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墨といちじく

  大森 犀雨先生


 晶太の件では、本当にいろいろとご心配をおかけしました。

 先生に頂いたさまざまなお心遣いに、改めて心からお礼申し上げます。


 幸い、わたしが思い切って提出したあの手紙が功を奏したらしく、晶太の母親は犯人隠匿の罪には問われないで済むようです。発砲も、息子を守るためという理由から起訴猶予となる可能性が高かったのですが、本人が殺意を否定しなかったことが事態を少々ややこしくしているようです。

 ともかくも、二人の時間を早く取り戻させてあげたい思いでいっぱいです。


 晶太についてですが、行き場がなければ先生のところで面倒を見る用意があるというもったいないお申し出、本当にありがとうございました。

 ですが本人に尋ねてみたところ、やはりまだ書で生きる覚悟も用意もないようです。

 正直な気持ちとして、今はまだあんな立派な人のもとでお行儀よく生活する自信がないし、字を書きつづけることにそれほど興味がないと、本人が告白していました。ただ、先生の書には心打たれようで、あんなすごい人に頭を下げられた自分には何かの責任があるのだろうかとしきりに気にしておりました。

 変な歌を歌って友達と悪さをして、寄り道してそれでも書の世界に戻るまで、今はファンとして先生の字を拝見する立場にいたいようです。彼にとっての時が満ちるまで、どうぞ見守ってやってください。


 ひとつ、悲しいお知らせです。


 シャラが死にました。


 けがも治ったと思っていたのに、内臓をやられていたようで、結局体力が回復せず、花が落ちるような最後でした。大好きな晶太の膝に抱かれて、眠るように静かに逝きました。

 近所の動物専門の葬儀場で個別火葬にしてもらい、晶太と由紀とわたしとの三人で見送りました。

 晶太は、シャラを炉に送るときも、一人だけ手を合わせず、涙も見せず、握りこぶしをぶら下げたまま、大きく目を見開いて、閉じられた扉を見つめていました。そしてごうごうという音を聞きながら、そっと指先で自分の頬に触れていました。シャラが触れた、あの部分です。

 納得していない。まだこの現実を受け入れられていない。

 わたしはそう感じました。

 あの日、自分が開け放っていた戸口から出て行ったシャラ。自分の身代わりのようにして同時刻に車にはねられていたシャラ。自分のせい、自分さえああしなければこうしなければ、そんな思いに切り刻まれているのが、見ていて痛いほど伝わって来ました。

 彼は、まじめな顔で、納骨はしないでほしいと頼んできました。

 あの子がお姉さんのねこだってことはわかってる。でも、どうしてもシャラと離れたくない。いつか自分が一人前になった時、自分の稼ぎであいつの骨をダイヤモンドに加工したい。だからそれまで、置いておいて。

 あいつをピアスにして、耳に飾って、一生共に生きたい。

 お守りがほしい。負けたくないんだ。


 ……彼が何を恐れているのか、わたしにはわかる気がしました。


 彼につながる血。

 そして、彼の未来を侵食するかもしれないこの記憶と世間の噂との戦い。


 わたしは承諾しました。一人前になったら骨を取りに来なさいと。

 どうして断る理由があるでしょう。

 今思えば、シャラはわたしのではなく、彼のねこでした。彼女も多分、短い命を、愛する人の為に燃やせて幸せだったと思うのです。人でも動物でも、それは同じです。そういう相手に巡り合えるのが、一番幸せなのです。そう話したら、彼は初めてぽろぽろと涙をこぼしました。

 そしてその夜、わたしも、久しぶりの大泣きをしました。

 何年分かの、いろんなものの詰まった涙でした。

 以前お話したことがあると思います。わたしは学生時代、許されない罪を犯しました。かけがえのない命を、闇に葬りました。自分を愛さないといい、自分を捨てた男の子どもなど、生んでも幸せにすることはできない、その子は幸せになんてなれないと思ったのです。

 けれど晶太に会い、一人で果敢に生きる彼を見ていて、何か取り返しのつかないものに揺さぶられる思いがしました。

 親に見捨てられても、周囲に顧みられなくても、命は懸命に闘い、その手で幸せをつかむことができる。母親の深い愛情があれば、なおさら。

 わたしが捨てたのは、晶太と同じ命だ。葬ったのは、晶太の生だ。彼はほのかさんに愛されて、いまここにいる。そしてわたしの捨てた子は、もうどこにもいない。

 捨てられても、本当は彼を愛していたのに。

 考えても仕方ないことは考えずに前に進むと決めて、わたしはあのことで泣くのを自分に禁じていました。でもあの日、彼がお守りがほしいとわたしに言ってきた日、わたしはひと晩だけ、泣くことを自分に許したのです。

 わたしは泣きました。自分の子を思い、思う存分、あの子のために泣きました。シャラを思い、晶太の涙を思い、もう会えないすべてのもののために、目が溶けるまで泣きました。

 そしてそのとき、涙の中で確認したことがあります。

 愚かなものを愚かだと確認するように、美しいものを美しいと思い、その美しさに感動するのが恋だというなら、

 ……わたしは、恋をしていた。

 三十女の分際で、あの、たった十四歳の、まだ大人にもなっていない少年に。

 その生きざまに。

 その姿に。

 わたしは、恋をしていたんです。

 今のいまだから申し上げます。

 先生、わたしは先生が好きでした。

 仙人のように俗世離れした、気高い先生のすべてを、お慕いしていました。

 気持ちは気持ちのまま、一生お傍で見つめていられればいいと思っていました。墨の香りの中で超然と生きる先生のように、わたしも生きられればと思っていました。

 でも、晶太に対しては……

 わたしの中に流れる血が、ひととき、温度を上げていました。一緒にいる間、ずっとわたしは熱かった。 わたしの中の何かの息吹が叫んでいました。わたしは、生きていると。

 いつか先生はおっしゃいました。奈津子さん、あなたは子どもが産めないということを、必要以上に気にしていませんか。実を結ぶばかりが人の幸せではないのですよ。あなたの身の内にはたくさんの花があるではありませんか。

 恋をしなさい、たくさんの人と出会い、そして生々しい思いに悩む自分に出逢いなさい。女性として、自分を充実させることを恥じることはありませんよ。

 ―先生、心配なさらないで。わたしにも花はありました。お見せするのも恥ずかしいような花ですが、なんの実も結びませんが、誰にも見えないところでささやかに咲き、わたしの中だけで香っていました。

 ……ひと夏だけの、あだ花でした。

 どうぞお笑いください。わたしの中にひっそりと咲く花を赦してくださった先生ですから申し上げたんです。どうか、そのお心の中だけにこの愚かな告白をとどめておいてくださいね。


 来週、晶太は父親のもとに旅立ちます。

 兄は東北の診療所に職を得ました。

 どうしても人手の少ない場での医療にこだわりたいようです。昔からそういう人でした。とんちんかんな単純構造なのに、正義感だけは強いのです。

 晶太には、兄のほうから頭を下げてきました。今までのいきさつを聞いて、晶太に許しを乞うてきたのです。男として人としての自分を許してくれるなら、どうか自分と一緒に生きてくれないかと。お前と一緒に母さんを迎えたいと。

 わたしはその場に居合わせました。何の恨み言も言わず、いいよと短く答えた晶太は、兄よりも大人に見えました。

 兄は先に東北に渡り、手続きを済ませてそこで晶太を待っています。正式な引継ぎまでは間があるようなので、それまで父と子の時間も持てるでしょう。ほのかさんが不起訴になり怪我が治れば、三人での暮らしが待っているでしょう。


 このまますべてが、美しい水の流れのようにいい方向に向かってくれるのを、わたしは祈り、信じています。


 ようやく秋の気配ですね。先生と奥様にも、香しく安らかな季節となりますように。



                柚木 奈津子




「もう、ここでいよ。バスとか見送らなくて」

 最初に晶太と会った駅の北口のリムジン乗り場で、若い叔母とともにガードの轟音をききながら、晶太は照れ臭そうに言った。朝の通勤ラッシュがひと段落したバス乗り場を、秋の気配を含んだ風が駆け抜けていく。

「あっちにいったら、しばらく会えないわね」

「まあね」

「どう。今更だけど、お父さんとうまくやる自信はある?」

 白いタンクトップの上に迷彩柄のパーカーをひっかけた晶太は、首をかたむけるようにして、ななめ上を見上げた。長い睫が揃って上を向くのを、女はじっと見つめていた。

「おやじ次第、かな。ていうか、おやじと思わず、男としてやり直してくれって言われたから、まあ、そのつもりでいるよ」

「瑠梨ちゃんとは、その後連絡取ってる?」

「あいつはもういい」

「あっちはきっとそう思ってないわよ」

 笑いを含んだ意地悪な返事に、晶太は唇を尖らせるようにして言葉を詰まらせた。

「あなたのことについていろいろと聞き取りをするために、瑠梨ちゃんのところにも調査は及んだらしいの。一応最初に走行中の車のガラスを割った人間として、あなたも沙汰を受ける立場であった瞬間は存在したのよね。

 でも、あなたの印象が悪くなるような台詞を両親が喋り出す前に、ありとあらゆる単語を駆使して瑠梨ちゃんがあなたをかばったそうよ。あなたがどれだけ勇気があり、母親思いで辛い思いをしていて、けれど自分に優しかったか、あなたがいなかったら事態はどうなっていたか」

「……」

「そのあとお決まりの両親への罵倒が始まって、警官の前でまた大げんかになったらしいけどね」

「わかった、あいつをいとことして認めるよ。それでいいだろ」

「必要にして十分だわ」女は微笑んだ。

 つと下を向くと、少年は少し躊躇したのち、しゃべりだした。

「あのさ。大森先生のとこからの申し出を聞いたとき、格式が高くてきゅうくつそうで、無理だと思ったけどさ。お姉さんのとこなら、いいかなって思ってたんだ。結局不起訴になったおふくろが退院するまでそんなにないらしいし、そのくらいは、いられるかなって……」

 どこか恨みがましい口調だった。女はやわらかく笑ってみせた。

「それは光栄だわ。でも、あちらでの学校も決まってることだし、新学期も始まってるんだからいつまでも東京にはいられないでしょ、学生なんだから」

「うん……」

「お母さんなら大丈夫、わたしが退院までしょっちゅうお見舞いに行ってあげるから。お父さんも、正式に診療所が始まるまでちょくちょくこちらに来ると言ってるしね」

 どこか納得いかない顔の少年に向かい、女は微笑みかけた。

「それにね。悪いけどこれ以上はわたしのほうが自信もてないのよ、いろいろと。あなたとの暮らしに」

 晶太はばつが悪そうに小声で言った。

「うん、まあ。おれ迷惑ばかりかけたし、限度だと思う、それはわかるから」

 低いエンジン音を響かせて、大型バスが到着した。

「あなた、わたしにいろいろひどいこと言ったわよね。お姉さんは嫉妬でわけわかんなくなっただけだ、とか」

「あれは冗談で……」晶太は赤くなった。

「いいえ、当たってたわ」

 ばんっとバスの入り口が開いた。

「当たっていたのよ」

「……え?」

 言葉を失っている晶太の足元で、係員がこの荷物積みますかと大声で聞いてきた。はあいと女は答えた。係員はばたんとバスの外側の荷物室を開いてスーツケースをどかどか放り込み始めた。ほらチケット出して、と女が声をかけると少年は慌てた様子でポケットからバスチケットを出した。

「さよなら、晶太、元気でね。苦労しなさい、この女ったらし」

 女は絆創膏が取れた晶太の額を指でつんとついた。

「書くのをやめちゃだめよ。あなたの字は素晴らしいわ。なんならわたしのところにいいものが書けたら送ってきて。添削してあげるから」

「……うん」

「でね、もしあなたのお父さんが、あなたのお眼鏡にかなわないろくでなしで、これはやはりだめだと思ったならわたしのところにいらっしゃい。いつでも待ってるわ。あなたのお母さんとの約束だから」

 困ったような顔をして何度か振り向きながら、晶太はバスに乗り込んだ。

 もう会話はできない。窓の中の晶太は、なんだか赤くなったまま所在なさげにしている。

 何度か覚えがある。こうしてバスの出発を待つ間というのは、送る側にも送られる側にも何か気詰まりなものだ。

 ふいに晶太は窓ガラスに口を近づけ、息を吹きかけて曇らせた。そしてさっさと指で文字を書き始めた。左右逆で、わかりにくい。女は目を細めた。なに?


「落花狼藉」


 確か、……勝手気ままに女子を食いまくることのたとえ?

 なによそれ。女は眉間にしわを寄せて、腕でバツをつくって見せた。とんでもないわ。

 晶太は少し笑うと手でさっさと消し、また息を吹きかけた。


「細水長流」


 彼が来て最初の教室で書いた書。

 静かに長く続く、男女の思い。

 それもさっと消すと、また指を当てた。


「鏡花水明」


 目には見えるが、手に取ることのできないもの。

 はかないもの。

 感じ取れても言葉にできない、奥深い心境のたとえ……


 もういいわよ、この漢字オタク。なんだか何かがこみ上げて泣きそうになってくる気持ちを抑えながら、女は少年が書く次の字を見ていた。バスがゆっくり動き出す。


「感謝感激」


 それはわたしもよ。女は大きく頷き、晶太を指さして、頭上にマルを作って見せた。少年の指がまた動く。女はバスを追って小走りになる。


「晶太無敵」


 窓の中の顔がゆったりと微笑んでいた。女は走りながら両手でさらに大きく、頭上に丸を作った。晶太が窓の中で投げキッスを送る。女は咄嗟に空で握り受けて口元に当てた。

 バスはがたんと揺れて、交差点の曲がり角に消えた。


 晶太の消えた埃っぽい街は、他人顔になって、いつもの賑わいの中にいた。


 女はくるりと方向を変え、タイルづくりの歩道をひとり歩きだした。細筆でかきあげたような流線に切り取られた、晶太のひとみの深いきらめきを胸で追いながら。


 晶太。

 いつかあなたの耳にシャラは宿る。その輝きとともに、あなたはまっすぐに生きるだろう。 

 望むと望まざるとにかかわらず、多くの女性があなたを愛するだろう。

 その中からいずれふさわしい伴侶を選ぶことになるだろう。

 わたしはあなたにとって、たくさんの思い出の中のひとつになるのだろう。

 そしてこの思いを、わたしは生涯誰にも語らない。

 何度も思い出しては、いちじくの中の花のように、ひっそりと自分の中で熟成させていこう。



 たとえば、失った思いに泣いている誰かを救う、

 そんな唯一無二の文字になるまで。





一話一話が長く読みにくかったかと思いますが

最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。

ご感想等ありましたらお気軽に寄せていただけると大変嬉しいです。

よろしくお願いします。



挿絵(By みてみん)


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