第1話 穢れの子
まだ、人と人ならざる者との境があやふやだった平安の世。
冬――山あいの小さな集落に一つの“災”が生まれ落ちた。
いや、生んでしまった。
産声は弱く、しかし、闇に灯った火のように澄んでいた。産婆が赤子の顔を覗きこんだ瞬間、息が止まった。白い。髪も、肌も、まつ毛も。血の気のない白が、湯気立つ産屋の暗がりに不気味に浮いた。そして瞳――生まれたばかりの赤は、火箸の先のように鮮烈で、見た者の胸をざわつかせた。
「……穢れだ」
誰かが呟いた。誰かが頷いた。口伝に残る話が、噂を呼び、噂が恐怖を育て、恐怖が“正しさ”の仮面を被った。
産屋の外では、雪を踏む音がいつの間にか増えていた。戸の向こうから、わざと大きい咳払いが混じる。好奇と警戒が入り混じった気配が、薄い障子一枚を隔てて滲み出してくる。
人は、分からないものを恐れる。
恐れは、最初はただの距離だ。目を逸らす。近づかない。触れない。
だが距離はすぐに理由を欲しがる。「あれは危ない」「あれは悪い」――言葉が先に立てば、心は楽になる。
自分が正しく、相手が間違っていると思えれば、胸のざわつきは収まる。
そうして恐れは、いつしか“追い払うべきもの”へ変わる。
この子は、いずれ禍を招く。
この子は、神の怒りを呼ぶ。
この子は、村を滅ぼす。
名が与えられたのは、祝福ではなく呪いとしてだった。白穢――白き穢れ。依常童子――永遠に幼いまま、依り憑かれ、常ならぬ童。
名を決める場で、誰も赤子を“人”として見ていなかった。ただ、起きるかもしれない災いの数を数えていた。
両親は、名を呼ぶたびに胸が裂ける思いだった。けれど、名がどうであれ、その子は彼らの子で、温もりのある小さな命だった。母は白い額に唇を寄せ、父は小さな手を握って、その細さに震えた。
抱き上げれば、かすかに温かい。息をしている。泣き声は弱くても、生きている――それだけが確かだった。
そして、噂が広がるのは早かった。
井戸端に落ちた一言は、雪解けの水より早く流れた。集落の端から端へ、同じ話が別の形で転がっていく。“見た者”が増えるほど、言葉は強く、尖っていった。
噂は、赤子だけを刺さない。両親にも絡みつく。
父が畑へ出れば、隣の畝の者が無言で鍬の向きを変えた。
母が井戸へ桶を持って行けば、先にいた女が桶を抱えたまま背を向け、母の触れた井戸の縁を布で拭いた。まるで触れただけで穢れるみたいに。
薪を分けてくれと頼めば「余りがない」と言われる。次の家でも同じ言葉。
ならばと父が山へ入れば、「山を荒らすな」とまた責められる。
祭の日、父は役から外された。理由は言われない。ただ、視線だけが答えだった。
村で息をするだけで、二人は少しずつ“村の外側”へ押し出されていった。
それから白穢は家から一歩も出ることを許されず、五歳の誕生日を迎えた。
白穢は幼いながらに理解していた。両親や扉の隙間から見る村人たちと白穢の違い。
そして、父と母が白穢のことを見る目や名前を呼ぶ際にみせる悲痛な表情。
父は笑って見せるのに、声だけが苦い。母は抱く腕に力を込めるほど、泣きそうな匂いがした。白穢はその匂いが嫌で、でも、それを嫌だと言ったらもっと悲しませる気がして、黙っていた。
冬が深くなると、家の外は白くなった。
障子の隙間から覗く庭は、雪が薄く積もっているだけで、いつもより少し広く見えた。
白穢は、指先で障子をそっと押した。
ほんのわずか、隙間が開く。冷たい空気が、細い糸みたいに頬を撫でた。
外は静かだった。
雪の上に、誰かの足跡がいくつも残っている。家の前を通り過ぎて、少し遠くで止まって――また離れていく。
誰も、ここへは来ない。
来たとしても、戸を叩くのではなく、“確かめに来る”だけだ。
白穢は庭の隅に、小さな雪の塊を見つけた。
誰かが遊びの途中で落としたのだろう。丸くもない、ただの白いかたまり。
(……まるいの、つくってみたい)
口に出す前に、喉の奥で言葉がほどけた。
“作りたい”と言えば、母が困る顔をする。父が無理に笑う。
白穢はそれを知っていた。
だから、ただ見た。
雪の塊が、少しずつ溶けていくのを。
そのとき、外から子どもの声がした。
笑い声。雪を踏む音。転んで泣く声。すぐにまた笑う声。
白穢は、呼ばれていないのに、胸の奥がきゅっと縮んだ。
障子の向こうへ手を伸ばしかけて――止める。
指先が、ふるりと震える。
そこへ母が戻ってきた。桶を抱えた腕は冷えていて、頬も少し赤い。
白穢は慌てて障子から離れた。見ていないふりをする。
母はすぐに気づいた。
気づいて、叱らなかった。
ただ、白穢の髪を撫でて、いつもより少しだけ長く抱きしめた。
強くもなく、優しくもなく――“離さない”という抱き方だった。
「……寒いからね」
それだけ言って、母は障子の前に座り込む。
白穢の視線と外の景色の間に、自分の背を置くように。
外の笑い声は、雪の向こうで弾ける。
白穢は母を見つめながら、もう一度だけ庭の雪を思い浮かべた。
丸い雪。それを作る自分の手。
想像の中でしか触れられないものほど、あたたかく感じるのが不思議だった。
夜、父が帰ってきて、白穢の手を握った。
「いつか、外へ出られる」
その声が、一番震えていた。
家の中にも、冷たいものは入ってくる。
戸口に置かれる塩の小山。敷地の隅に刺された、意味の分からない藁人形。
子どもの笑い声が、戸の外で止まり、次の瞬間には石が転がる音に変わる。
「見るな」「近づくな」――大人の声が、子どもを躾ける声が、薄い壁を通して滲む。
白穢は、それが自分に向けられていると分かっていても、どうすることもできない。
ただ両親の背が、日に日に小さくなるのを見ていた。
そんな日々が続いた。
望んでいない、いつかが来た――夜、戸を叩く音。叩くというより、打ちつける音。複数の足音。酒と汗と土の匂い。父が戸に背を当て、母が白穢を抱く。外からは怒声が飛び、松明の火が障子に踊る影を落とした。
影は人の形をしているのに、どれも獣じみて見えた。笑い声が混じった瞬間、母の腕が一段強く締まる。
「出せ! 穢れを出せ!」
「今のうちに殺さねば、村が祟られるぞ!」
「もう限界だ!その化け物が生まれてからこの村は!」
父は迷わなかった。母の腕を引き、裏手の獣道へ駆けた。抱かれた白穢は泣かなかった。泣けば見つかると本能で知っているかのように、ただ赤い瞳だけが闇を映した。
父の指が、白穢の小さな手を握る力だけ、あの夜より強かった。
走るたびに枝が頬を掠め、雪が衣を濡らす。息は白く裂け、足は地面に取られる。それでも父は止まらなかった。止まったら終わると知っていた。
(なんで、お父さんもお母さんも何も悪いことしてないのに……ただ、白穢を産んでし待っただけなのに……)
逃げた先にあるのは、山だった。
集落には昔から、言い伝えがあった。神のおわす山がある。村の境を越え、河を超え、その山は、神山。地脈・霊脈・龍脈――名の付けようのない力の本流が重なる場所。人がみだりに入ってはならぬ場所。
子どもが泣けば、祖母は言うのだ。“山の神さまに叱られるよ”と。誰も見たことはないのに、誰もが恐れていた。
それでも両親は、そこへ向かった。村の“正しさ”に殺されるより、神に裁かれる方がまだましだった。あるいは――神は、この子を“穢れ”と呼ばないかもしれない、と。そんな微かな希望に縋った。
父は一度だけ振り返った。遠くの村に松明の列が見えた。追ってきている。母は声にならない声を漏らし、白穢の頭を胸に押し付ける。白穢はその鼓動を聞きながら、なぜ自分が追われるのかを、言葉にならないまま理解していた。
夜明け前、霧の濃い山の麓に辿り着いた時、二人の身体は限界だった。逃亡の恐怖、冷え、傷、飢え。母の足はもつれ、父の背は丸まっていた。けれど彼らは、白穢を地面に落とさぬよう抱え、最後の一歩を踏みしめた。
霧は冷たく、濡れた布のように肌にまとわりつく。山の空気は村の空気と違って、匂いが薄い。音も薄い。――まるで、人の世が遠ざかっていくみたいだった。
そこに、いた。
人ではない。だが獣でもない。老いた男の姿をしているのに、背後の空気が古すぎて、時間そのものが裂けて見えた。髪は墨を薄めたような灰色で、目は深い水底のようで、見つめ返されると自分の内側を覗かれる気がした。
霧がその男を避けている。足元の落ち葉さえ、息を潜めているようだった。
土地に坐し、影を抱き、鎮め、霊を護る大神。名は長く、重く、口にすれば舌がひりつく。だが両親はその名を知らない。ただ、圧倒的な“いる”という気配に膝が折れた。
恐怖というより、抗えない重さだった。山が“ここに居ろ”と命じているみたいに。
父が土下座し、母が白穢を差し出すように抱きかかえる。声はかすれていた。
「どうか……どうか、この子を……」
安堵したのか、言い終える前に、二人は祈る形のまま崩れ落ち、白穢だけが白く残った。
白穢は、両親の手が自分から離れる感覚を知った。冷たい霧が頬を撫で、赤い瞳に映る世界が、ぐらりと揺れる。
霧の中で、大神は静かに見下ろした。長い沈黙の後、彼は白穢を抱き上げた。軽い。あまりに軽い。人の世の重さを背負わせるには、あまりに。
「……白い。綺麗だ」
それは恐れでも嫌悪でもない、ただ事実を言っただけの声だった。
白穢は初めて耳にする言葉に赤い瞳が大神を見つめ返す。大神は、小さく鼻を鳴らすように笑った。
「おい、ちび。名前は?」
倒れて動かない、父と母をみる。
(殺された、人間に。殺した、白穢が。)
自分のせいで両親が死んだ。その事実を確かに胸に刻み、そして大神へ視線を戻し、悲痛な顔で呼ばれていた名を口にする。
「白穢……依常童子」
一瞬、大神の眉間に皺がよる。
その皺は、子に刻まれた呪いを読み取った証のようだった。
「そうか。では、これからはお前を白依と呼ぶ。お前も自分のことはそう呼べ」
言い切ったあと、大神は白穢の額に指を置いた。冷たくも熱くもない。けれど、その触れた場所だけが、妙に確かな重さを持った。
白穢は、初めて“穢れ”ではない音で呼ばれた気がした。
この時――白穢は、白依になった。
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