11 隔たり
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人と魔族の溝は深い。
人間の城で暮らし始めて、ひと月と少し。
マリーは、強くそう感じるようになっていた。
城中に張り巡らされた結界も、強力すぎる魔除けも、魔物の話をする人間たちの表情も、その全てから憎悪と畏怖が滲み出ている。
リシュリアの功績により、ここ数年で被害は格段に減ってはいるものの、陰惨な過去が覆るわけではない。彼らはことあるごとに、魔城さえわかれば、と口にしていた。
魔王様の城は、どこにあったんだろう。
マリーはその日も休憩時間を返上して、魔術棟の書庫を漁っていた。手にするのは専ら地理と地図の本ばかりだ。中身を開いては棚に戻し、隣の本に手を伸ばす。ここ数日、そんなことを繰り返していた。
次の遠征に同行させられると聞いてから、ずっと――。
マリーは次の本を手に取る。
冒頭、見開きのページには、色付きの世界地図が載っていた。
広大な海の上に、大きな大陸が二つ、西と東に浮かんでいる。
人間たちが暮らすのは、西の大陸だ。大小50ほどの国が点在していて、中でもリシュリアの国が一番の領土を有していた。人口も他国の倍はあり、大国、と呼ばれている。
海を隔てた東の大陸は、無人だった。そのほとんどが険しい山々に覆われており、人が住むには困難すぎるのだという。
マリーは、暗い色で塗りつぶされた東の大陸を見つめた。
おそらく魔城は、この大陸の何処かにあるのだろう。
そこまでの予想は、子供にでもつく。
問題は、そこから先。
大陸は広く深く――未知だった。
奥になにがあるのか、誰にも分からない。
判明しているのは、魔獣が闊歩していること、悪魔が待ち構えていること、道には太い木々の根がでこぼこと這っていること、それだけだった。
過去、人間たちは何度も東の大陸へ乗り込んだが、魔獣や悪魔の手にかかり、深く入り込めずに苦い想いを抱いていた。勢いだけではそれ以上しようがなく、人々は都度対策を講じ、遠征を続けてきた。
リシュリアが将についてからは、次で7度目となる。
大人数ではかえって統率に支障をきたすため、布陣は最小限且つ最大限に能力のある者に限られた。
その中に、マリーの名が加えられた。
異例の討伐隊入りに続く異例の遠征軍入りに周囲は少なからず困惑したが、彼女の成績を開示したとたん、動揺は期待に変じた。
魔術師たちはマリーに忠告と激励を送り、同じく遠征員のシェンナも「一緒に頑張りましょう」と喜んでくれた。
けれど、当のマリーは不安だった。
魔法を教えて貰えたおかげで、魔力の使い方がわかってきた。以前のような無様な姿は見せないで済むだろう。でも、いざ魔物が目の前に現れた時、冷静でいられるだろうか。過去、人間たちと戦った際、マリーの足は震え、魔法のひとつも使えず、みじめに逃げ帰った。
戦は怖い。
出来ることなら、遠征など出たくはない。
しかし隷属であるマリーに拒否権はない。
左手首の腕輪が、チャリ、と涼しい音を奏でた。
リシュリアに嫌だと、怖いと伝えたら、彼はどう答えるだろう。
豹変する彼を想像したくなくて、マリーは地図に意識をもどした。
せめて、足手まといにならないようにしなくちゃ。
各員の体力面を考慮し、今回の遠征は2週間を予定されていた。
出発まで、あと二日。その間に、少しでも知識を蓄えておこうと、マリーはページをめくる。魔城さえ突き止めることが出来れば、マリーの役目は終わる。もう、怖い思いをしなくて済むのだ。
と、東の大陸についての文献を、読み始めた時だった。
「マリー」
軽く肩を触れられ、顔をあげる。
瞬間、本を取り落としてしまった。
「そんなに驚かなくても」
本を拾い上げながら、リシュリアが苦笑する。いつの間に入ってきたのだろう。気づかなかった。
「はい」
「……ありがとうございます、すみません」
差し出された地図帳を受け取り、胸の前で抱きしめる。
リシュリアはその表紙に視線を注ぎながら、言った。
「皆上で休憩してたよ。きみも休んだ方がいい。熱心なのは有難いけど、根を詰めすぎるのは身体によくない。目の下、黒いよ」
「はい。でも……時間もないので」
「うん、ごめんね、急で。危険はないようにするから、安心してついてきて欲しい」
「はい」
マリーが頷けば、リシュリアは穏やかに微笑みを返した。
「ほら、行こう」
差し出された手を取るために、マリーは本を棚へと戻す。
連れ立って歩きながら、端整な横顔を見上げた。
彼は、わざわざマリーに休憩を取らせるために書庫まで来たのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に目が合った。
見ていることを勘づかれたかと不安に思う前に、質問が飛んでくる。
「マリー、林檎って好き?」
「え?」
「珍しい林檎のケーキがあるんだよ。早く行かないと、なくなっちゃうよ」
「えっと、はい」
「マリーは甘い物好きだから、絶対気に入ると思うんだ」
マリーがシェンナのビスケットをよく完食していることを、知っているのだろう。
なんだか恥ずかしくなって、マリーは俯いた。
でも、シェンナのビスケットはとても美味しいのだから、仕方ない。
なんて言い訳を捏ねているうちに、休憩室が見えてくる。
と、その扉の前に小さな人影があった。
白いドレスが立ちふさがるように動く。
紅玉色の瞳に、ハニーブロンドの艶やかな髪。
ミリートだった。
マリーは咄嗟にリシュリアに繋がれていた手を離し、会釈する。
「こんにちは、ミリート様」
ミリートはマリーを睨むように一瞥すると、すぐにリシュリアに視線をもどした。凛と澄んだ美しい声が、あたりに響く。
「殿下。お話がございます」
立ち止まったリシュリアは、困ったように息を吐いた。
「遠征の話なら、お前は連れていかないよ」
「どうして」
「危険すぎる」
「でも、そこの女は連れていくんでしょう」
「マリーは大丈夫だ。お前と違って魔力もある」
「……っわたしだってあるわ!」
「マリーの方が強い」
「!だから、勝負させてくださいと何度も言ってるじゃありませんか」
「駄目だって、何度も言ってるだろう」
「……っ意地悪!」
ミリートの叫び声に、休憩室から魔術師の面々が顔を覗かせる。
リシュリアはいよいよ眉を寄せ、マリーに「先に行ってて」と囁いた。そうして、顔を真っ赤にして震えているミリートに向き直る。
「ミリート、おいで。ちゃんと話そう」
「言いくるめられたりしませんわよ」
「そんなことしないよ」
「どうだか」
ミリートは言いながらも、リシュリアに誘導されるまま歩みだした。
遠ざかるふたりを見送るマリーに、休憩室から出てきたシェンナが近寄る。
「大丈夫だった、マリーちゃん?」
「始めてだったから、びっくりしたよな」
シェンナの後ろにいたエゼルが、面白い物でも見たみたいに、口の端をあげて笑っている。
「まったく。毎度毎度、よくあんなに叫べるよな。恥ずかしくねえのかな」
「あの、ミリート様は遠征に参加されないんですか」
マリーが尋ねると「そうなんですよ」とシェンナが重そうな口を開いた。
「人数にも制限がありますし……その、実力から言っても、適切な判断だとは思うのですが……」
「自分は外されたってのに、新入りのアンタが入ってるのが気に入らないんだよ。ただの癇癪さ」
「ちょっと、エゼル」
小突くシェンナなどものともせず、エゼルはマリーを覗き込んだ。
「まあ、ミリート様を押しのけた分、アンタが働けば問題はない」
シェンナがむっとしながらエゼルの胸を押し返し、マリーとの間に割って入ってくれた。
「あなたも働くのよ。マリーちゃんを脅さないで」
「はいはい」
エゼルは肩をすくめると、休憩室へと戻っていく。
その背を睨み、シェンナがふんと鼻息を荒くした。
「ミリート様もエゼルも子供なんだから。嫌になっちゃう」
「あの、シェンナさん」
「はい?」
「わたしが入ったからミリート様が外されたって、本当なんですか?」
「うーん……それもあるとは思うんですけど、わたしが思うに、殿下は前からミリート様を外されたかったみたいなんですよね」
「?」
シェンナの声量が小さくなった。
「ミリート様は魔力量が少ないので、遠征には向いていらっしゃらないんです。殿下はそのことをずっと気にかけてらっしゃって。ミリート様は妹のような方ですから、危ない目に合わせたくないのでしょう」
そうか。それで遠征に連れていかないのか。
マリーはぽつりと呟いていた。
「……大切にされてらっしゃるんですね」
マリーとは違って。
当たり前だ。
ミリートは人間で、従妹で、幼少から見知っている間柄なのだから。
その命を心配するのは、自然で、当たり前のことなのだ。
なのに、マリーは不思議と落ち込んでいた。
リシュリアはやさしい。けれどそれは、表面的なものだった。
温かい寝床も、美味しい食事も、気にかけてくれる素振りも――すべてはマリーに魔城を探させるための手段。仕事なのだ。
林檎のケーキを食べようと誘ってくれたのだって、その一環に過ぎない。
わかっていたはずなのに、人間と魔族との間に横たわる隔たりを感じてしまい、寂しくなる。
大切にされていることに、ミリートが早く気づけばいいのだけれど。
シェンナに促されて休憩室に入りながら、マリーはそんなことを思っていた。




