第13話 香坂トンネル その2
「そ、そんな……」
哀は震えながら呟いた。喉の奥が引き攣り、言葉がうまく形にならない。
「ここの霊障と言えば……単なる女の霊の目撃情報とか、写真に写る程度じゃ……」
天井の足。揺れる影。湿った空気が肺に貼りつく。
“程度”なんて言葉で片付く光景じゃないのに、哀の口は現実を拒むように、昔の噂へ縋った。
「それに……これだけの被害者が出ているなら、災位はいったい……」
問いは自分自身に向けたものだった。
災位で測れるなら、測れるはずだ。測れるなら――“対処”という形があるはずだ。
その隣で、焔羅が低く言った。
「哀殿。その情報は“戻ってきた者”の情報でしょ」
声に、僅かな震えが混じる。
普段の軽さが消えていた。青紫の火が、尾の先で小さく縮む。
「実際に、“本当の霊障”を受けた者は――」
焔羅の視線が、天井へ走る。
吊るされた足の列へ。
「ここに、吊るされている」
哀の呼吸が止まった。
喉が鳴り、胃の底が冷える。
そのとき、白依が焔羅へ声をかけた。
「焔羅」
――名を。
呼ばれた瞬間、焔羅の身体がびくりと跳ねた。
初めて、はっきりと“名”で呼ばれたことへの驚き。
そして、その声に滲む怒気――鋭く冷たい熱に、喉が勝手に震える。
「は、はいっ!」
返事が裏返った。
恥ずかしさすら後から来る。
白依は天井を見上げたまま、短く告げる。
「こいつは白依がやる」
言葉が落ちた途端、空気がさらに重くなる。
白依の赤い瞳が、吊るされた足の影の奥へ釘を刺す。
「お前は――哀を守れ」
焔羅の耳が伏せ、次の瞬間、背筋がぴんと伸びた。
「り、了解であります!」
動揺のあまり、よく分からない言葉遣いになる。
それでも焔羅は一歩、哀の前へ出る。小さな身体で、盾のように。
哀は――その場で固まった。
“哀”と呼ばれた。
“守れ”と言われた。
恐怖で震えていたはずなのに、その二つの言葉が胸の奥へ落ちた瞬間、別の温度が込み上げた。
熱い。
怖いのに――嬉しい。
自分でも気味が悪いほどの幸福が、恐怖を上から塗り潰していく。
震えが、止まった。
哀は唇を噛み、息を吸う。
目の前の闇がまだ怖いのに、白依の背中だけがやけに近く感じた。
(……守られる)
その事実が、哀の心を――立たせた。
瞬間。
地面に落ちていた斑な影が、ぬるり、と濃くなった。
ただの影じゃない。光を吸い、黒を増やし――輪郭が“意思”を帯びる。
影は、手の形を造った。
指。掌。爪のようなもの。
それが一本ではない。十本でもない。無数。
床一面から生え、天井の足の影と絡み合いながら、いっせいに哀へ伸びてくる。
まるで「足を返せ」とでも言うように。あるいは「次はお前だ」と告げるように。
哀が息を呑むより先に、焔羅が前へ出た。
「……ふんっ」
短い気合いと同時に、焔羅の纏う青紫の焔が膨らむ。
ぱち、と弾けた火が弧を描き、半球状の“膜”になって哀ごと包んだ。
影手が膜へ触れた瞬間――じゅっ、と嫌な音がして、黒が薄く焼ける。
伸びた指がはじかれ、形が崩れ、床へ貼りつくように引き戻された。
焔羅が吠える。
「主!しばらくはこれで大丈夫です!」
白依はそれを一瞥するだけで、すぐ影手へ意識を戻した。
赤い瞳が冷える。
白依は影へ指を伸ばし、呼水を落とす。
――呼水。
器の底を開き、“入れ”と呼ぶ。
いつもなら、霊も妖も、縁を結ぶより先に吸い寄せられる。
だが。
取り込めない。
白依の指先に触れるのは、濡れた煤のような不快感だけで、芯がない。
噛める輪郭がない。契るための“本体”が、ここにいない。
白依は焦らず、思考を組み直す。
(……これは、あくまで影か)
白依の目が天井へ、壁へ、床へと素早く走る。
影を操るもの。影を通して触れてくるもの。
(本体に触れなければ――)
今まで、こんなものはいなかった。
霊や妖は基本、白依の身体が目当てだった。器そのものに寄ってきた。だから捕まえられた。
けれど――時が流れ、時代が変わった。
人の考えも、価値観も、欲の形も変わる。
それが霊や妖にも、歪んだまま映り込む。
“直接食われる”より、“都合よく釣って喰う”ほうが効率的だと知ったものがいる。
“器”そのものではなく、“器の隣”を狙うものが出てくる。
白依は歯を噛み、低く呟いた。
「面倒な……」
哀は――冷静を取り戻していた。
先程まで身体を支配していた恐怖は、まだ完全に消えない。しかし、白依の言葉でそれは薄れた。
心臓は速いまま、喉の奥も乾いたまま。けれど、呼吸だけは整えられた。視線は、ぶれなくなった。
深く観察する。
それは哀の得意分野でもあった。
哀は弱い。だからこそ、生き残るために――注意深く状況を見極め、身を振る術を身につけてきた。
落ちこぼれとはいえ御三家の分家だ。
最低限、怪異の“型”と“癖”は知っている。
(……ここは、もうただのトンネルじゃない。この怪異の術の中……領域そのものに呑まれてる)
哀は焔羅の焔膜の内側から、天井の足、床の影、壁の闇の“流れ”を追った。
影手は一定の間で伸び、一定の角度で戻る。狙いはいつも――自分の足首。執拗で、偏っている。
入口も出口も消えた。距離の感覚が歪む。光が“見せたいもの”だけを照らす。
攻撃し、奪いにくる。
喰うために、手を伸ばしてくる。
ということは、これは封印や結界の類ではない。
(……なら)
哀は、舌の裏に苦い唾を溜めて、思考を切り替えた。
(本体も、この領域の中にいるはず)
外から干渉しているなら、このような的確な攻撃はできない。
でもこれは違う。影が床から生え、壁が鎌になり、天井の足が揺れるたびに空気が脈打つ。
“ここ”で動いている。
“ここ”で息をしている。
哀の目が、焔膜の外――床へ落ちる影の濃淡を、さらに細かく拾い始めた。
どこが源か。どこが“芯”か。どこから命令が出ているか。
哀は、焔羅の焔膜の内側から地面を凝視していた。
斑な影が、無数の足の揺れに合わせて呼吸するように動く。伸びて、縮んで、絡んで――哀の足首を狙って形を変える。
だが、その流れの中で、ひとつだけ“異物”があった。
(……動いてない)
天井で揺れる足と連動しているはずなのに、そこだけが揺れない。
影手も生まれない。
周囲が騒がしいほど、その静止は不自然に浮いた。
直感だった。
けれど哀は、直感を軽んじない。弱いからこそ、こういう一瞬の違和感に賭けて生き残ってきた。
哀は息を吸い、声を張った。
「白依様!左後方――動かない影があります!」
白依は、瞬時に反応した。
赤い瞳がそちらへ切れ、身体が迷いなく滑る。
一歩で距離を詰め、影の上へ迫る。
そして白依は足を上げ――
踏み抜く。
そう決めた足が、床へ落ちる瞬間。
影が、膨張した。
ぶわり、と。
ただの斑が、急に“深さ”を持つ。地面に貼りついた黒が、底のない穴のように広がって――白依の足を喰おうと口を開けた。
白依は咄嗟に身を引く。
踵が床を擦り、距離を取る。
それと同時に。
影手が、吸い寄せられた。
先程まで哀へ伸びていた無数の影の手が、膨張した影へ集まり、絡みつき、溶けて――同化していく。
ばらばらの“攻撃”が、一つの“本体”へ回収されるように。
白依は、口元だけで低く言った。
「……やっと出てきたか」
膨張した影が、ぐにゃり、と盛り上がる。
床から立ち上がるように、黒が骨格を作り、肉の輪郭を捏ね、形を定める。
人の形――。
現れたのは、灰髪の老婆だった。
ぼろ布を纏い、背は曲がり、骨ばった腕で大振りの草刈り鎌を握っている。
刃は鈍く見えるのに、空気だけが切れていくような嫌な気配がある。
ギリギリと歯を軋ませ、目は黒く染まり、白目と瞳の区別がつかない。
その黒が、鬼の形相のまま白依を睨み据えた。
老婆の口が、裂けるように歪む。
声にならない“息”が、トンネルの湿り気を震わせた。
影の中から――“喰う意思”だけが立ち上がってきた。
哀と焔羅は、その姿を見た瞬間――背筋に悪寒が走った。
焔羅の尻尾の青紫の火が、ぶるり、と震える。
(……あれは、我より格上かも)
喉の奥で漏れそうになった本音を、焔羅は噛み殺した。
だが恐怖は消えない。老婆霊の“在り方”が、格の違いを皮膚に叩きつけてくる。
刹那。
老婆霊が、動いた。
速い。
床を蹴る音すら遅れて聞こえるほどの速度で、白依の横を抜け――一直線に哀へ突っ込んでくる。
哀の呼吸が止まる。視界が狭まる。
身体が固まるより先に、焔羅が前へ出た。
(守る)
白依から受けた命令。
それだけが、焔羅の芯になった。
(哀殿だけは――絶対に)
焔羅の焔が、半球の膜の内側でうねる。爪が伸び、牙が鳴る。
間に合わないと分かっていても、飛び込むしかない。
――だが。
それは、杞憂に終わった。
“出遅れた”と思った白依が、もうそこにいた。
白い影が、老婆霊の進路へ滑り込む。
一歩。たった一歩で、距離も速度も意味を失わせる。
次の瞬間。
白依の右手が、老婆霊の顔面を掴んだ。
指が頬骨に食い込み、黒い目の奥を握り潰すような圧がかかる。
老婆霊の突進が、そこで止まる。――いや、“止められた”。
そして、そのまま。
ドン、と。
地が鳴いた。
白依は老婆霊を地面へ叩きつけた。叩きつけられた衝撃で、影の膜が波打ち、吊るされた足の影が一斉に揺れる。
哀は、息を吸うのを忘れたまま、ただ見ていた。
焔羅も固まる。守るつもりで前に出たのに、守る必要すら残されなかった。
白依は、老婆霊の顔を掴んだまま、低く呟く。
「……今度は、掴めたな」
それは確信だった。
先程までの影手は“影”でしかなかった。
だが、今この手の中にあるのは――本体の輪郭。
白依の掌の内側で、線が引かれる。
呼水。
拒まず、招かず、ただ“呼ぶ”。
主導権を握ったまま、器へ落とす。
白依の掌で、老婆霊が――沈んだ。
黒が吸い込まれていく。抵抗の歪みが一瞬だけ暴れ、唸りが喉の奥ではなく骨の内側へ響いた気がした。
それでも、白依の手は揺れない。
老婆霊は、白依の中へ取り込まれていった。
白依の中で――“聞いたことのない欲望”が、暴風のように荒れ狂った。
(足。足を刈る。刈らせろ。足、足、足――刈らせろ!)
声ではない。喉も舌も持たないくせに、意志だけが牙のように噛みついてくる。
粘ついた執着。飢え。快楽の記憶。刈り取った瞬間の手応えを反芻するだけの狂気。
封印される前の白依なら、呑まれていたかもしれない。
これほど“強い”意志は、白依が知る霊や妖のどれとも違う。深く潜り、根を張り、器の内側を自分の領土にしようとする。
だが。
今の白依の中には、それを上回るものがある。
――憎悪、憤怒、それに圧倒的な目的。
じじいを砕かれたあの日から、身体の内側に沈殿していた濁り。
それは熱く、冷たく、常に舞う。そして折れない。
(黙って、白依の力になれ)
白依は内側へ刃を入れるように、線を引いた。
――線引。
境目を作る。勝手に居座らせない。居場所を与えない。
暴れる意志を“ここまで”に押し込める。
――呑口。
飲み込むための口を開くのではない。
飲み込める形へ削り、砕ける輪郭へ整える。
内臓が裏返りそうな嫌悪感が、喉の奥へせり上がった。
それでも白依は、吐き気ごと押し潰す。
喉へ、口へ――持っていく。
そして。
噛み砕く。
ガリッ。
奥歯に硬い感触が走り、同時に“欲望”が裂けた。
足、刈らせろ、足――その叫びが、歯の間で潰れて、意味を失わせる。
白依の舌に、鉄錆びと泥と、腐った甘さが残った。
次の瞬間。
トンネルが、戻った。
壁の影がただの影に戻り、天井の足は消え、ぬるい湿気だけが残る。
入口も出口も、当たり前の距離に在る。
先程まで“腹の中”だった空間が、ただのコンクリとレンガの通路へ落ちていった。
白依は、口の中に残った“殻”を吐き出す。
ぺっ。
床に落ちたそれは、白い煙をひと筋だけ上げて――すぐに消えた。
白依は舌先で残り滓の不快感と身体の奥へ満ちる気を確かめ、顔を顰めて呟く。
「……不味い」
その言葉だけが、空になったトンネルの中に、静かに残った。
「……終わった、のですか?」
哀の声は震えていた。
恐る恐る、暗がりに残る気配を確かめるように、足元へ視線を落としたまま問いかけてくる。
白依は一度だけ、息を吐く。
「ああ」
短い返事。
それだけで、哀の肩から力が抜けた。まだ膝が笑っているのに、呼吸だけは少し整っていく。
次の瞬間だった。
「主ーーーーー!!」
焔羅が、先程まで張っていた焔の半球を解き、勢いよく白依へ飛びついてきた。
白依は反射で右手を上げ――そのまま、顔面へ突撃してきた白い毛玉を掴む。
「……っ」
掴まれた焔羅が、目を見開く。
「ちょ、主!待って待って待って!我を砕かないでください!お願いします!噛みません!噛みませんから!」
先ほど白依が、右手から老婆霊を取り込み、噛み砕いた。
だから焔羅は、“次は自分だ”と本気で思ったらしい。青紫の焔が尻尾でぱちぱちと不安定に跳ねる。
白依は眉間に皺を寄せ、ため息を飲み込むように鼻で息を吐いた。
……面倒だ。
白依は焔羅を、ぽいと放るように手を離した。
「ぴゃっ」
焔羅が空中でばたつき、慌てて姿勢を立て直す。
尻尾の火が、ほっとしたように小さく揺れた。
白依は何も言わないまま、踵を返す。
哀と焔羅へ背を向け、トンネルの出口――車の方へ歩き出した。
足音が、乾いた反響になって戻る。
もう先程のように、壁が笑う気配はない。空気はただ湿って、冷たいだけだ。
数歩。
白依は振り返らないまま、小さく零した。
「……よくやった。戻るぞ」
それは褒め言葉のつもりではなく、事実を落としただけの声音だった。
けれど、その一言は――哀と焔羅には十分すぎた。
「……っ」
哀の目が見開かれる。
胸の奥が一気に熱くなって、言葉が詰まる。
焔羅は一拍遅れて、全身で跳ねた。
二つの声が重なる。
「「主!白依様!」」
背中へ追いすがる足音。
白依は歩みを止めない。止めないまま、ほんの少しだけ口元が緩んだ気がした。




