3 あなただけと
バート様と会った時に私が着ていたフレデリカのドレスは、彼が帰ってから私が部屋に戻ると同時にメイドたちに脱がされた。
が、翌日には再び私の部屋に放りこまれた。
私が一度袖を通したものなど着たくないということだろうけれど、大きな染みがつけられていてドレスに対し申し訳ないような気持ちになった。
もちろん一番申し訳ないと思うのはバート様に対してだ。
一緒に過ごせたのがほんのわずかな時間だったにも関わらず、立派な大人の男性だと思っていたバート様が意外なほど様々に表情を変えるのを見ることができた。
でもあれは、目の前にいたのがフレデリカだと信じていたからだろう。
セシリアが相手では、きっとあのよそよそしい笑顔しか見せてくれない。
それどころか、バート様が真摯に赦しを請い、情熱的に抱きしめて口づけた相手がフレデリカではなく私だったと知ったなら、いくら優しい彼でももう二度と私には会ってくれないだろう。
フレデリカが知ったなら烈火の如く怒り狂うはず。
だけど、私はふたりの前であの日のことをすべてぶちまけてしまいたい誘惑に駆られていた。
ついでにフレデリカが私にしてきたことやテニスン子爵子息としていることもすべてバート様に話してしまいたい。
バート様が屋敷を訪れるたびフレデリカに蕩けるような笑顔を向け、優しく触れ、腕の中に抱きしめて口づけているのかと思うと堪らなかった。
フレデリカに何をされようと気持ちが大きく波立つことはなかったのに、ドロドロとした暗い感情に心が支配されていく。
どうしてバート様はよりによってフレデリカに求婚したのだろうか。
フレデリカ以外の誰かを選んでくれていたなら、私はバート様に再会できないことを残念に思いながらも、森での出会いの記憶だけを大切に抱えて修道院に入り、穏やかに生きていけたのに。
悪いのはバート様ではなく彼を騙しているフレデリカと私なのに、彼に対して恨みがましい気持ちを抱いてしまう自分がとても醜く思えた。
自分の中にあるぐちゃぐちゃな感情から目を逸らしたくて読書にのめり込んだ。
しかし、フレデリカの机で見つけた本をもうすぐ読み終えそうだという頃になって、姉にそのことを気づかれてしまった。
例によってフレデリカはその本で何度も私を打った。
私が床に倒れこむと、腕を踏みつけながらフレデリカが言った。
「愚図が本を読むことに意味があるっていうなら、それを証明してみせなさいよ」
意味がわからずフレデリカを見上げると、耳を引っ張られた。
「ここにある本の感想文を明日までに書けって言ってるの」
「……でも、まだ読み終わっていなくて」
「だったら今から読めばいいでしょ。もしできなければ、この家にある本をすべて捨てるわよ」
フレデリカは私を打つために手にしていた本と机の上にあった本を私に押しつけて、部屋から追い出した。
状況が飲み込めぬまま、私は自分の部屋に戻って本の続きを読み、夜には最後まで読み終えた。
翌日は朝からペンを手に取って感想文を書いた。
といっても、もちろん私には感想文の作法などわからないので、とにかく読みながら考えていたことを書き連ねていくだけ。
だけど、今までは頭の中に浮かぶままにしておくだけだったあれこれをきちんと整理して言葉にする過程は思いのほか楽しかった。
マリーヌ校から帰宅したフレデリカに本を返し、感想文を渡した。
「全然、駄目。簡単な言葉ばかり並べてあるくせに、何を言いたいのかちっともわからない。しかも、こんなにだらだらと何枚も書いて、紙の無駄よ。もしも授業の課題で提出しても、評価は不可ね」
「あの、書いたのだから、本は……」
「もう用はないから出て行きなさい」
本を投げつけられ、私は慌てて自室へと戻った。
部屋にやって来たデボラたちにまたフレデリカの振りをしてほしいと頼まれたのも、突然のことだった。
バート様に会える悦び、あの日のように抱きしめて口づけてもらえるのではという期待、バート様を騙す罪悪感、今度こそ気づかれるかもしれない不安など様々な気持ちを抱えながら身支度を整えられて部屋を出た。
デボラと廊下を歩き始めて間もなく、フレデリカの部屋のほうから何かが壊れるような大きな音が聞こえてきた。
私はデボラにそちらへ行くよう促し、ひとりで応接間へと向かった。
ところが、途中で予期せぬ相手から声をかけられた。
「あれ、セシリアだよね?」
振り向いた先にいたのはテニスン子爵子息だった。ちょうど帰るところだったようだ。
私は慌てて淑女の礼をした。
「へえ、やっぱりフレデリカとよく似てるんだな。いや、セシリアのほうが可愛いかも」
テニスン子爵子息は私に近づいてくると、ジロジロと私の全身を眺めた。その目に何となく不快なものを感じた。
当たり前のように名前を呼ばれることにも抵抗感を覚えた。
「申し訳ありませんが急いでおりまして……」
「フレデリカの代わりにラトクリフ次期公爵に会うんだろ」
私は目を瞠った。
「セシリアも大変だな、あんな姉を持って」
いかにも同情しているかのような言葉に、思わず尋ねた。
「テニスン子爵子息は姉を愛していらっしゃるのですよね?」
「いいや」
あっけらかんと否定したテニスン子爵子息を、私は呆然と見つめた。
愛してもいないのに、他に婚約者のいるフレデリカとあんなことをしているのか。
「実を言うと、婚約者がフレデリカから君になってホッとしたんだよね。だけどその後もしつこくてさ。まあ、あの有能な次期公爵の女とっていうのはちょっと面白かったけど、さすがにもう飽きたかな。そろそろ君とも仲良くしたいし」
テニスン子爵子息はそう言って私の肩に腕を回してきた。
ドレス越しではあるが触れられて、全身にぞわぞわと鳥肌が立った。
「そういうことで、ちょっと話でもしようか」
「放してください」
離れようとすると逆に引き寄せられた。
バート様と比べてずいぶんと細身なのに、思いのほか力がある。
「そんなに次期公爵のことが気になる? それなら、一緒に挨拶に行こう」
私を捕らえたまま、テニスン子爵子息は歩き出した。彼に押されるまま、私の足も進んでしまう。
大した抵抗もできぬうちに応接間の扉が見えてきた。
「駄目です」
今、テニスン子爵子息とふたりでバート様に会ったりしたら、きっとフレデリカと子爵子息の関係に気づかれてしまう。
フレデリカの裏切りを知ったら、バート様はどれほど傷つくことか。
私自身でそれをバート様に暴露することを何度も夢想していたくせに、気づけば必死にテニスン子爵子息を止めようともがいていた。
「待ってください」
テニスン子爵子息を止めようとその腕の中でどうにか向きを変えた身体は、しかし、次の瞬間にはあっさりと廊下の壁に押しつけられた。
「何、やっぱり俺とふたりきりのほうがいいの? それなら楽しいことしようか」
恋愛小説のヒーローのようだったはずの顔が妖しく口角を上げたかと思うと、その口に私の口が塞がれた。
咄嗟に首を捻って逃れるが、すぐにまた塞がれる。今度は反対側に逃れる。
「やめて」
「そんなに嫌がるなよ。どうせ来年には夫婦になるんだ。フレデリカよりも可愛がってあげるからさ」
そう言って、テニスン子爵子息は再び唇を重ねてきた。
あまりの気色悪さに吐き気を覚えた時だった。
「何をしているんだ」
廊下に低く鋭い声が響いた。いつの間にか応接間の扉が開き、そこにバート様が立っていた。
「残念、邪魔が入ったか」
テニスン子爵子息は可笑しそうに呟き、私を解放した。
身体が震えて膝から崩れ落ちそうになったところを、大股で近寄ってきたバート様がテニスン子爵子息と私の間に身体を割り込ませるようにして抱きとめてくれた。
「女性に無理矢理こんなことを、まともな男のすることではないぞ」
バート様の明らかな怒気にも、子爵子息は飄々としていた。
「さすが、ラトクリフ次期公爵は高潔な方ですね。まあ、俺だって普段なら嫌がる女性にする必要なんてないのですが」
「さっさと失せろ」
「ええ、今日のところは失礼いたします」
テニスン子爵子息がバート様に礼をして去っていっても、私の心は穏やかにならなかった。
無理矢理とはいえ他の男性に口づけられているところを、バート様に見られてしまったのだ。誰よりも見られたくなかった方に。
バート様は私を抱きかかえるようにして応接間のソファまで連れていき座らせてくれた。
バート様の顔を見られなくて俯いた私に、廊下で聞いたのとはまったく異なる柔らかい声が尋ねた。
「隣に座っても構わないか?」
私が頷くと、バート様もソファに座った。
「触れても?」
私がまた頷くと、バート様の腕が私の肩を抱き寄せた。
決して強引ではなく、まるで私を労るような力加減に、私は感情を堪えきれなくなった。
「ごめんなさい」
ボロボロと自分の目から涙が溢れ出していることはわかっていたが、私はドレスの袖口でごしごしと唇を擦った。
テニスン子爵子息に、バート様ではない人に触れられてしまったところが、とても汚く思えた。
「やめなさい。そんな風にしては傷がつく」
バート様は私の腕をやんわりと掴んで唇から離すと、懐からハンカチを取り出して目元をそっと拭ってくれた。
「君が謝る必要などない」
「でも、あんな人に……」
私がまた腕を上げようとすると、再び抑えられた。
「私なら、いいのか?」
思わず目を上げれば、真剣味を帯びた瞳が私を見つめていた。
縋る気持ちで頷くと、バート様の顔がゆっくりと近づいてきた。目を閉じた私の唇に熱く柔らかいものが優しく優しく触れた。
しばらくは私の唇を喰むようにバート様の唇が動いていたが、ふいにバート様の舌が私の唇をぺろと舐めた。
そこにつけられた汚れをすべて取り去ろうとするように繰り返し丁寧に舐ると、バート様の舌はさらに私の唇の隙間からするりと入り込み、口中をも隅々までなぞっていった。
舌を絡めとられ、唾液も吐息も混じり合う。彼に与えられるものはただただ気持ち良かった。
いつしかバート様が逃すまいというように私の身体を抱きすくめていた。それさえも心地良い。
やがてバート様の顔がゆっくりと離れていった。
腕は解かれず、間近から蕩けそうな瞳に見つめられて、私は唐突に思い至った。
今、バート様の目に映っているのはセシリアではなくフレデリカだと。
バート様は大切な婚約者がテニスン子爵子息に無理矢理口づけられていると思ったから子爵子息に対して怒りを露わにし、フレデリカを慰めてくれたのだ。
本物のフレデリカは、先ほどまでテニスン子爵子息と悦んで口づけていたのだろうに。
もし私がここで真実を告げたなら、バート様は今度は私に怒りを打つけるに違いない。きっと私は永遠にこの腕を失ってしまう。
だけど、このまま優しい彼を騙しつづけていていいのだろうか。
「ラトクリフ次期公爵」
私が迷いながら呼びかけると、バート様はわずかに眉を寄せた。
「君にそんな風に呼ばれたくない」
甘さを含んだ声で言われて、フレデリカが彼を名前で呼んでいたことを思い出した。
「ヒューバート様」
「君には違う呼び方を教えたはずだ」
「……バート様」
バート様が破顔した。まるで自分のほうが難問の正解に辿り着いたかのように。
彼はフレデリカにも、いや、フレデリカには愛称で呼ぶことを許していたのだ。
それならば、フレデリカのことも愛称で呼んでいるのだろうか。バート様だけの特別な呼び方で。
まさにそれを紡ごうとするようにバート様が口を開きかけた。
バート様がフレデリカの愛称を呼ぶ声をどうしても聞きたくなくて、私は咄嗟に彼の口を自分の口で塞いだ。
彼が私にしてくれた優しいものとはまったく違う、ただ押しつけるだけの拙い口づけに、彼が息を呑むのがわかった。
姉に対する嫉妬心でこんなことをしている自分がとても愚かに思えた。
だけど、バート様から離れるより早く私の後頭部に彼の大きな手が添えられ、熱の籠もった目が私を覗き込んだ。
「さっきのは消毒でこれからが本番、だな?」
私の応えを待つことなく再び唇が重ねられた。一度目を再現するようにバート様の唇と舌が動いていく。
ああ、フレデリカ以外を選んでくれるなら誰でもよかったなんて嘘だ。
私はバート様としかこんなことをしたくないし、バート様が他の誰とするのも嫌だ。
バート様に私を選んでほしかった。そう強く思いながら、彼の背中に両腕を回した。




