内装復旧一式。ポンプ設備一式。受水槽一式。消防申請手続費一式。
鳴海の指が、「受水槽」の行で止まった。
「この見積もりを出した業者は、建物の中を見ていきましたか」
「いえ……図面をお渡しして、それで」
鳴海は黙ってうなずき、見積書を机に戻した。
「この建物、水道は何ミリの管で来ていますか」
「水道、ですか」
「これは、この建物のための見積もりではないと思います。どんな建物にでも出せる、いちばん大きなスプリンクラーの値段です」
鳴海は黒いケースの留め金を外しかけて、手を止めた。
「ただ、どこまで削れるかは、まだ分かりません。明日の朝、もう一度来てもいいですか。まだ暗いうちに」
◆3 夜明け前の水圧
翌朝、鳴海が来たのは四時四十分だった。外はまだ暗く、玄関の標識だけが常夜灯の下で白く浮いていた。
鳴海は呼び鈴を押す前に、玄関脇の地面にしゃがみこんだ。水道メーターの青い蓋を開け、懐中電灯で中を照らす。
「二十五ミリ」
迎えに出た三好に、鳴海は言った。
「昨夜お聞きした、水道の管の太さです。これなら、望みはあります」
この夜の夜勤は、三好ともう一人の職員の二人だった。三好は詰所を同僚に頼み、鳴海を二階へ案内した。廊下の突き当たりの汚物処理室を指しかけて、首を振る。
「ここは、だめです。朝はいちばん使うので」
案内したのは、先月まで入居者がいた空き部屋だった。鳴海はケースから丸い文字盤の計器を取り出し、手洗いの蛇口にねじ込んだ。昨夜持っていた金属の筒は、その先につなぐ、水の量を測る道具だった。
「水道に、じかにつなぐスプリンクラーがあります」と鳴海は言った。「大きな水槽を置かずに、水道の勢いだけで水を出す型です。この広さの施設なら付けられる。ただ、火事のときには天井のスプリンクラーヘッドがいくつか同時に開きます。四つ同時に水を出しても、二階のいちばん奥まで届くか。それを確かめに来ました」
鳴海は蛇口から水を流して針を読み、手帳で短い計算をした。それから文字盤のある目盛りに、赤いテープを細く貼った。
「蛇口でこの線を切ったら、いちばん奥の天井まで届かなくなります」
針は、赤い線のずっと上にあった。
「いまは、一日でいちばん水の出がいい時間です。町じゅうが眠っていて、誰も水を使っていない。ここで線に近ければ、この方式は諦めます」
暗いうちに、鳴海は黒いケースのもう一つの機械を据えた。三脚の上で小さな頭がゆっくり回り、目に見えない光で建物の形を測りとっていく。手元の画面に、無数の点が集まって廊下が浮かび上がった。入居者が眠っている部屋には入らず、廊下と食堂と空き部屋だけを測った。
食堂の奥で、鳴海の手が止まった。
「この部屋は、図面にありません」
壁一枚で仕切られた、三畳ほどの小部屋だった。棚には、おむつと替えのシーツが天井近くまで積んである。
「三年前に、私が作ってもらったんです。入居者さんが重くなって、置き場が足りなくなって」
鳴海は壁を軽く叩き、扉の枠の木口に顔を寄せた。
「合板ですね。業者は図面で数えたから、この部屋の分は見積もりに入っていません。それに、この壁は燃えやすい」
「どうして、叩いただけで分かるんですか」
鳴海は、壁に手を当てたまま少し黙った。
「何年も前、研究所にいたころ、ある建物の火事の広がり方を計算しました。安全だという答えが出た。でも、その建物では、改装で壁が一枚抜かれていました。図面には、その壁が残っていた。逃げ遅れた人が、いました」
それ以上は言わなかった。
五時半を過ぎると、廊下に田村さんが出てきた。パジャマの上にカーディガンを羽織り、手すりにつかまりながら、一部屋ずつ戸を確かめるように歩いてくる。鳴海の前で足を止めた。
「家内を、見ませんでしたか」
鳴海は少し間を置いて答えた。
「見ていません。お部屋まで、一緒に行きましょう」
三好が田村さんの反対側の腕を取った。三人で、ゆっくりと廊下を戻った。
六時を回ると、建物が目を覚ました。厨房で湯が沸き、洗面所の水が流れ、窓の外の家々にも明かりがともっていく。鳴海は十五分おきに蛇口を開き、針を読んだ。そのたびに、針と赤い線のあいだが狭くなった。
六時四十五分。三好がのぞきこむと、線まで指一本ぶんしかなかった。夜勤の疲れが、急に足に来た。鳴海は何も言わず、手帳に数字を書いた。
七時五分。針は、赤い線のすぐ上で止まり、それより下には行かなかった。
「今朝の数字では、足ります」と鳴海は言った。
三好の肩から、力が抜けた。
「ただし、条件が二つあります。あの小部屋の壁を、燃えにくい板に張り替えること。それから、夏の夕方、町じゅうが風呂に湯を張る時間は、今朝より下がります。その日にどうするか。消防署は、必ずそこを聞いてきます」
三好は、見積書の「受水槽一式」の行を思い浮かべた。
「金額の話は、それからです」
◆4 消防署の机
十日後、三好は鳴海と並んで、消防署の予防課の机の前に座っていた。
向かいにいたのは、去年の秋から何度も施設に来ていた、あの若い職員だった。宮本という名札をつけている。宮本は三好の顔を見ると、表情をわずかにゆるめた。
「計画、お持ちいただけたんですね」
「柏木さんのご紹介で、お手伝いしている鳴海です」
鳴海は机に書類の束を置いた。建物を測って描き直し、スプリンクラーヘッドと配管を書き入れた図面。一週間、蛇口につけておいた記録計の数字。工事の順番を書いた工程表。新しい見積書は、業者から鳴海のもとに今朝届いたばかりで、封筒は閉じたまま三好の膝の上にあった。
宮本は図面から開いた。ページをめくる手が、食堂の奥で止まる。
「届いている図面と違う部屋がありますね」
「三年前に、物置として仕切った部屋です」と鳴海は答えた。「壁は合板でした。石膏ボードに張り替えて、ヘッドを一つ足します」
宮本はうなずき、赤ペンで部屋を丸く囲んだ。
「ほかの天井と壁は」
「石膏ボードです。最初の晩に、点検口から確かめました。四つ同時に開いて、いちばん遠いヘッドの先で〇・〇二メガパスカル。この材料なら、それで足ります」
三好は、あの晩、鳴海が靴を脱ぐ前に見上げていたものを、ようやく知った。
宮本は記録計の束に移った。指で数字の列をたどり、いちばん低い日で止める。
「水の出が、これより悪い日はどうしますか。夏の夕方とか」
三好は膝の上で手を握った。あの朝、赤い線まで指一本ぶんしかなかった針を思い出した。
「水道局が計算に使う水圧で、計算し直してあります」と鳴海は言った。「そちらでも足りるので、ポンプは付けません。水道の条件が変わったときのために、水圧を足すポンプの置き場所と配管だけ、最初から取ってあります」
宮本は答えずに、しばらく数字を見ていた。部屋の奥で、電話が一度鳴って止んだ。三好には、その沈黙が長かった。
やがて宮本は顔を上げた。
「三月末に、間に合いますか」
鳴海が工程表を指でたどった。入居者が暮らしたまま、一部屋ずつ天井を開けていく順番が書いてある。
「工事のあいだの消防計画も、防火管理者の三好さんのお名前で出せるよう用意します。天井を開けている部屋は、夜の見回りを増やします」
宮本は書類をそろえて、机の端に寄せた。
「この内容で進めてください。工事をなさる設備士さんから、着工の十日前までに届けをお願いします」
許すとも、通ったとも言わなかった。けれど三好には、それで十分だった。
帰りぎわ、宮本が鳴海を呼び止めた。
「柏木さんは、お元気ですか」
「相変わらず、点検で建物を回っています」
宮本は小さく笑った。「あの人には、昔よく叱られました」
駐車場に出ると、三好は膝の上にあった封筒を開けた。
最後の行の数字は、九百八十万円だった。
受水槽とポンプの行は消えていた。そのかわりに、物置の壁の張り替えとヘッド一つ分の行が増えている。どの行にも、一式という字はなかった。
三好は鞄の中で、銀行の担当者の名刺を探した。この額なら、もう一度話ができる。
「ありがとうございました」
頭を下げると、鳴海は首を振った。
「工事が終わるまで、まだ何も終わっていません」
その夜、三好は夜勤に入った。もう一人の職員に詰所を任せ、懐中電灯を持って部屋を回る。寝息、いびき、寝返りの音。一つずつ、誰の部屋のものか分かった。
田村さんの部屋の前で、足が止まった。
戸をそっと開ける。田村さんは、奥さんの写真を枕元に置いて眠っていた。
三好は、天井を見上げた。
この真ん中に、来年の春、スプリンクラーヘッドが一つ付く。母が建て、自分が継いだ建物の、一度も見上げたことのなかった場所だった。
図面ではなく、建物を見る。
三好は戸を閉め、次の部屋へ歩いた。
この物語はフィクションです。物語の解決策は、個々の建物にそのまま当てはまるものではありません。
次の話「第1話 解説」では、鳴海の解き方が現実の消防法でも通るのかを、行政書士の小川洋史が解説します。
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