第24話「米沢城への訪問——愛姫との交流と小次郎との初対面」(後半)
愛姫様に優しく手を引かれ、米沢城の塵一つなく磨き上げられた板張りの廊下を歩いていた時のことだ。
角を曲がろうとした瞬間、向こうからドタドタと元気な足音を立てて走ってきた少年と、危うく正面衝突しそうになった。
「おっと、危ない!」
「あ、すみません!」
少年が慌てて急ブレーキをかけ、深く頭を下げる。
愛姫様が「あら、小次郎様。廊下を走ってはいけませんよ」と、まるで本当の姉のように優しく微笑んだ。
呼ばれた少年——伊達小次郎(十歳)がバッと顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
その顔立ちは、兄である政宗従兄様に似てとても整っているが、まだ幼さが残り、どこかガラス細工のような危うい繊細さを秘めている。
小次郎様が、私をじっと見つめて問うた。
「……あなたが、最上の駒姫様ですか?」
「はい。初めまして、小次郎様。最上家の駒と申します」
私が七歳の姫らしく、丁寧に挨拶すると、小次郎様は急に不満そうな、ぷくっと拗ねたような顔になった。
「兄上は、あなたのことばかり話しています!」
——え? あの政宗従兄様が、私のことを?
「『聡い従妹だ』『面白い従妹だ』『あの姫の次の手が楽しみだ』……毎日毎日! 僕のことは全然構ってくれないのに!」
小次郎様が、ずっと胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出すように、一気に捲し立てる。
愛姫様が「小次郎様……」と困ったように苦笑いしている。
「駒姫様、兄上は僕の兄上です。僕から取らないでください!」
小次郎様が、私に向かって堂々と、そしてひどく真剣に宣戦布告をした。
——取るって……何を言っているんだろう、この子。
私は困惑しながらも、目の前の小次郎様をじっと観察した。
——伊達小次郎政道。史実では、母である義姫様に溺愛された結果、兄と対立し、今から二年後、一五九〇年に政宗従兄様によって手打ちにされたとされる悲劇の弟。でも……今目の前にいるこの子は、ただの「お兄ちゃん大好きっ子」だ。大好きな兄に構ってほしくて、ポッと出の従妹である私にヤキモチを焼いているだけの、ごく普通の、可愛い男の子。
この子を救いたい。史実のあの痛ましい悲劇を、避けられるものならば回避したい。
「小次郎様、駒姫様に失礼ですよ」
愛姫様が静かにたしなめると、小次郎様は「でも……!」と口を尖らせながら、私をじっと見た。その大きな瞳には、ライバル視と、隠しきれない好奇心が入り混じっていた。
その後、表御殿の立派な大広間に案内された私たちのもとに、軍議を終えたばかりの政宗従兄様が颯爽と現れた。
「駒姫、よく来た」
政宗従兄様は、上座にどっかりと座って威圧感を放っているお父様を完全にスルーして、真っ先に私に声をかけた。
お父様の顔が、みるみるうちに怒りの般若へと変わっていく。
「政宗、俺も共に来ているのだが」
「伯父御にも会えて光栄だ」
政宗従兄様が涼しい顔で軽く流すと、お父様がギリッと歯を鳴らして床几から立ち上がりかける。
「兄上」
その時、静かだが絶対的な威厳のある声が広間に響いた。大崎合戦の和睦後、米沢城に戻っていた叔母様——義姫様だ。
「兄上、ここは伊達の城です。少し落ち着きなさいませ」
義姫様の冷ややかな一言で、お父様は「……わかっとるわ」と渋々、本当に渋々床几に座り直した。やはり、奥羽の覇者たるお父様も、実の妹である義姫様には頭が上がらないらしい。
政宗従兄様は、あろうことか私の前にスッと片膝をついた。
「文の返書、読んだ。火入れの概念は面白い。実際に試してみたい」
——奥羽の独眼竜と呼ばれる政宗従兄様が、私の前で膝をついている。七歳の幼女に対して。これは……従妹バカが、私の予想を遥かに超えて加速している。
「駒姫、今日は酒造りの話をもっと詳しく聞かせてくれ」
政宗従兄様が、新しい玩具を見つけた子供のように嬉しそうに言うと、横から小次郎様が慌てて割り込んできた。
「兄上! また駒姫様とのお話ですか!」
政宗従兄様が、小次郎様を見てふっと柔らかく笑う。
「小次郎、お前も来るがいい。駒姫の話は面白いぞ」
「……わかりました」
小次郎様が、私をチラチラと横目で見ながら渋々答える。
——小次郎様、少しだけでも心を開いてくれたかな。
その夜。
私は、愛姫様の私室にひっそりと招かれていた。
静かな部屋で、燭台の柔らかな光を挟んで、二人が向かい合って座る。
「駒姫様、今日はお疲れではありませんか?」
「いえ、楽しかったです。愛姫様をはじめ、伊達の皆様のおかげです」
私が素直に答えると、愛姫様は少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「小次郎が失礼なことを言いましたね。お詫び申し上げます」
「いえ、小次郎様は正直な方だと思いました。私は……嫌いではありませんわ」
「ふふ、そうですか」
愛姫様が、ふわりと、花が綻ぶように微笑む。
「駒姫様、一つ伺ってもよろしいですか」
「はい」
愛姫様が、私の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、昼間の穏やかさとは違う、研ぎ澄まされた真剣な光が宿っている。
「駒姫様は……怖くはないですか。この世の、この先のことが」
その問いは、いつどうなるかわからない乱世を生きる一人の女性としての、切実で、胸を締め付けるような響きを持っていた。
私は少し間を置く。七歳の子供としての仮面を脱ぎ捨て、戦国という荒波に投げ出された一人の人間としての本音を言葉に乗せた。
「——正直に申し上げると……怖いです。でも……怖いから、動くのです。動かずにはいられないのです。」
「……そう、ですよね」
愛姫様が、深く、深く頷いた。
「駒姫様。私でよければ——この私を、姉と呼んでいただけますか」
——愛姫様?
予期せぬ言葉に、心臓が跳ねた。
「私には妹がおりません。けれど、あなたのような賢い妹がいてくれたら、どれほど心強いか……」
愛姫様の唇に、優しく、けれどどこか儚げな微笑みが浮かぶ。 その体温の伝わってくるような眼差しに、私の視界は瞬く間に潤んでいった。
(ああ……私は、この人を守りたい)
それは、単なる「生存戦略」としての処刑回避じゃない。
この温かな手、寂しげな微笑み――愛姫という一人の女性に触れ、私の心は初めて打算を越えた。
「――愛姫お姉様。一つ、わがままを言ってもいいですか」
溢れ出しそうになる涙を、奥歯を噛み締めて押し戻す。今の私は、守られるだけの子供じゃない。一人の「家族」として、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「小次郎様のことを……どうか、よろしくお願いします。あの方は伊達や最上にとって……いえ、この先の時代にとって、本当に代わりのいない大切な方なのです」
――二年後、彼は兄と袂を分かち、手討ちにされる。
そんな残酷な未来は、今はまだ口にできない。けれど、愛姫様は私の言葉に驚いたように目を見開いた。七歳の子供が口にするにはあまりに重く、けれど切実な「願い」。
やがて彼女は、その驚きを慈しむような笑みに変え、力強く頷いた。
「……ええ。約束しましょう。この愛が、命に代えても」
米沢城の夜は、どこまでも静かに更けていく。
冷たい乱世の闇の中で、私の心には小さな、けれど消えない「家族」の灯火が宿っていた。
十五歳で待つはずの破滅――その回避への道は、依然として断崖絶壁だ。
けれど今日、私は確かに「運命」という壁に爪を立て、一歩上へと這い上がった。
一気に登場人物が増えました! 最上家親(駒の弟・義光の次男)の幼名は、史実だと「太郎」が有力説のようです。
さすがに「太郎」だとちょっと平凡すぎる感じがしましたので(笑)、本作では全く架空のオリジナルネームとして「竹丸」を採用してます。
ネーミングの由来は……勘です(駒姫風に)!




