2 姉の代わり
バート様がフレデリカとの婚約を破棄することはなく、それからも変わらずに屋敷を訪ねてきているようだった。
むしろ、フレデリカが私の非礼を誠心誠意謝ったことにバート様が心を打たれて、ふたりの仲がさらに深まったのだとか。
もちろん、フレデリカが再び私をバート様の前に連れていくことはなかった。
いや、バート様に会えなくてよかった。だって、バート様と再会した時の私は本当にみっともない格好をしていたのだ。しかも、私の隣には美しいフレデリカがいたのに。
バート様の目に私はどう映ったのかと考えるだけで恥ずかしい。
十六歳になって身体もそれほど成長しなくなったので、フレデリカが私の部屋に置いていくドレスが小さくて着られないということはほぼなくなった。
外出することのない私は、流行遅れも他の人とかぶることも気にしなくてよかった。
フレデリカが着ていた時にはきれいだったはずのドレスに皺や染みがついていても、大した問題ではなかった。
まさかそんなドレスを着た姿を、バート様に見られることになるなんて想像もしていなかったから。
バート様が私をまったく覚えていなかったのは悲しいけれど、冷静になって考えれば当然のことだった。
ずっと屋敷の中にいて本を読むことくらいしか楽しみのなかった私にとって、森を彷徨った末にバート様と出会ったことは特別で大切な思い出になった。
でも、立派な大人の男性であるバート様にとっては、あのくらいは些細な出来事だったに違いない。
しかも、昨年の私だってやはり酷い姿をしていた。
それなのに一緒に馬に乗せて屋敷まで送ってくれたのだから、バート様は本当に優しい方だ。
バート様の優しさや温かさは、今では婚約者のフレデリカに向けられているのだろう。それを目の当たりにしたいとは思わない。
だから、やはり私は会えないほうがいい。
私はフレデリカが学校にいる間にその部屋に入って本を読むことを、相変わらず続けていた。
教科書は概ね読み終えてしまったので、他の本を。
フレデリカの本棚に教科書以外で並ぶ本は、恋愛小説がほとんどを占めるようになっていた。
読んでいると胸のあたりがムズムズしたり、ギュッと締めつけられるような感覚になったりして、自然とバート様のことが思い出された。
会えないほうがいいはずなのに、あの顔が見たくて堪らなくなってしまう。
もう恋愛小説の類を読むのはやめようと決めた頃、フレデリカの机の上に真新しい本が五冊ほど積んであるのを発見した。
さっそく手を伸ばして頁を開いてみると、教科書に書かれていたことの一部分をさらに深く掘り下げたような内容で、これらの本を読むことが私の楽しみになった。
バート様という素晴らしい婚約者がいるにも関わらず、フレデリカは相変わらずテニスン子爵子息とも仲が良さそうだった。
ある時はふたりが庭の木陰で寄り添っているところを、別の時にはフレデリカの部屋の前で抱き合っているところを見かけた。
いや、あれは恋愛小説で読んだ口づけという行為ではないだろうか。
私が目撃したことに気づいたフレデリカは、テニスン子爵子息が帰った後で私の部屋にやって来た。
「何か文句ある? 仕方ないでしょ、オーガスト様が愛しているのは私なんだから」
いつもなら、「はい、フレデリカお姉様」と応えるところだけれど、この時ばかりは我慢できなかった。
フレデリカが私の婚約者であるテニスン子爵子息と何をしていようが構わない。
でも、フレデリカを一途に想うバート様を裏切ることは絶対に許せない。
「フレデリカお姉様にはラトクリフ次期侯爵がいらっしゃるのに……」
次の瞬間、私はフレデリカに突き飛ばされて床に倒れこみ、さらに背中を踏みつけられていた。
「おまえにまったく魅力がないから、代わりに私がオーガスト様を繋ぎ止めてあげてるんだってことがわからないの? おまえのせいで私ばかりが苦労させられてるの。ヒューバート様に誤解を招くようなこと言うんじゃないわよ」
最後に私の背中を蹴りつけると、フレデリカは扉をバタンと閉めて部屋の外に消えた。
私にはバート様のためにフレデリカを諫める力のないことが情けなくて仕方なかった。
それからしばらくたったある日、私が自分の部屋で本を読んでいると、突然、フレデリカ付きのメイドたちがやって来た。
驚く私に、最年長のデボラが焦った様子で言った。
「セシリアお嬢様、フレデリカお嬢様の代わりにラトクリフ次期公爵のお相手をしていただけますか。フレデリカお嬢様が、急用ができたからセシリアお嬢様にお任せすると仰っているのです」
よく見れば、メイドたちはそれぞれドレスや化粧道具などを手にしていた。
「フレデリカお姉様の振りをしてラトクリフ次期侯爵とお会いしろということ?」
「はい」
頷いたデボラの顔にも困惑が浮かんでいた。
急用が何にせよ、フレデリカが言い出したことなら彼女たちに拒否できるはずがない。私も同じだ。
私が了承すると、メイドたちは手早く私のドレスを着替えさせ、化粧を施し、髪を結った。
身支度が終わってから鏡で確認すると、ゾッとするほどフレデリカに似ていた。
デボラと急ぎ応接間へと向かいながら、私は心臓が飛び出してきそうなほどの緊張を覚えていた。
フレデリカを諫められないばかりか、言われるままバート様を騙すなんて。
いくら外見を似せたところで、私がフレデリカのように振る舞えるはずがない。きっとすぐに気づかれてしまう。
その時、バート様は私のことをいったいどう思うのだろうか。
応接間の前に着くと、すぐさまデボラが扉を開いた。躊躇する暇もなく、私は室内に踏み込んだ。
前回お会いした時と同じように、バート様は目を細めてソファから立ち上がった。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
「いや、また会えて嬉しいよ」
バート様の顔に浮かんだ笑みは先日のようなよそよそしいものではなく、初めて会った時に見たのと同じ優しく温かいものだった。
「私も、嬉しいです」
それは本心から出た言葉だった。こうしてまたバート様にお会いできて、あの日と変わらない笑顔を見られて、本当に嬉しい。
でも、今のバート様の笑顔はフレデリカに向けられたもの。ここにいるのがフレデリカだと、バート様は疑っていないようだ。
「先日の君も可愛いかったが、今日は一段と可愛いらしいな」
前回バート様に会った時の私が、お世辞にも可愛かったはずがない。
バート様に促されて、私は彼と向かい合って座った。
私と一緒に応接間に入ってきていたデボラが紅茶を淹れて扉を出ていくと、室内は静寂に包まれた。
フレデリカはいつもバート様とふたりきりでどんな話をしているのだろう。あの姉なら、きっと様々な話題でバート様を楽しませてあげられるはず。
でも、私には何もない。唯一頭に浮かんだのはこのところフレデリカの部屋で読んでいる本のことだけど、あれを私が読んでいると姉に知られたらと思うと口に出すのは憚られた。
焦る気持ちを抑えようとカップに手を伸ばした。
私は滅多に飲めない紅茶だけど、味わう余裕なんてあるはずがない。
カップを戻してからバート様のほうを窺うと彼は微笑みながらこちらを見ていて、私と目が合うとこの上なく嬉しいというように笑みを深くした。
別に話などしなくても、バート様はフレデリカと一緒にいられるだけで幸せだったようだ。
胸がズキッと痛んだけれど、それをバート様に気づかれぬよう無理矢理笑顔を浮かべた。
でも、やはり上手くいかなかったらしく、バート様の顔からも笑みが消えてしまった。
「先日はすまなかった。君が怒るのも当然だ。だが、あれは誤解なんだ」
突如としてバート様が謝りだしたが、もちろん私には何のことかまったくわからなかった。
バート様はフレデリカと喧嘩でもしていたのだろうか。
誤解という言葉でテニスン子爵子息のことかとも考えたが、もしそうならバート様のほうが謝罪するのはおかしい。
「君を傷つけるつもりはなかった。どうか赦してほしい」
喧嘩の理由はともかく、バート様が縋るような目で私を見つめ、頭を下げてくるのに黙りこくっているわけにはいかない。
「怒ってなどいませんから、お顔を上げてください」
バート様はゆっくりと顔を上げたが、まだどこか不安そうに私を見つめた。
「大丈夫です。ちゃんとわかっています」
優しいバート様が大切なフレデリカを傷つけるはずがない。
それに、本当に謝らなければならないのは、フレデリカと私のほうだ。
「本当か?」
「本当です」
安堵した様子で嘆息するバート様を見て、私も少しだけホッとした。
「席を移っても構わないだろうか?」
バート様に問われ、私が深く考える前に頷くと、彼はさっと立ち上がった。
テーブルを回りこんでこちら側まで大股で歩いてきて、私の隣に拳一個分くらいの隙間を空けて腰を下ろす。
馬に乗せてもらった時にはそれこそ密着したし、抱きしめてくれた腕の力強さにとても安心したものだったけど、今はいきなり縮められた距離に胸の鼓動が跳ねた。
そっと隣に視線を向けると、またバート様と目が合った。
バート様が蕩けそうな笑顔で見つめているのはフレデリカだ。これは、バート様とフレデリカの距離だ。
そう理解していても、勘違いしそうだった。
だって、今バート様の隣にいるのは彼が想うフレデリカではなく、彼を想うセシリアなのだから。
こんなに近くでバート様の顔を見つめられる機会は二度とないかもしれない。
それなら今だけ、バート様と私は相思相愛なのだと勘違いしたまま彼を見つめ、少しでも記憶に残しておきたい。
私は真っ直ぐにバート様を見上げた。
私の背が少し伸びたせいか、こちらを見下ろしているバート様の顔が馬上で見た時よりずっと近くにあるように感じられた。
バート様の大きな手が伸びてきて、私の頬を親指でゆるゆると撫でた。その手は耳朶、こめかみ、額、鼻、顎と私の顔の上をあちこちと移動していった。
私がくすぐったくて声が出そうになるのをどうにか堪えるたび、バート様は可笑しそうに目を細めて笑った。
温かいものだったはずのバート様の眼差しや手がいつの間にか熱いくらいになっていて、私の体温をも上げていく。
バート様の親指はまるで形を確かめるように私の唇を撫でてから、また頬に戻った。
あまりに見つめすぎたせいかバート様の顔がさらに近づいたように錯覚した、のかと思った瞬間、私の唇にバート様のそれが触れた。
一度離れて、すぐにもう一度。二度。三度。
私は瞬きすることも忘れてバート様の顔が近づいたりわずかに離れたりするのを見ていた。
何度めかに離れた時、閉じていたバート様の目が開き、これまでにない至近距離で目が合った。
またバート様の目が閉じて唇が重ねられるのと同時に抱き寄せられて、ようやく私も目を閉じた。
バート様の唇がなかなか離れていかなくなって上手く呼吸ができず息苦しい。だけど、離れてほしくなくてバート様の服に両手でしがみついた。
布越しでも、バート様の身体の逞しさとドクドクという鼓動が伝わってきた。何だか、私よりも速いような。
バート様の目に誰が映っているのかも、どうして彼と会えることになったのかも忘れて、私はただ与えられる熱を夢中で受け取った。