4 腕の中で
フレデリカの機嫌がすこぶる悪い日が続き、何かと理由をつけては毎日のように手を上げられた。
おそらく、テニスン子爵子息があまり屋敷に来なくなったせいだ。
私が会った時のテニスン子爵子息の様子からしても、ふたりの間に何かあったことは間違いないだろう。
あの日、テニスン子爵子息にされたことを思い出すと気分が悪くなるけれど、すぐにバート様が繰り返し上書きしてくれた感触に置き換えることができた。
あれを忘れてしまう前にバート様に会いたいと願いながらも、フレデリカに代わりを命じられることのないまま季節は冬になった。
フレデリカはマリーヌ校の中間試験の結果も思わしくなかったらしく、私のせいだと言って打ってきた。
それから間もなく、姉の部屋を中心に屋敷の中が何だか慌ただしい雰囲気になった。
フレデリカがラトクリフ公爵領に行くことになったのだ。
卒業まで半年ほどになったマリーヌ校は休学することになるが、最後の試験さえ通れば卒業資格は得られるらしい。
現在、バート様のお父様は駐在大使としてエルウェズに赴任されていて、お母様もそちらにいらっしゃるのだそう。
そのため、フレデリカに次期公爵夫人としての教育を領地で暮らしておられるお祖母様のもとで受けてほしいということのようだ。
『貴族名鑑』によると、初代ラトクリフ公爵夫妻の間に生まれた三人の子は皆女性で、長女が跡を継ぎ二代目ラトクリフ公爵になった。それがバート様のお祖母様だ。
つまり、フレデリカは前公爵に直接様々なことを教えていただけるのだ。
さらに、ラトクリフ領都は湖の畔にあるとても美しい街らしい。
王都からそれほど離れていないが標高が高いので、王都では滅多に見られない雪も降るとか。
だけど、私にとって何より妬ましくて仕方ないのは、フレデリカがバート様に望まれて彼の妻になるためにラトクリフ領に行くということだ。
逆に、フレデリカがこの屋敷からいなくなればバート様がここを訪れることはなくなって、私が彼に会う機会もまったく失われてしまう。
フレデリカに怯えて暮らさずに済むのだとしても、やはり辛かった。
「ヒューバート様のお祖母様は、私と会うのをとても楽しみにしてくださっているのですって。ヒューバート様もクリスマス休暇にはあちらにいらっしゃるそうで、私と一緒に過ごせるのが待ち遠しいと仰っていたわ」
私の部屋にやって来てそう言ったフレデリカは、近頃では珍しい上機嫌な様子に見えた。
「何か言ったらどうなの?」
「フレデリカお姉様がとても羨ましいです」
本心を悟られぬよう慎重に応えたつもりだったのに、気づけば私は床に尻餅をついていた。
「愚図が嫌味ったらしいわね。はっきり言いなさいよ、清々するって。私がいなければ好きなことができる。外にも出られるし、オーガスト様も自分のものだって、言ってみなさいよ」
激昂したフレデリカはあたりにあったものを手当り次第に投げつけてきた。
それが止んだかと思うと、次には腕を強く掴まれて無理矢理立たされた。
「おまえの思いどおりになんかならないわよ。それが嫌なら今すぐここを出て行けばいいじゃない。どうせおまえなんか要らないんだから」
姉に引きずられるようにして私は裏口から屋敷の外へと連れて行かれた。
裏門から突き飛ばすようにして押し出され、通りの石畳にまた尻餅をついた。
「二度と戻ってくるんじゃないわよ」
姉が屋敷の中へと消えてから、私はのろのろと立ち上がった。
裏門に鍵をかけられたわけではないので私も屋敷に戻ることは可能だが、姉に見つかればさらに酷い目に遭うのは考えるまでもなかった。
とりあえず、少しでもほとぼりが冷めるまでは屋敷の外で時間を潰そうと決めて歩き出した。
とはいえ、ほとんど外出したことのない私はこんな時どこへ行けばいいのかわからず、いつか父の書斎で見た王都の地図の記憶を頼りに大きな通りのほうへと向かった。
部屋にいた時に巻いていたショールをどこかに落としてきてしまったので、冷たい風に身体が震えた。
自分で自分の身体を抱くように腕を回すと、自然とバート様の温かい腕が思い出された。
フレデリカがラトクリフ領に出発するのは3日後の予定だった。
その前に私がバート様に会えることはなさそうだ。その後はさらに可能性が低くなる。
もう彼には会えないのかもしれない。
込み上げてくる涙をぐっと歯を喰いしばって堪えた。
子どもの頃に読んだ、屋敷を追い出された娘が幸せになる物語を思い出そうとするが、まったく上手くいかなかった。
前方から立派な馬車が近づいてくるのが見えてようやく、娘がたまたま見かけた馬車から降りてきた男に拐われる場面が頭に浮かんだ。
私が見かけた馬車はあっという間に横を通り過ぎていった。と思ったのに、すぐ背後で停まる気配がした。
「そんな薄着で何をしているんだ?」
今、一番聞きたかった低い声。振り向くと、バート様が羽織っていた外套を脱ぎながらこちらに歩いてくるところだった。
バート様を見つめながら両腕を下げて立ち尽くした私の身体を、彼は外套ですっぽりと包み込んでくれた。
「とにかく馬車に乗りなさい」
会いたかったバート様が突然現れたことが夢のようでぼんやりしている私を、彼は馬車に乗せて座らせてくれた。
さらに私を抱き寄せ、外套の上から肩や背中を摩ってくれるバート様の温かさに、私の思考が再び働き出した。
「ありがとうございます」
「ちょうど君の家に行くところだったんだ。気づいて良かった」
「あの、私、しばらくは帰りたくなくて、ご迷惑でなければどこか適当な場所で降ろしていただけませんか」
そうお願いすると、バート様は眉を寄せて私を見下ろした。
「何かあったのか?」
私は咄嗟に首を振ってから、ふと思った。今のバート様の目にはフレデリカとセシリア、どちらが映っているのだろうか。
髪を結っても化粧をしてもいないのだから、普通に考えればセシリアなのだが。
「そのドレス、以前に着ていたのと同じものだろう?」
そう、私が着ているドレスは、最初にフレデリカとしてバート様に会った時に着ていたのと同じものだった。
ただし、あの時にはなかった大きな染みがついている。
きっと、私を外套で包む時にバート様もそれに気づいたのだろう。
「はい。不注意で汚してしまいました」
「そうか」
バート様は小さく嘆息してから、御者に馬車を屋敷に戻すよう命じた。
ラトクリフ公爵のお屋敷はウォートン家よりずっと大きかった。
外観は一見落ち着いた感じだけれどよく見ればあちこちに凝った意匠が見られ、玄関ホールは重厚感のある置物やたくさんの絵画が上品でありながら華やかな雰囲気を演出していた。
バート様が私を案内してくれたのは、居間のようだった。こちらにも絵がたくさん飾られていた。
テーブルとソファも置かれていたが、バート様は侍従が手早く火を入れた暖炉の前、ふかふかのラグの上に私を座らせ、部屋を出て行ってしまった。
しばらくして、メイドが毛布を持ってやって来た。
私は先ほどまでバート様が纏っていた外套のほうが彼の温もりや匂いを感じられて良いのにと思ったものの口には出せず、外套をメイドに渡して代わりに受け取った毛布を肩にかけた。
名残惜しく外套を手に居間を出て行くメイドを見送っていると、入れ替わりにバート様が戻ってきた。
バート様は温めたミルクの入ったカップを私に手渡してから、迷う様子もなく私のそばに腰を下ろし、また私の身体に腕を回した。
それで、どうやら今の私はフレデリカらしいと判断した。
寂しさを感じつつ、ならばと私も精一杯バート様に身を寄せて、ミルクをいただいた。
「身体は温まったか?」
「もう、すっかり。バート様のおかげです」
実際、馬車に乗せてもらう前は強張っていた身体がずいぶん緩んでいた。
カップの向こうに見えるバート様の顔に、柔らかい笑みが浮かんだ。
バート様のこんな笑顔を見られるのはこれが最後かもしれないと思うと胸が苦しくなって、彼に気づかれないようまた込み上げてきた涙を残りのミルクと一緒に飲み込んだ。
「もっと飲むか?」
「いえ。ごちそうさまでした」
バート様は私の手からカップを取ってテーブルの上に置いた。
「そう言えば、バート様、お仕事は?」
「王太子殿下に戻るのが遅くなると連絡したから大丈夫だ」
その言葉で、むしろ私は慌てた。
「私のために申し訳ありません。もう失礼しますから、どうか王宮に……」
言い終わる前に、バート様の胸に抱き寄せられた。
「今は何も心配せず、ここにいればいい」
大きな手が私の頭をそっと撫でてくれた。その感触がとても心地良くて、このまま甘えてしまいたい気持ちになった。
どうせ、これが最後なのだ。
「はい」
バート様の服を両手でぎゅっと握り、彼の胸に顔を埋めて目を閉じた。伝わってくる鼓動は、やはり私より早い。
その音を聞いているうちに意識が遠のいていく中で、バート様が「セシー」と呼ぶ声を聞いた気がした。
次に目を開けた時には、私はソファの上で横になっていた。クッションを枕に、身体には先ほどの毛布がかけられている。
私の目の前では、同じソファに寄りかかるようにして床に座り込む形で、バート様が何か書類を読んでいた。
私の視線に気づいたらしいバート様が振り向いた。
「目が覚めたか?」
私は急いで飛び起きた。
「寝てしまって、ごめんなさい」
バート様は目を細めた。
「気にするな。だいたい、私の腕の中で君が寝るのは初めてではないだろう」
私は思わず息を呑んだ。
私が以前にバート様の腕の中で寝てしまったのは、初めて会った日の馬上でのこと。バート様もあの時のことを覚えていてくれたのだ。
そして、今日のバート様はセシリアに優しくしてくれていたということでもある。あくまで婚約者の妹だから、だとしても。
「セシー」と呼ばれたのも、夢ではなかったのかもしれない。
嬉しさとともに、セシリアとしてバート様に言いたいことがたくさん浮かんできた。が、そのどれもが口にすれば彼を困らせるか傷つけるだけのものに思えた。
バート様のことを想うなら、私はこのまま黙っていたほうがいいに決まっている。口を閉ざしておくのは私の得意なことだ。
「色々とありがとうございました。そろそろ帰ります」
バート様も束の間何か言いたいことがありそうな顔になったけれど、結局、「送ろう」と言っただけだった。
私は、祝福や「姉をお願いします」といった言葉も最後まで言えないままだった。
当然のことながら、バート様がセシリアに口づけてくれることも最後までなかった。