もういいよ、つまんないから
チュマー・ガット。
突然現れ、僕たちに襲いかかってきた猫耳の小柄な少女。
かなり身軽で、素早い動きを持っていることは、第一印象の時点ですぐに分かった。
一方で、僕にできるのは筆で文章を紡ぎ、何かしらを具現化することのみ。
当然、直接的な殴り合いなどの肉弾戦は不可能にも等しい。
少なくとも、今の女の姿ではチュマーでなくても勝てやしないだろう。
そうなると、少しでも書く余裕を得るために、できるだけ相手から離れたほうがいい。
そう思い、踵を返して駆け出したのだが。
「逃げられると思わないで……うちから」
そんな声に、肩越しに振り返ると。
数センチ程度のすぐ真後ろに、長い爪を構えたチュマーが迫ってきていた。
驚愕する暇すらなく、その爪で僕の背中が引っ掻かれてしまう。
「く……つぁ……ッ」
鋭い痛みに顔を顰め、近くにあった木の幹に身を隠す。
あの俊敏な少女から逃げられるなどとは到底思っていなかったが、僕の足じゃ一瞬で追いつかれてしまう。
もちろんチュマーが異様に速すぎるのだが、幼女になったことで歩幅も狭くなり、余計に僕とチュマーの差が歴然となってしまっているのだろう。
「なに……? そんなので隠れてるつもり? ふぁ~あ……あんまり退屈させないでよ、また眠くなっちゃうから」
余裕綽々といった様子で、チュマーは僕が隠れている木に向かって気怠げな声を発する。
隠れるつもりなんて、最初から想定すらしていない。
ドラゴン姿のククルと戦ったときとは違い、逃げてもすぐ追いつかれてしまうチュマーが相手では、完全に身を隠すことなど不可能だと分かっているから。
でも、僕にはそれで充分だ。
とりあえず、文章を書く時間さえあれば。
『チュマーの上に岩石が降る』
僕が虚空にそう書くと、突然空に大きな岩が出現し、チュマーへ目がけて真っ直ぐ落下した。
しかし――。
「……んあ?」
そんな素っ頓狂な声が漏れたかと思えば、軽々と背後に跳んで回避した。
まるで他愛のないものみたいに、ぴくりとも表情を動かさず。
「……なに、これ? もしかして、あんたのしわざ?」
抑揚のない声色で、あくびを噛み殺したように言う。
今ので上手くいくとまでは思っていなかったとはいえ、あんなに容易く避けられてしまうとは。
やはり、ククルのときとは違うか。
小柄ということは当たる的が突然小さく、その上かなり軽やかな身のこなし。
僕の未熟な文章力では、チュマーを打倒できる攻撃を生み出せる気がしなかった。
「ふーん……どうやったのか知んないけど、そんなんじゃ無駄」
退屈そうに言い、僕のすぐ真後ろにある木の幹を垂直に駆け登った。
そして、木の上に乗り――僕へ目がけて素早く落下。
落ちながら腕を交差させることで、長い爪で僕の肉体を裂きながら。
「く……ッ」
体中に走る鋭い痛みに顔を顰め、膝をつく。
既に服は所々が破け、そこから覗く傷口には血が滲んでいた。
「もういいよ、つまんないから。早く終わらそ」
どこまでも退屈そうに、淡々と独り言のように言う。
かなり強い能力のあるシールという筆を持っていながら、こんなにも不甲斐ない自分がただただ悔しい。
カウさんは今、リリアと戦闘中。
フーリーとククルは、他の住人を避難させるために移動中。
こんな状況で都合よく助けが来るとは、到底思えない。
そして、未だにそうやって誰かの助けを求めてしまっていること自体にも、また嫌気が差す。
だめだ、そんな弱気でいたら。
ククルだって、勇気を振り絞って強くなろうとしている。
あの二人は、僕を信じて避難に専念してくれている。
だというのに、その僕が諦めてしまってどうするっていうんだ。
考えろ。足りない脳みそで、必死に捻り出せ。
岩石でなくとも、おそらくこちらの攻撃は軽々と避けてしまうだろう。
そんな素早い少女にも躱されることなく直撃し、その上、反撃されたりする恐れのない攻撃なんて――。
「……っ!」
あった、かもしれない。
攻撃と言えるものなのかは分からないし、そもそも上手くいくかどうかも分からない。
だけど、今は躊躇っている暇すらないのだ。
僕は筆を握り締め、虚空に向ける。
相手は、すぐ目の前にいる。攻撃されれば、僕に届くまで一秒もかからない距離だ。
でも、この一文だけ。
ほんの数文字程度、せめて最後まで――。
「なに、してんの? よく分かんないけど、うちの前でいい度胸だね」
チュマーは、不機嫌そうに薄らと眉間に皺を寄せる。
彼女の顔の前で、透明な爪がきらっと光ったような気がした。
僕が紡いだ文字が、空中に浮かんでいく。
一文字、一文字、順番に。
しかし、黙って見ているだけのチュマーではない。
地を蹴って駆け出し、僕の首を掻っ切るように、長い爪を薙ぎ払う。
急げ。急げ。あと少し。
文字を書いていく度に、チュマーの爪は凄まじい勢いで迫ってくる。
そして。
チュマーの爪は、僕の首を――。
掻っ切る、その寸前で。
ぴたりと、動きを止めた。




