第40話「奥羽、揺れる——諸大名それぞれの秋」(その1)
戸沢盛安が「誇りで民は養えない」と震える手で従属の書状を書いていた頃——。
奥羽の各地で、同じ秋に、異なる人間が異なる感情で揺れていた。
【蘆名義広——「独眼竜の背後が、固まった」】
陸奥会津郡・黒川城。
会津の秋は、出羽よりも一足早く冷える。奥羽山脈の西側に抱かれたこの城では、山々の頂がすでに白く霞み始めていた。紅葉はまだ残っているが、その赤の中に、どこか諦めたような枯れ色が混じっている。燃えているというより——燃え尽きる手前の色だ。
評定の間に、蘆名家の重臣たちが集まっていた。
上座に座るのは、蘆名義広。十四歳。佐竹義重の次男として生まれ、昨年この会津の家に養子として入った若き当主だ。
顔立ちは整っている。声も、年齢のわりには落ち着いている。しかし——評定の間に並ぶ重臣たちの目が、どこかよそよそしい。義広に向けられているようで、向けられていない。まるで義広の背後にある、佐竹の影を見ているかのような目だ。
当主の座についてまだ一年も経っていない。後継者争いで割れた家中は、まだ修復されていない。伊達派の宿老たちは表向き従っているが、その胸の奥に何を抱えているか——義広には、まだ読み切れていない。
「——皆も承知のように、伊達と最上が手を結んだ」
義広が、静かに口を開いた。
評定の間が、しんと静まり返る。
「本庄の侵攻に伊達が動き、上杉を退かせた。これこそが、最上と伊達の同盟が本物であるという動かぬ証拠よ」
「殿、それは……」
老臣が言いかけた。
「わかっている」
義広が、静かに遮った。
「——これは、蘆名にとって最悪の報せだ」
老臣が、口を閉じた。
義広は、卓上の地図に目を落とした。会津の北に、伊達の領地が広がっている。その伊達の背後に、今は最上がいる。
(——これまで政宗は、最上との対立を抱えながら我々と戦っていた。北を気にしながら南を攻める——それが、政宗の制約だった。しかし今は……最上と手を結んだ。北の憂いが消えた今、政宗は、蘆名だけに集中できる)
その事実が、じわりと、しかし確実に、胸の奥に染み込んでくる。
「殿、佐竹に援軍を求めますか」
老臣が、静かに進言した。
義広は、すぐには答えなかった。
(——父上——佐竹義重は、今この瞬間も、豊臣との距離感を測りながら動いている。蘆名のために兵を動かして、豊臣の目に触れるリスクを取れるかどうか……)
そして——もう一つの、言葉にしにくい懸念が、胸の奥にある。
(佐竹から援軍を求めれば、「蘆名は佐竹の傀儡だ」という伊達派の声が、また大きくなる。家中がまた割れる。援軍を得ても、内側から崩れるかもしれない)
十四歳の当主が抱えるには、重すぎる算術だった。
「……佐竹も豊臣の動向を気にしている。援軍は期待できん」
静かな答えが、評定の間に落ちた。
沈黙が、重く広がった。
その沈黙の中で、義広の脳裏に、ある噂が浮かんだ。
(——最上の義光殿には、七歳の娘御がいるとか。その娘御が、大崎合戦の和睦を仲介したと)
大崎合戦。今年の春、伊達政宗が大崎義隆に攻め込んだ戦だ。あの戦が長引いていれば(——伊達は消耗していただろう。最上との対立を抱えたまま、兵を削りながら戦い続けていたはずだ……)
しかし、二家は和睦した。
きわめて早期に、鮮やかに。
(——あの和睦を仲介したのが、七歳の娘御だとすれば……)
義広は目を閉じた。
(その娘が大崎合戦を止めていなければ、蘆名はもう少し時間を稼げたかもしれない。一人の娘が……蘆名の命運を変えた)
それは、恨みではなかった。
七歳の娘を恨む気にはなれない。その娘は、自分の家族を守るために動いただけだ。それは当然のことだ。
ただ——それは静かな、事実の確認にすぎない。
評定の間の燭台が、窓から忍び込んだ隙間風に揺れた。壁に映った義広の影が、大きく、ゆらりと歪む。
(——残された時間は、多くない)
義広は目を開き、地図を見つめた。
会津の山々が、窓の外で静かに冷えていく。
「しかし……蘆名は簡単に諦めはせんぞ。ここで終わるわけにはいかんのだ」
ぽつりと、呟いた。
老臣たちが、静かに頭を下げた。
その言葉が、どれほど頼りない綱の上に立っているか——義広自身が、一番よく知っていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
言葉にしなければ、自分が折れる気がした。
十四歳の当主は、よそよそしい重臣たちの視線の中で、ただ静かに、地図を見つめ続けた。
蘆名義広は、史実では天正十七年(一五八九年)の摺上原の戦いで伊達政宗に大敗し、会津を追われています。
本話の時点からわずか一年後のことです。
この敗北の遠因の一つが、まさに本話で描かれた「家中の分裂」でした。
伊達派の宿老たちが義広に心服せず、戦の直前に離反者が続出したとも言われています。
十四歳で養子として迎えられ、割れた家中を束ねきれないまま、最大の決戦を迎えた——義広の悲劇は、個人の能力の問題というより、「家中の求心力を作る時間が与えられなかった」という構造的な不運でした。




