第6話 肌星は嘘をつかない
宰相バルテル卿は、王国の頭脳と呼ばれる男だ。
御年六十二。魔王戦争の戦費を捻出し、戦後復興の絵図を一人で引いた鉄の宰相。その宰相の首筋に「黒い染み」があると耳打ちしてきたのは――誰あろう、あのガイストだった。
雨の晩だった。視立て屋の戸口に立った老医は、酷く居心地が悪そうで、開口一番こう言った。
「……言っておくが、儂は今も、貴様を認めておらん」
「知ってる。弾劾状、三通も貰ったからな。全部保管してある。どれも検め返しとして一級品だ」
「ぬ……」
「ところで、ちょうどよかった。これを返さないと」
俺は棚から、革装の古文書を取り出した。『錬金術師イルデの手稿・血と光の篇』。蔵書印を削り取った跡のある、あれだ。
「拾い物でな。持ち主が分からなくて困ってた。削り跡の形が、丸に杖と蛇――医務院の紋と、よく似た形なんだが」
ガイストは長いこと黙り、書物を引ったくり、それから明後日の方を向いて絞り出した。
「……あの樽番は、どうしておる」
「地下倉庫で薬草番だ。爛れはもう出てない。……あんたのおかげだよ、先生」
「儂は何もしておらん。ただ……貴様の視立てとやらが辻芸なら、書物一冊で答えに辿り着けるはずがなかろうと、検分したまでじゃ。検分よ」
検分の結果、俺は書物一冊で答えに辿り着いてしまったわけだが、その点への言及はなかった。意地っ張りの負け方として、満点だった。
「……で、今夜は何の用だ。雨の中、辻芸の見物でもないだろ」
老医は、ようやく本題を切り出した。
「宰相府の定例の健やか伺い(※宮廷医の仕事。脈を取って世間話をして帰る)でな。首筋の染みが、この一年で倍になっておった」
「呪いの疑いか?」
「いや」ガイストは首を振った。「儂の見立て――むむ、お前の言葉がうつったわ。儂の『経験』では、あれはただの歳の染みじゃ。儂の首にも腕にもある。年寄りの勲章よ。……じゃが」
老医は、しばらく黙った。
「……この頃、夜にな。考えるのじゃ。儂の五十年は、視ずに済ませた五十年ではなかったかと。じゃから、頼む。あの染みを、お前のレンズで視てくれ」
権威が、頭を下げた。
雨音が、やけに長く聞こえた。
◇
宰相府の執務室。書類の山の向こうで、バルテル卿は羽根ペンを置かなかった。
「ガイスト卿のたっての願いだから許した。手短にな。染みの一つや二つ、儂の歳なら誰にでもある」
「ですね。実際、九割九分はそうです」
俺は首筋にレンズを当てた。宰相の首には、染みが三つ並んでいた。
生まれつきの黒い点も、歳とともに増える染みも、下町ではひっくるめて「肌星」と呼ぶ。星の巡りが肌に落とした影だ、という古い言い草だ。人は生涯、少しずつ星を増やしながら生きていく。大抵の星は、無害な景色だ。
――大抵は。
一つ目。レンズの中に、規則正しい網目模様が広がる。色は均一な茶。縁は滑らか。……これは、いい。年月が肌に刻む、ただの勲章だ。
二つ目も、同じ。いい染みだ。
三つ目。
――手が、止まった。
網目が、乱れていた。
目の細かい網と、崩れて溶けた網が、一つの染みの中に混在している。色も一色じゃない。茶、黒、灰青、ところどころ赤み。縁は滑らかな円ではなく、入り江のように歪んで、周囲へ滲み出していた。
呪いの根はない。毒の粒もない。虫もいない。
なのに。
……なんだ、この「嫌な感じ」は。
「どうした、視立て屋。顔色が悪いぞ」
「……宰相。この三つ目の染み、いつからこの大きさに?」
「知らん。だが妻が言うには、去年の夜会では小指の先ほどだったと。今は親指の爪ほどか。……それがどうした」
一年で、倍。形は歪み、色は乱れ、縁は滲む。
「――宰相。しばらく、通わせてもらいます」
レンズを離した時、祈りの座が微かに熱を持っていた。危険を見つけた祝いにしては、不吉すぎる温かさだった。
◇
それから十日、俺は壁にぶつかり続けた。
初日、三つの肌星を投影水晶へ映し、同じ倍率で羊皮紙へ写した。二日目、透明な薄布を重ねて輪郭をなぞった。五日目、もう一度同じ位置から写した。
一つ目と二つ目は、重ねても線がほとんどずれない。
三つ目だけ、北側の縁が炭筆一本分、外へ出ていた。
「誤差ではないのか」宰相は書類から目を上げずに言った。
「その可能性がある。だから、もう五日測らせてください」
「儂の首は国境線ではないぞ」
「国境線なら、広がった時点で軍を出してます」
十日目。北側はさらに外へ出た。南の一角は、逆に崩れてへこんでいた。
大きくなるだけじゃない。形を変えながら、昨日と違うものになっている。
俺とガイストは、医務院の患者記録から「肌星」と書かれた頁を三百冊分抜き出した。ほとんどは、長年変わらない黒い点だった。だが、記録の端に『多色』『縁崩る』『急に倍す』『血滲む』とある例が七人。そのうち五人は、一年以内に原因不明の衰弱で死んでいた。
同じ病かは分からない。だが、兆しは重なっていた。
形が左右で違う。
縁が揃わない。
色が一つではない。
時とともに変わる。
ミレイユは四つを帳面の端へ書き、『崩れ星を疑う目印』と見出しをつけた。
「まだ病の名もないのに、目印を配るのですか」
「名が決まるまで待ってたら、次の宰相を見逃す。これは答えじゃない。立ち止まって、もう一度視るための合図だ」
ガイストは、その頁を無言で三枚写した。一枚は医務院。一枚は視立て屋。最後の一枚は、自分の懐へ入れた。
呪いではない。毒でも虫でもカビでもない。外から来るものは、全部レンズが否定した。
ならば、あの染みは何だ。
十日目には、代償も来た。
偏光環を三段まで回し、宰相の染みを半刻も視続けた帰り道。石畳が、ぐらりと傾いだ。
視界の端に、俺のものじゃない記憶が流れ込んでくる。山積みの書類。眠れない夜。若い日、戦費の帳簿の余白に書き並べた死者の数――宰相の五十年の疲れと痛みが、レンズを通って、俺の頭に染みてきていた。
「レイジ様!?」
ミレイユに抱き起こされた時、俺は路地の壁にもたれて、荒い息をついていた。
「……『観察者酔い』とでも名付けるか。女神の説明にはなかった、副作用だ。深く視すぎると、相手の痛みの記憶が、視た側に流れ込んでくるらしい」
「今日はもう、レンズを仕舞ってください。命令です。助手としての」
「助手は命令しないんだよ、普通……」
とはいえ、逆らえる足取りでもなかった。以来、視立て屋には新しい掟が一つ増えた。――深視は、一日二人まで。破ると、ミレイユが本気で怒る。
「ガイスト、書庫を全部さらう。『黒い染みで死んだ人間』の記録だ」
「死んだ、じゃと? 染みで人が死ぬものか」
「俺の直感が正しければ――死ぬ。あんたの五十年で、一人もいなかったか? 黒い染みが広がって、原因も分からず痩せ衰えて死んだ奴が」
ガイストは記録の山に潜り、三日後、埃だらけの顔で一冊の帳面を掲げた。
「……おった。二十一年前。港町の漁師、当時五十五。背中の肌星が『崩れて』、広がって、半年後に高熱と衰弱で死んだ。当時の受け持ちは儂じゃ。儂の判じは『海の瘴気による呪い』……教会に回して、浄化の儀の三日前に病死しておる」
帳面を持つ老医の手が、震えていた。
「レイジよ。儂はこの男を、視ずに殺したのか」
「……まだ分からん。だが、二十一年前のこの染みと、宰相の染みが同じものなら――こいつは呪いよりタチが悪い」
俺は黒板に、レンズで視た三つ目の染みを描き写した。乱れた網目。多色。歪んだ縁。
「いいか、整理する。外から来るものは全部否定された。なら残る答えは一つしかない。――こいつは『内』から来てる」
「内、じゃと?」
「肌そのものが、変わったんだ。昨日までまっとうに勲章を作ってた肌の一部が、ある日、約束を忘れる。形の約束も、色の約束も、『ここまで』という境の約束も忘れて、際限なく増え広がる。……網目が乱れてるのは、そういうことだ。あれは、肌が肌であることをやめていく模様だ」
自分で口にしながら、背筋が冷えた。
呪いなら祓える。毒なら断てる。
だが、自分の肌が裏切ったら――どこを斬る。
◇
「切る、じゃと!?」
ガイストの声が視立て屋に響き渡った。
「正気か! 生きた人間の肌を刃で切り取るなど、そんな治しは千年の医書のどこにもないわ!」
「ないなら作るんだよ。いいか、こいつは『増える』のが本性だ。薬草も回復魔法も、増える速さに追いつかない。なら答えは一つ――まだ小さいうちに、染みごと、まるごと、体から切り離す」
「刃を入れれば血が出るのじゃぞ! 痛みで心の臓が止まるやも――」
「血は、フィアナの治しで止める。回復魔法は傷を治すのは得意中の得意だろ。痛みは」
「――わたくしの出番ですわね」
ミレイユが薬草棚から、青い小瓶を掲げた。
「眠り茸と月白草の合わせ酒。離宮時代に調合した、痛みごと眠らせる秘薬です。……歯痛に耐えかねた自分用でしたけど」
「王女の歯痛が国を救うのか……」
そして俺は、ガイストに向き直った。
「刃を握るのは――ガイスト、あんたの仕事だ」
「じ、儂!?」
「王都で一番、人の体の中身を知ってるのはあんただ。五十年、亡骸を検めてきた手だろ。今日は、その手で生きてる人間を助けてくれ」
老医は長いこと、自分の掌を見つめていた。
やがて、静かに袖をまくった。
「……漁師の借りを、返させてもらうぞ」
「その前に、宰相へ話す」
ガイストが眉を寄せた。
「成功の見込みが固まってからでは」
「固まってないから、今話すんだ。切らずに待つ危険も、切る危険も、俺たちには全部は分からない。選ぶのは首の持ち主だ」
◇
宰相は、俺たち四人の説明を最後まで黙って聞いた。
俺は染みが変わり続けていること、このままなら内側へ広がる可能性があることを話した。ガイストは、生きた人間へこれほど大きく刃を入れた経験がないと話した。ミレイユは眠り薬にも呼吸が浅くなる危険があると説明した。
呼ばれていたフィアナは、自分の治癒について言った。
「傷口を閉じ、血を止めることはできます。ただし、切り取った病んだ部分を元へ戻す治癒はしません。戻せば、病まで戻すかもしれないからです」
宰相は、ようやく羽根ペンを置いた。
「切らなければ、あとどれほどだ」
「分かりません。半年かもしれない。十年かもしれない」
「切れば助かるか」
「分かりません。早い段階なら取り切れると考えてる。でも、この治しをした人間は、まだ一人もいない」
宰相は窓の外を見た。
「明日まで待て」
その夜、宰相は執務室から全員を追い出した。家族へ手紙を書き、止まっている戦後復興案を三人の補佐官へ割り振り、国王へ辞表を出した。翌朝、辞表は『術後に読まずに破る予定』と朱書きされて戻ってきた。
「王というのは、人使いが荒い」
宰相は苦笑し、俺たちへ一枚の紙を渡した。
『分からぬ危険を含め、説明を受けた。この治しを望む』
下には、自筆の署名。
「これは命令書ではない。儂の選択の記録だ。成功しても失敗しても、残せ」
ミレイユが両手で受け取った。
この治しの最初の記録は、患者の署名から始まった。
◇
決行の日。宰相府の一室は、王都で最も奇妙な戦場になった。
煮沸した刃。煮沸した針と、ヨンナが選んだ細い腸弦。ミレイユは自分の刺繍針を出したが、ガイストが「布と人を同じ道具で縫うな」と却下した。フィアナの浄化で清められた部屋。前日に薄い量で試し、効き方を確かめた眠り薬で、穏やかに眠る宰相。
俺はレンズで染みの縁と深い側を交互に視た。表面の色が終わる場所より、乱れた流れは少し外、少し下まで続いている。見える染みぴったりに切れば残す。健やかな網目へ戻る場所を確かめ、そこからさらに外へ、炭で線を引いた。
「ガイスト。この線の外側を、ひと回り大きく。染みの奴に、一片も残らせるな」
「承知」
刃が入る。フィアナが即座に、切り口の血だけを治す――染みを治さず、血だけを。大陸最高の治癒師だからできる、神業の手加減だった。
四半刻後。
皿の上に、歪んだ黒い染みが乗っていた。もう、誰の首筋でもない場所で。
すぐには傷を閉じなかった。
皿の上の染みへレンズを当て、切り口を一周視る。乱れた網目が、端まで来ていないか。黒や灰青の粒が、健やかな側へはみ出していないか。
一箇所だけ、切り口近くに乱れがあった。
「ガイスト、北側をもう一分」
老医は頷いた。眠る宰相へ戻り、炭の線の外を薄く追加した。
二度目。皿の上の切り口を視る。今度は一周すべて、規則正しい健やかな網目で囲まれていた。
「取り囲んだ。少なくとも、視える範囲では」
そこで初めて、フィアナが血を止め、ガイストが糸をかけた。
縫い合わされた傷をフィアナが最後に治し、残ったのは細い線一本。
「……終わったのか?」ガイストが荒い息で言った。
「ああ。――名前をつけよう。病んだところを断って、体を立ち直らせる。『断ち治し』だ」
「たちなおし……」ミレイユが繰り返した。「断ちて、治す。……ふふ、レイジ様、また新しい言葉が生まれましたわね」
千年の医書にない治しが、今日、この部屋で始まった。
◇
十日後、抜糸(これも新語だ)を終えた宰相は、執務室で羽根ペンを置き、初めて俺をまっすぐ見た。
傷の周囲をもう一度視る。乱れた網目はない。だが「切ったから終わり」とは言わなかった。ひと月ごとに一年、その後も季節ごとに視る。戻るなら、戻り始めを捉えるためだ。
宰相は自分の首の傷を隠さなかった。
翌週の評議会で、襟の高い正装をやめ、細い赤い線をそのまま見せた。そして宮廷で働く五十歳以上の者へ、肌星の検分を受ける時間を半日ずつ与えた。
三日で八十六人が来た。
ほとんどは、良い星だった。規則正しい網目、揃った色、長年変わらない形。「大丈夫だ」と言われに来た人間へ本当に大丈夫だと伝えるのも、視立ての仕事だった。
二人だけ、追って視ることになった。一人は小さいが色が混じり、もう一人は本人が「去年から変わった」と言った。
後者の老書記は、断ち治しを拒んだ。
「刃は怖い。ひと月ごとに視る方を選びたい」
宰相が助かった直後の俺は、切るべきだと説得しかけた。
だが――切らないと決めた人間を、切れなかった失敗にはしたくなかった。
「分かった。変化があれば、もう一度話す。その時も決めるのはあんただ」
老書記の星は、十日後の視立てでも変わらなかった。
見逃すな。でも切りすぎるな。その間の道は、思ったより狭かった。
「視立て屋。褒美を取らす。望みを言え」
「じゃあ一つ。――19年前の疫病の記録。王命で封印されてるやつを、視せてもらいたい」
宰相の眉が、ぴくりと動いた。
「……誰に聞いた」
「肌に聞きました。この街のあちこちの、ね」
長い沈黙のあと、鉄の宰相は羽根ペンを走らせ、一枚の通行証を差し出した。
「王宮地下書庫、最下層。……儂に言えるのはここまでだ。あの年、封印を命じた勅書の起草は、儂の仕事だった。――だが、儂が書いたのは『疫病の記録を封じよ』ではない」
「……なんだって?」
「勅書の文言は、こうだ。『"地より出でしもの"に関わる一切を封じよ』。……行け、視立て屋。そして視てこい。儂が二十年、視ずに済ませてきたものを」
地より、出でしもの。
通行証が、鉛のように重かった。
(第6話・了)
次回・幕間「視立て屋が救えなかった日」――宰相と同じ〈崩れ星〉。だが、老人が扉を叩いた時には、断ち治しの刃が届く場所を越えていた。正体を言い当てても、命を救えない日が来る。
### 今回の疾患メモ
**悪性黒色腫と良性のほくろ・老人性色素斑**:ダーモスコピーはまさにこの鑑別で最も活躍する検査機器。良性の色素斑は概ね左右対称で、色が均一、網目(色素ネットワーク)が規則的。悪性黒色腫では、非対称な形、ギザギザで滲む境界、複数の色の混在、網目の乱れなどが手がかりになる。「大きくなってきた」「形や色が変わってきた」ほくろは早めの受診を。
※本作はフィクションです。実際の症状は皮膚科専門医にご相談ください。




