第31話 神隠し その1
「ご馳走様でした」
呉代は風呂を上がり、食事まで済ませると、手早く身支度を整えて鞄を肩に掛けた。
部屋を出て宿の外へ出る。
夜の空気は思ったよりも涼しく、火照った肌をゆっくりと冷ましていった。
呉代は携帯を取り出し、地図アプリで現在地と目的地を確認する。
「……ここからなら、徒歩でいいか」
小さくそう呟くと、携帯をしまい、静かな夜道を進む。
呉代は、情報に記されていた地点の近くまで辿り着いた。
足を止め、周囲をひと通り見回す。
すると、電柱や塀のあちこちに護符が貼られているのが目に入った。
――人払いの護符。
怪異調査や呪的な案件の際、一般人を違和感なく遠ざけるために使われるもの。
強い結界ではないが、無意識に近寄りたくないと思わせたり、別の道へ逸らしたりするには十分な効力を持つ。
それを確認した呉代は、肩に掛けていた鞄を足元へ下ろした。
迷いなく中を開き、そこから抜き身の短刀を取り出す。
鈍く光る刃先が、夜の気配をひやりと裂いた。
続けて一枚の護符を取り出し、口に咥える。
その仕草に無駄はない。
呉代は再び鞄を肩へ担ぎ直すと、そのまま何事もなかったように前を向く。
そして、護符の貼られた先へと静かに足を踏み入れた。
今回の依頼内容は、あくまで怪異の調査だ。
(……でも、私を向かわせたってことは、その解決まで期待してくれてるのかな……)
呉代はそんなことをぼんやり考えながらも、周囲への警戒だけは一切緩めていなかった。
夜の街は静かだ。
短刀を握る手に余計な力は入れない。
足音もできるだけ殺す。
視線を動かし、気配の揺らぎを拾うように前へ進む。
軽く考えているようでいて、仕事に入れば切り替わる。
周囲は、至って普通の住宅街だった。
並ぶ家々も、静かな路地も、どこにでもある光景にしか見えない。
だが、この一帯では最近、神隠しが多発しているらしい。
もっとも――
神隠しと呼ばれてはいても、本当に神や神格の類が関わっていることは、ほとんどない。
大抵は、妖か、悪霊か。
あるいはそれに近い、名もない“何か”が原因だ。
呉代はそうした知識を頭の隅でなぞりながら、護符により人気のない住宅街を静かに進んでいく。
名前だけは仰々しい。
けれど、その実態は往々にして、もっと生臭く、もっと陰湿だ。
それに今回の案件の災位は不明。
だからこそ、油断はしない。
神隠し、という言葉に引っ張られて正体を見誤れば、足元を掬われる。
呉代は夜気を吸い込み、細く息を吐いた。
まずは見る。
何が潜んでいるのか、どこで起きているのか。
話はそこからだった。
呉代は、先の角――視界の端で動く影を捉えた。
この周囲には人払いの護符が貼られている。
その効果が生きている範囲内で、一般人がうろついているとは考えにくい。
呉代はすぐに判断する。
足音を殺したまま、影を追うように一気に駆けた。
そして角の手前まで詰めると、塀に背をつけるようにして身を寄せる。
呼吸を整える。
短刀を握る手に意識を落とし、気配を探る。
そのまま慎重に顔を出し、角の先を確認しようとした――その瞬間。
視界が、一瞬にして変わった。
いや、変わったのは視界だけではなかった。
つい先ほどまで塀に背をつけていたはずなのに、気づけば呉代は――影を見つけて走り出す前の地点、道路の真ん中に立っていた。
「……は?」
思わず、声が漏れる。
呉代の額にじわりと汗が滲んだ。
何が起きたのか、まるで分からない。
目眩でもない。
見間違いでもない。
自分が塀の角まで走った感覚も、息の乱れも、短刀を握り直した感触も、確かに残っている。
それなのに、身体だけが何事もなかったように元の位置へ戻されていた。
呉代は反射的に周囲へ視線を走らせる。
住宅街は変わらず静かだ。
家々も、電柱も、街灯も、そのまま。
ただ自分だけが、理屈の通らない形で位置をずらされている。
じわ、と背筋に冷たいものが這い上がる。
何が起きたのか分からない。
分からないまま、術中に入っている。
その事実だけが、嫌というほどはっきりしていた。
呉代は、ひとつ深く息を吐いた。
額に滲んだ汗をそのままに、瞬時に冷静さを取り戻す。
分からないまま怯えても意味はない。
なら、確かめるしかない。
呉代は短刀を構えたまま、再び先ほどの角へ向かった。
足取りは今度の方が慎重だった。
周囲の景色、電柱の位置、足元のひび割れまで意識に刻み込みながら進む。
そして塀に背をつける前に、短刀の切っ先でその表面へ小さく印を刻んだ。
――バツ印。
浅い傷ではない。
見間違えようのない、確かな印だ。
呉代はその印を一度だけ確認し、ゆっくりと角の奥へ顔を覗かせる。
その瞬間――
またしても、視界が揺れた。
次の瞬間には、呉代は先ほどと同じ場所――影を見つけて走り出す前の地点へ戻されていた。
だが今度は、はっきりしている。
夢でも、勘違いでもない。
呉代はすぐに塀の方へ目を向けた。
遠目にも分かる。
さっき自分で刻んだバツ印が、そこにある。
つまり自分は確かにあそこまで行ったのだ。
行った上で、何かに“戻された”。
呉代は短刀を握る手に、わずかに力を込める。
「……」
正体はまだ分からない。
けれど少なくとも、この神隠しは“道に迷う”程度の生易しいものではない。
進ませないのか。
それとも、誘っているのか。
呉代は、頭の中で素早く仮説を立てる。
一つ目。
――全く同じように見える別の空間へ、転移させられた可能性。
二つ目。
――あの角そのものが引き金となって、元の地点へ強制的に転移させられている可能性。
三つ目。
――時間を巻き戻されている可能性。
そして、四つ目。
――無意識のうちに、自分自身でこの地点まで戻ってきている可能性。
呉代は目を細める。
少なくともバツ印が残っていることから三つ目の時間が巻き戻されているわけではなさそうだ。
だが、その他はまだ決め手に欠けていた。
時間操作という最悪の可能性は限りなく低い。
だからこそ、次は切り分ける必要がある。
何が起きているのか。
自分が“動かされた”のか、“戻された”のか、それとも“そう思わされている”だけなのか。
呉代は短刀を握り直し、もう一度だけ静かに息を吐いた。
「あーあ、つまんなーい」
足を踏み出そうとした呉代を、その声が止めた。
反射的に、声のした方へ視線を向ける。
その瞬間だった。
呉代の腹部に、強烈な衝撃が突き刺さる。
「ぐはっ……」
息が潰れ、口に挟んでいた護符が離れる。
何かを見たと認識するより早く、呉代の身体はくの字に折れ、そのまま後方へ大きく弾き飛ばされる。
何が来たのか分からない。
拳か、蹴りか、それとも別の何かか。
ただひとつ分かるのは――
今の一撃が、人間相手のそれではないということだけだった。
呉代は腹を押さえ、崩れかけた体勢のまま受けた傷の状態を素早く探る。
(出血は……ない。内臓も、多分大丈夫。骨は――)
痛みは強い。
だが、致命傷ではない。
そう判断した瞬間。
「くふふふ。少しはいい反応、見せるじゃない」
さっきの声が、今度はすぐ近くで聞こえた。
呉代は顔を上げる。
そこにいたのは、赤黒いワンピースに身を包んだ、長身の女だった。
黒い髪は異様に長く、だらりと顔へ垂れかかっている。
そのせいで表情は全く見えない。
「あれー、これでも泣かないなんて、ほんとつまんないね」
女はくすくすと笑う。
その声は妙に甘ったるいのに、耳に触れた瞬間ぞわりと肌が粟立つような不快さがあった。
呉代は腹を押さえたまま、短刀の切っ先をわずかに上げる。
目の前のそれは、明らかに人ではない。
纏っている気配が、どこかひどく湿っていて、粘つくようだった。
女は首を傾ける。
「もっとさぁ、泣いたり、喚いたり、帰りたいって言ってくれないと面白くないのに」
黒髪の奥で、不服そうな声を出す。
「最初から私が直接やった方がよかったかな」
その言葉に、呉代の目が細まった。
――やはり。
先ほどの空間の歪みも、道を戻された現象も、すべてこいつの仕業だ。
呉代は乱れた呼吸を整えながら、女を真っ直ぐ見据える。
「お前が、神隠し……」
呉代が低く呟く。
女はその言葉に、くふ、と喉を鳴らして笑った。
「そう呼ばれてるの?まあ、なんでもいいけど」
その声音には、わずかな愉悦が滲んでいた。
未だ痛む腹を意識の隅に追いやりながらも、呉代の目はしっかりと目の前の女を捉えていた。
一歩。
踏み込んだ、その瞬間――視界が揺らぐ。
(……っ)
来る。
呉代は即座に理解した。
あの時と同じだ。
角から戻された時と、まったく同じ感覚。
空間がずれるのか。
位置を戻されるのか。
あるいは認識そのものを弄られているのか。
理屈はまだ分からない。
視界がはっきりした時、呉代は即座に周囲を確認した。
位置は変わっていない。
さっきまで自分が立っていた場所、そのままだ。
だが――
目の前にいたはずの女の姿が、消えていた。
その瞬間。
「こういうのはどう?怖い?」
背後から、女の声がした。
呉代は反射で振り向く。
同時に、迷いなく短刀を突き出した。
鋭く、速く、喉元でも胸でも届けば十分な軌道。
だが――その刃は、空を突いた。
そこにいると確信した場所には、何もない。
「とまぁ、こんなことも出来ちゃうわけだけど」
またしても背後から声が聞こえた。
呉代が即座に振り返る。
すると、女は最初に立っていた位置へ、何事もなかったように戻っていた。
呉代の表情が強張る。
位置を入れ替えているのか。
見せる場所をずらしているのか。
それとも、自分の認識そのものを弄っているのか。
まだ断定はできない。
だが、目の前の怪異が、呉代を翻弄することそのものを楽しんでいるのだけはよく分かった。
「この方法が一番良さそうね。くふふふ」
女は喉を鳴らし、愉しげに笑う。
呉代は短刀を構えたまま、一歩も動かない。
――いや、動けない。
下手に踏み込めば、また術中に嵌る。
そう分かっているからこそ、迂闊に間合いを詰めることができなかった。
すると、不意に女の意識が呉代の脇をすり抜け、その先へ向く。
「あら、新しい獲物かしら」
楽しげに、独り言のように女が言った。
呉代の目が細まる。
(誰かが入ってきた!?)
人払いの護符がある以上、可能性は低い。
だが、絶対ではない。
もし一般人がこの場へ踏み込んでしまえば――
そう判断した瞬間、呉代は動いていた。
「簡・結縛!」
呉代が鋭く叫ぶ。
その瞬間、先ほど殴られた拍子に女の近くへ落ちていた護符が、ひときわ白く光った。
次の瞬間には、その光が幾筋もの鎖の形を成し、蛇のようにうねりながら女の身体へ絡みついていく。
脚へ、胴へ、腕へ。
逃がすまいと食い込むように、幾重にも巻きついた。
「なにこれー」
女はなおも余裕のある声を漏らす。
まるで本気で拘束されたとは思っていないような、気の抜けた声音だった。
だが、呉代は構わない。
相手がどう思おうと関係ない。
足を止められる一瞬があれば、それで十分だった。
呉代は短刀を握ったまま、一気に女との間合いを詰める。
呉代の握る短刀は、呪具だ。
その刃へ、霊力を流し込む。
薄く青白い気配を纏った刃先が、女の首筋めがけて一閃した。
鋭く、迷いなく。
ためらいのない一太刀だった。
刃は確かに、女の首を捉えた。
ごとん――
鈍い音を立てて、女の首が地面へ落ちる。
その瞬間、女の身体へまとわりついていた鎖も、役目を終えたようにほどけて消えていった。
呉代は息を乱したまま、なお警戒を解かない。
短刀を構えたまま、一歩、また一歩と女の首へ近づいていく。
女の頭へ手を伸ばそうとした、その時だった。
違和感。
呉代の背筋を、冷たいものが一瞬で駆け上がる。
伸ばしかけた手を止め、反射的に女の身体へ視線を向ける。
――立っていた。
首を落としたはずの女の身体が、なおその場に立っている。
倒れない。
崩れない。
赤黒いワンピースを揺らしたまま、まるで最初から何も失っていないかのように、そこにある。
そして――下から。
あの、湿った楽しげな声が聞こえた。
「くふふ……バレちゃった?」
呉代の視線が、ゆっくりと落ちる。
地面に転がっているはずの女の首。
その髪の奥、見えていなかった口元が、にたりと歪んでいた。
ぞわり、と肌が粟立つ。
刹那。
呉代の脇腹に、最初の一撃とは比べものにならないほどの衝撃が叩き込まれた。
「――っ!」
息をする間もなく、身体が横へ吹き飛ぶ。
そのまま勢いよく塀へ激突した。
鈍い音が響き、背中から肺の空気が一気に押し出される。
視界が揺れ、口の端から短く息が漏れた。
何が起きたのか、理解するより先に痛みが走る。
脇腹、背中、全身の骨が軋むような感覚。
しかし、呉代は更なる衝撃を受けた。
ぼやける視界に映る光景が、あまりにも異様だった。
切り離されたはずの頭が、地面に転がったまま喋っている。
「くふふ。油断したねぇ」
その湿った笑い声と同時に、頭のない胴体がゆらりと揺れた。
首を失っているはずなのに、
そこに迷いはない。
まるで最初から、頭と胴が別々でも問題ないかのように。
たった今、呉代の脇腹を打ち抜いたのは――
その、頭のない胴体だった。
胴体は、何事もなかったように地面へ転がった頭を拾い上げる。
そして、それを首の上へ抱えるように持ちながら、楽しげに笑った。
「くふふふ。今夜は大漁ね。しかも、そっちから来てくれるなんて」
その声を聞いた瞬間、呉代の胸の内に強い悔恨が走る。
(私としたことが……怪異に敗れ、無関係の人間を巻き込むなんて……ごめん、ボス……)
あの言葉が本当なら、もう誰かがこの場へ入ってきている。
人払いの護符があっても、絶対じゃない。
そう考えていたのに、最悪の形でそれを現実にしてしまった。
視界が揺れる。
脇腹の激痛も、塀に打ちつけた背の痛みも、もう輪郭が曖昧だった。
意識を繋ぎ止めようとしても、身体が言うことをきかない。
女の笑い声だけが、やけに遠く、それでいて耳の奥にまとわりつくように響く。
「くふ、くふふふ……」
呉代は歯を食いしばろうとした。
だが、それすらうまくできない。
その言葉を聞くのとほぼ同時に、呉代の意識はふっと闇へ沈んだ。




