第3話 言葉の刃
現代――20XX年。兵庫県北部。
山と川に抱かれたその町は、観光名所として名を知られていた。石畳の小路や古い家並みが残り、昼間は土産物屋の呼び込みと観光客の笑い声が絶えない。――けれど夜になると、話は別だ。
店は軒並み早々にシャッターを下ろし、灯りはまばらな街灯だけになる。川の流れの音がやけに大きく聞こえ、田舎特有の“静けさ”が町を丸ごと飲み込む。
その街灯の下を、ひとつの人影が歩いていた。切りそろえられた黒髪に黒い瞳の女。買い物袋を片手に持ち、中身が揺れるたび、薄い音がする。
「痛っ、はあ……なんで私が、こんなことまで……」
足の痛みを感じつつ、吐き捨てるような独り言は、冷えた空気に吸われて消えた。
黒羽哀――。
この国に古くから続く陰陽師の系譜。その中でも“御三家”と呼ばれる名家のひとつ――呪具や呪物の扱いに特化した黒杖家から枝分かれした、分家の人間だった。
姓は黒だけを残し、杖の字は捨てられた。捨てたのか、捨てさせられたのか――哀自身には、どうでもいい。
ただ、分家の女というだけで、最初から期待されない。
呪具や呪物を操るには、それ相応の身体と素質が要る。反動に耐える骨が要る。血の濃さが要る。――哀には、そのどれもが足りなかった。
実力は、御三家の血筋の中では『下の下』。
扱える呪具も最低の陸災位が限界。
陸災位。実質、“雑用免許”みたいなものだ。
そして、その結果として――哀はある神社へ奉公として回された。
要するに、厄介払いだった。
実家での扱いは、暴力も暴言も当たり前だった。けれど、それでも。あれはまだ「家」の中の地獄だった分、我慢の仕方があった気がする。ここは違う。家から切り離され、放り捨てられ、ただ静かに腐っていく場所だ。
「……はあ」
哀はもう一度ため息を落とし、袋を握り直した。指先が冷えきっている。吐く息は白く、街灯の光の下でいっそう頼りなく見えた。
それでも歩は止めない。
止めたところで、帰る場所はないのだから。
山沿いの道を歩いていくと、街灯はさらに数を減らした。光と光の間隔が長くなり、闇が“道”を侵食してくる。風が山の匂いを運び、川の音が遠ざかるほど、代わりに自分の足音だけがやけに響いた。
道幅も、少しずつ狭まっていく。
脇へ逸れて、小さな橋を渡る。
橋板を踏む音が、短く乾いて鳴った。渡り切った先はもう、町の道ではない。アスファルトは途切れ、砂利道になり、すぐに山道へ変わる。細かな石が靴底に噛む。勾配が増し、視界の端から街灯の光が消えていく。――どんどん山の中へ入っていく感覚だけが、背中を押した。
やがて、石造りの階段が現れた。
一段、また一段。踏みしめるたびに、哀の胸の奥が重くなる。登るほどに、嫌いな場所が視界に入ってくるからだ。
赤い鳥居。
やけに赤い。やけに目立つ。規模としては小さな神社のはずなのに、鳥居だけが不釣り合いなほど立派で、新しくて――悪目立ちしていた。
「……こんな所にある神社に、そんな金があるなんてね」
吐き捨てるように呟き、哀は鳥居をくぐる。
正面には、こぢんまりとした社――本殿がある。木は黒ずんで古いのに、注連縄だけが無駄に太い。左右には、袴姿の警備の霊能者が座っていた。どちらも腕を組み、哀を見る目に温度がない。監視というより、品定めに近い。
哀は、口元だけで愛想笑いを作り、会釈した。
そして、駆け足気味に奥の社務所へ向かう。
背中へ、あからさまな声が突き刺さった。
「まったく、買い物とは呑気なものだな」
「御三家の分家のくせに、こんなところに回された癖によ」
――聞き慣れた言葉。
もう、何も感じない。胸が痛むことも、腹が立つことも、恥ずかしさで熱くなることもない。ここではそれが日常になってしまった。
ここへ来て、かれこれ二年。
慣れもする。
社務所の前に着いて、哀は一度だけ呼吸を整えた。息を吐いて、肩の力を抜く。余計な感情を削ぎ落とす。そうしないと、声が震えるから。
コンコン。
戸を叩く音が、静けさにやけに響いた。
「ただいま、戻りました」
扉越しに帰りを伝えると、即座に返事が返ってきた。
「……ちっ。そこに置いとけ」
舌打ち混じりの声。
「わかりました」
哀は袋を床に置いた。中身が一度だけ重く鳴り、すぐに黙る。礼をする気にもならず、される気もない。形式だけを済ませて、哀は自分の部屋へ戻った。
廊下の冷えが、足首にまとわりつく。
部屋に入る。
――と言っても、ここは元々“部屋”じゃない。物置だ。名目だけ与えられた居場所で、用途は今も変わっていない。壁際には古い箱や道具が積まれ、棚は埃を被ったまま。人が寝起きするための空気じゃない。
引き戸を閉めると、外の気配が少しだけ遠のいた。
広さは、ぎりぎりだ。布団が一枚敷ける。それだけで、ほとんど床が埋まる。立ち上がれば、膝が棚に当たる。伸びをすれば指先が梁に触れる。息を吸っても、木と紙と古い布の匂いしか入ってこない。
風呂は、入らせてもらえない。
本殿の裏へ回って、外の水道で身体を拭くのがいつもの“入浴”だ。冬は水が刺さって、肌が赤くなる。夏でも冷たくて、いつも少しだけ震える。
――でも今日は。
「……今日はもう、いいや……」
声に出した途端、気力がほどけた。
哀は物置の棚の隙間に置いてある寝巻きを引っ張り出す。折り目の癖がついた薄い布。着替えるだけで、埃がふわりと舞う。息を止めて、袖を通した。
それから、布団を敷く。
敷布団を広げる音が、やけに大きく聞こえた。狭い部屋は音が逃げない。薄い布団の上に腰を下ろすと、床の硬さがすぐ伝わってくる。
眠くはない。
頭は冴えている。胸の奥も、ずっとざわついている。
それでも――休める時に休んでおきたかった。
後のことを考えると、なおさらだ。
哀は布団の端を引き寄せ、身体を横にする。天井の木目が近い。目を閉じても、闇より先に今日の道、鳥居の赤、背中に刺さった声が浮かぶ。
息を吐いて、もう一度だけ小さく呟いた。
「……明日も、か」
誰に届くでもない声は、物置の匂いに吸われて消えた。
目を閉じて、どれくらい経っただろう。
廊下の軋む音が、二つ。近づいてくる足音。
(……やっぱり、今日はあの二人か)
胸の奥が冷える。身体の芯から、嫌な予感だけがゆっくり広がっていく。
がらり、と引き戸が開いた。
薄目で見える影は、本殿の両脇に座っていた警備の二人だった。躊躇も遠慮もなく、物置へ踏み込んでくる。狭い部屋に、土と酒と汗の匂いが混じった。
哀は起き上がらない。声も出さない。抵抗の形を作らない。
――これも、いつものことだった。
警備はこの神社には六名いる。毎日のように代わる代わるやってくる。
布団が乱暴にめくられ、視線が上から落ちてくる。言葉だけが、勝手に哀を品定めするみたいに転がった。
「……つまらんくなったな」
「今日はさっさと済ませて寝るか」
「だな。ここ埃っぽいし」
手が伸びてくる気配に、哀は無意識に瞼へ力を込めた。動かないふりをしながら、全身が硬直し、歯を食いしばる。慣れたはずなのに、慣れるわけがない。
嫌悪がある。恐怖もある。
喉の奥が詰まって、息が浅くなる。
(……神様)
信じてもいない。祈り方すら知らない。
それでも――今だけは、そこに名前のない“何か”があってほしいと思った。
次の瞬間。
本殿の方角から、割れるような怒声が響いた。
「誰か来い!緊急事態だ!」
空気が一変した。
二人の気配が跳ねる。舌打ちが落ち、足音が乱暴に遠ざかっていく。引き戸が半端に開いたまま、闇と冷たい風だけが部屋へ入り込んだ。
哀は、横になったまま動けない。
何が起きたのか分からない動揺と、今は助かったという安堵が、胸の中でぶつかっていた。
息を吸おうとして、うまく吸えない。
それでも――喉の奥で、ようやく空気が通った。
(……誰か、来た?)
心臓の音だけが、狭い物置にうるさく響いて。
――――――
白依は、ゆっくりと目を開けた。
――あの時と、同じだ。
闇。湿った木の匂い。紙と墨の残り香。息をするたび、喉の奥に古い埃が絡みつく。
けれど。
身体の感覚が、確かにある。
指が動く。足が動く。冷たさも、重さも、皮膚の上にちゃんと残っている。白依は全身を覆う布の下で、ぺたぺたと周囲を探った。掌に触れるのは、荒い木目。狭い。四角い。――箱の中のようだった。
力が入りにくい。何かに縛られているかのように。
それでも白依は、息を吸い、腹の奥に力を溜めた。
前へ。
思い切り、手を押し上げる。
バキッ。
木がひしゃげる音が、狭い空間に乾いて響いた。封じるための“器”が、耐えきれず歪む。
四隅の蝋燭が薄く部屋を照らしていた。
続いて――
ガラッ!
本殿の戸が開かれる音。
白依は、ゆっくりと体を起こした。布が肩から滑り落ち、月光が白い髪を掠める。視線を音の方へ向ける。
そこにいたのは、袴姿の男が二人。
焦った顔。引き攣った口元。硬直した肩。まるで、見てはいけないものを見たという目。
その瞬間、白依の脳裏で、時間が跳ねた。
――京の装束。
――札の舞う手。
――冷たい欲の目。
過去の陰陽師たちの姿が、目の前の男たちに重なる。
考えるより先に、胸の奥が熱を取り戻した。
眠っていたはずの怒りが、憎しみが、焼けた鉄みたいに再び宿る。
(あいつらを……)
白依は、息を吐く。
その吐息だけで、空気が軋んだ。
赤い瞳が、二人をまっすぐ捉える。
もう――理屈の入る隙間はなかった。
「……じじいは、どうした」
鈴の音のように澄んだ声が、本殿の内に落ちた。
木の壁に吸われず、妙にきれいに反響する。
それと同時に、男が二人――腰を落とした。
戦闘態勢。片方は槍。もう片方は札を指に挟み、すぐに放てる角度で構えている。
白依は俯き、呟いた。
「……やはり、殺しておくべきだったんだ」
声は小さいのに、空気が冷える。
喉の奥に沈んでいたものが、ゆっくり形になる。
「じじいの……馬鹿……」
次の瞬間。
槍を持った男が突っ込んできた。床板が鳴る。息が切れる音。
一直線。迷いのない刺突。
白依の胸の奥が、嫌悪でざわついた。
槍――鋭く、冷たく、奪うための形。
反射で、白依は霊を呼ぼうとした。
――だが。
いない。霊も妖も。
呼水が空振る。
――いや、“いさせない”気配が、ここそのものに染みついている。
だから身体が重い。器の底が、乾いている。
槍が迫る。
一瞬、焦りが走る。
白依は咄嗟に――刃を、握った。
痛みを覚悟した。皮膚が裂け、骨まで届く痛みを。
けれど。
いつまで経っても、痛みは来なかった。
「なっ――!」
男の焦った声。
槍の穂先は白依の掌に収まっていた。刃は食い込まない。血も出ない。
白依は、そのまま槍を引いた。
ずるり、と。
男は一瞬だけ踏ん張る。だが、白依の力が勝つ。強引に奪う。
槍を失った男は、反射で後ろへ跳ねた。戸口の方まで下がり、息を乱す。
白依は箱の縁に手をかけ、外へ出た。
布を肩に掛け直し、白い髪が月光を拾う。裸足が床の冷たさを確かめるように鳴った。
槍を奪われた男が、喉を裂くように叫ぶ。
「誰か来い! 緊急事態だ!」
だが白依に、焦りはもうなかった。
(……弱い)
本能が言い切る。
じじいの山で、白依が見てきた“敵”とは格が違う。
この場にいるのは――ただの守りだ。
白依は槍を肩に担ぎ直し、冷たく問う。
「……あれからどれだけの間、白依を閉じ込めていた。じじいをどうした」
札を持った男が、一拍置いて口を開く。
声は落ち着いているふりをしていた。だが目が泳いでいる。
「何を言っているか分からんな。……じじいとは何だ。教えてくれ」
白依は理解した。
――時間稼ぎ。
人が来るまで、ここで足止めするつもりだ。
質問に答える気もない。答えたところで、白依が止まらないのも分かっている。
「……そうか」
白依の声が、すとんと落ちる。
その落ち方が、逆に怖かった。
「もういい」
胸の奥の熱が、静かに膨らむ。
じじいを奪われた夜からずっとくすぶっていた、あの熱。
それに、白依は――手綱を渡す覚悟をした。
人を殺す覚悟を。
白依は札を持った男を、まっすぐ睨みつける。
目から光がなくなり絶対零度の視線ともに言葉を発した。
それは相手のためではなく、己のための宣誓だった。
「……死ね」
鋭く、言い放つ。
部屋の四隅に灯っていた蝋燭の火は消え、槍を握る手に力が入る。
だが、起きたのは槍の一撃ではなかった。
男の身体が、びくりと跳ねた。
次の瞬間――
口、鼻、目、耳。
ありとあらゆる穴から血が溢れ、その表情は苦悶に満ちている。
「ぐ……っ」
言葉にならない呻き。
男は膝を折り、札を落とし、床に伏せた。痙攣が数度走って、それきり動かなくなる。
白依は息を止めた。
――言葉だけで。
(……なにが、これではまるで……)
そう思うと同時、抑えきれない吐き気が込み上げる。
遅れて人を殺したことが、じじいが最後まで取らなかった手段を取ってしまった事実が胸の奥を締め付ける。
(やってしまった……もう、戻れない……)
槍を奪われた男が、引き攣った声を漏らす。
「ひ、ひ……っ……」
腰が抜けたように尻もちをつき、ずるずると後退る。
目の前の現実が理解できないのだ。
そのとき。
ドタドタ、と複数の足音が近づいてきた。
本殿の外。社殿の奥。階段を駆ける音が重なり、闇がざわめく。
白依は、込み上げるものを気合いで飲み下し、槍を握ったまま視線を上げる。
赤い瞳が、来るべきものを迎え撃つ色に変わった。
初めて人を殺し、その熱が冷めないまま――夜は続く。




