みどりのゆび 前編
「あああ~っ!」
いいモノ見せてあげるよ。夕食の後、そう言って部屋に駆け込んで行った弟の、妙に間延びした奇声を聞いて、姉は台所から顔を出した。
「…エフェル姉ちゃん」
弟は、暗い居間の角でうずくまっていて、姉は一瞬ケガでもしたのではと、慌てた。
「どうしたの?」
明かりと、念の為の救急箱を持って近づいた姉に、弟は情けない声を上げた。
「落としちゃったよ。せっかくキリオさんからもらったのに」
「落とした?」
姉は床に明かりを近づけて、弟の手元を凝視した。――あまり目が良くないのだ。
「あら、いやだ。気付かなかったわ」
板敷きの、板の継ぎ目の部分にあった節が抜けて、そこからひび割れが出来、大き目の隙間が出来ている。
五日ほど前に、艶出しクリームで磨いたときは何ともなかったはずだから、ヒビはともかく、隙間は最近の事だろう。
目が悪いから、日常の掃き掃除では彼女は気付かない。
最近乾燥していたからね、とひとりごち、弟を見ると、がっくりと肩を落としている。
「フラーボ、キリオさんに何をいただいたの?」
キリオは麓の村の炭焼き小屋の主で、この山間の高地に二人で住んでいる姉弟に、何かと良くしてくれる。
「…たね」
姉に見せて喜ばせようと思ったのだろう、しょんぼりと肩を落とした様は、かわいそうに思えるくらい。それが愛しくてくすりと笑った。
「たね? ああ、種。何の?」
「わかんない。そろそろ花壇の入れ替えの時期だろうからって、キリオさんがくれた。発芽率がいいから十分だろうって、三粒しかもらってないのに。けっこう大き目のやつ」
「ほら、立ちなさい」
姉は明かりを置いて、弟を立つように促した。
不要だった救急箱をどこかに置いて、また戻ってくる。
「草? それとも低木? …小さい球根かしら?」
「わかんないよ。キリオさんは、姉ちゃんなら、見れば育て方も植え方も、すぐにわかるはずだって言ってた」
「まあ、ふふ。買いかぶられたものね」
「姉ちゃんは物知りだもの。見れば絶対わかってたさ!」
力説して、けれど種を落としたことを思い出して、しゅんとなる。
その頭に、姉はやんわりと手を置いた。
「さて、穴は何で埋めようかしら? 怪我しないうちにやってしまわなければ」
「種が! 可哀相だよ」
弟が抗議の声を上げた。
「まあ、フラーボは優しいのね」
姉はクスリと笑う。
「大丈夫よ。種は大丈夫」
「何でそんな事が言えるのさ」
少しトゲのある弟の問い。
「種、だからよ」
なんでもないことのように、姉は答えた。そして、弟と同じに視線を下げて、ほほ笑む。
「種だから、大丈夫なの。フラーボ、植物は種でいるとき、とても強いの。もちろんそうではないのもあるけれど。海に落ちてずっと漂っていた種が、流れ着いた先で芽を出したり、何百年も土に埋まっていた種が、生きていたりね。そこまでいくと、皮が厚くて、養分を貯められるある程度の大きさとか、条件がつくけれど。ブラーボが知っている例でだって、まだまだあるのよ」
「え?」
「南天や、接骨木はどうやって種を運ぶって教えたっけ?」
「えーっと、鳥が…食べて」
その答えに満足して、姉はにっこりとほほ笑む。
「胃の中で消化されないのもすごいわよね」
「あ!」
「そういう風に出来ていると言ったらそれまでだけど、やっぱりそれは強さなのよ。種は長い時間土の中で眠ってて、水や光の条件がそろった時、ここぞっとばかりに出てくるの。もちろん全ての種がそんな好機に恵まれるわけじゃないし、発芽しても条件が良くなくて、腐ったり干からびたりするかもしれないけれど」
姉は少し考えて、
そうね…と一人でうなずいた。
「こう考えましょう。この板の下は、土だわ。種はそこでずっと待つの。この家は、私とフラーボの大切な家だけれど、古さを考えれば、いつか余所に移るときが来るかもしれない。そうでないとしても、床板を張り替えなきゃならない日は来るわ。その時、種がお日様の光を浴びて、良い具合に芽を出したら、日当たりの良いところに移してあげましょう」
「もし、芽をだしても気付けなかったら?」
「それは、ないわ」
きっぱりと姉は言った。確信に満ちた目。
「そんな条件で芽を出した強運の種は、きっと気付いてもらえるだけの運も持ち合わせているに決まっているもの。その時、フラーボはもうおじいさんになっているかもしれない。可愛い孫がいるかもしれない。それでも気付いて、キリオさんに種をもらったことを思い出すの。とてもステキじゃない?」
だから、大丈夫だと姉は請け負った。
「キリオさんだって、こんなことで気を悪くなさらないわよ。ね、今、私を物知りだと言ってくれたのはフラーボじゃない。種は、強い。信じてくれる?」
「うん!」
弟は元気に返事をした。
「ねーちゃーん」
翌日、エフェルケアは、弟の声がしたような気がして、手を止めた。
エフェルの趣味と実益を兼ねた家庭菜園のわきで、土づくりをしていた時の事。
エフェルは空を見上げた。まだ太陽はずいぶん高い。なのでエフェルは、気のせいだわ。と片付けた。
昼食を食べてから、お使いに出て行った弟が、帰ってくるには早すぎる。目の悪い姉を助けるため、夕焼け前には必ず帰ってくるが、それ以上に、必ず道草をしてきた。
そしていつも、拾った、もらったと称してはあまり出歩かない姉にお土産を持って帰って来るのだ。
ふふ、とエフェルは笑った。
昨日のおみやげは床の下に落ちてしまったけど、おとといのおみやげは、台所の花瓶でまだ可憐な花をつけている。珍しくもない花だけど、今年一番の早咲きだそうだ。
その前の日は、まだ傘の開かない青い状態の松ぼっくりを付けた枝。フラーボに言わせると、森で一番カッコイイ松ぼっくりだそうだ。
その物言いを思い出して、エフェルはまたくすくす笑った。
そしてまた、作業を再開する。
苗床の土専用に掘った穴の、さらに深い部分から汲み上げた土を、ふるいにかけて細かな石を取り除く。そして、去年から作っておいた十分に発酵の終わった腐葉土をまんべんなく混ぜ合わせる。
彼女の、さほど広くない野菜畑は、本格的で、広くない分、すみずみまで行き届いていた。
本当は、ふるいになら、昨日のうちにかけてしまったのに、どういうわけだか裏庭に積んでおいた土の山に、中に隠れていただろう雑草の小さな種が発芽して小さな芽になり、表面をびっしり覆っていた。
そうならないよう、一日中日の当たらない所を選んで、置いておいたというのに。
昨日より細かなふるいを使って引っかかった芽を取り除き、固まってダマになった土を丁寧につぶしていく。その時、
「エフェルねーちゃーん!」
また聞こえた。今度はずいぶん近く。
「あら?」
エフェルは立ち上がった。
どうやらさっきのも空耳ではなかったようだ。
「どうしたの? フラーボ」
厚地のスカートを叩きながら、家の表にまわった。
「姉ちゃん!」
家の中を見てから、再び出て来たフラーボは、姉の姿に慌てて駆けよって来る。
「大変なんだよ。村が、村が!」
「村が、どうしたの?」
慌てた弟を落ち着かせようと、努めて冷静な声で聞く。
「村が、ぐちゃぐちゃで、みんな大きくなっちゃって…。キリオおじさんの薪、も…」
エフェルは、息切れの激しいフラーボの背中をさすってやる。
いつも森を走り回っているフラーボだ。よっぽど急いだのだろう。
そんな要領を得ない状態にしびれを切らしたのか、
「来て!」
フラーボはエフェルの手をつかんだ。
反対側の手で開けっ放しの戸を閉めて、フラーボは駆け出した。
村へと続く小道。
一度よろけたエフェルも、体勢を立て直して、走る。
「フラーボ、ちゃんと付いて行くから、手、離して」
身長差があるため、低い位置でつながれた手は、走りづらかった。
走るにつれて、エフェルは奇妙に思った。
村ではなくて、森にむかっているような感覚。じっくり季節が廻っていくのを一瞬にして感じてしまったようなせわしさ。そして、初夏の麦畑のような青臭さがする。
そうして、ひとしきり走るとフラーボは足を止めた。息を整えながら、
「姉ちゃん、あれ」
と指差す。
姉弟が来たところは、村の見える高台。
エフェルは弟の背中をさすってやりながら、「あら」と声を上げた。
予想以上に驚いていない姉を見て、フラーボは不審げに眉をひそめる。
「姉ちゃん、ちゃんと見えてる?」
目が悪いため、状況を把握していないと思ったのだ。
「ちゃんと見えているわよ。多分、フラーボが思っている以上に、見えてるから安心して」
「……姉ちゃん。もしかして、面白がってない?」
目の上に手をかざして、遠く見る仕草は、楽しげですらあった。
「そんなことないわ。そう見える?」
振り返ったエフェルはやっぱり楽しそうだとフラーボは思う。
村は緑におおわれていた。
まるで、森の中に家が点在しているかのように。森と違うのは、その緑が、まだ芽吹いたばかりの新緑の色だということと、その芽がまだ成長途中で、のたうっていること。
屋根を覆うほどの大きな植物群。木だけでなく、草や蔦までも大きく育っている。
植物は、前後に揺れて、背を大きくしているものもあるけれど、その動作が巨大になっただけで、こんなにも人々の恐怖を煽る。
見ている間にも、どんどん緑が広がっているのがわかるくらい。
「みんな困っているんだよ。村中の花壇や畑から、いきなり植物が押し寄せてくるし、家も蔦だらけになっちゃうし、キリオおじさん所の薪だって、よーく乾かしてあるはずなのに、みんな芽を出しちゃって」
キリオの炭焼き小屋の周りには、炭にするため森から切り出した薪が、たくさん積み上げてあるのだ。
「…それは、困ったわね」
エフェルは神妙な顔になる。
「村の人達はとりあえず避難したよ。そしてどうしようか算段している?」
「算段? 恐れては…いないのね?」
エフェルは注意深く言った。
「? うん、キリオおじさんや村長が村のみんなをまとめてる」
フム、と考え込んだ姉に、フラーボは戸惑いがちに聞いた。
「…姉ちゃん、何か知っているの?」
「いいえ。……けれど、昔同じ事が起こったのを知っているわ。その時は、騒ぎが広がって、嫌な噂が立って、結局街ごと植物を焼いてしまったの。残されたのは、生活を失った人ばかり。その時は、大して実害もなかったと言うのに。そうね、キリオさんなら、そんなことを許しはしないでしょうね」
ほうっと息を吐いて、弟を見た。
「村の人はどこに避難しているの?」
「西の、畑の方」
「そう、日の高いうちだけでも、お手伝いをしましょう。村の人が必要以上に恐れなくてもいいように」
「うん」
フラーボも頷いて、西の畑に向かうことにした。
姉ちゃんは、原因もちゃんと知っているんだろうと、フラーボは確信した。
知らないのに、一度あったからというだけで、恐れなくてもいいだなんて、無責任なことは言わない人だ。
だから、異常に成長した植物も、もう怖くはなかった。
怖くはないけれど、フラーボはそれを見上げて絶句した。
そして、申し訳程度に、
「うわー…」
と口の中でつぶやく。
「あらまあ」
エフェルも今度はさすがに驚いたようだ。
村から帰って、家に見たもの。それは家中に絡みつく、植物。
村の被害で十分に驚きつくしたはずなのに、自分の家だと、驚きもひとしお。
「勢力は、こちらに移動中…か」
姉が小さくつぶやいた声がして、フラーボは顔を向けた。
「姉ちゃん?」
問うような呼び声に、何でもないわと答えておいて、エフェルは花壇にも目を向けて、
「あらまあ!」
と再び声を上げた。
家だけじゃない。花壇も、小さな畑も、伸び放題。荒れ放題。
片づけるのは大変だと、大きくため息を吐く。
「何で、家や…村ばっかり…」
フラーボは文句を言った。
「あら、ばっかりじゃないわよ?」
エフェルは答えた。
「この辺一帯の現象よ。気付かなかった? ただ、人の手入れのない道のわきや、野の原の下草は、根が張りすぎていて、それ以上の余地がないのね。それなりに異常繁殖していたわよ」
解説する様は、いつもと変わりが無くって、姉の余裕はどこから来るのだろうと、フラーボは不思議に思った。
「少なくと、昼にフラーボが呼びに来るまでは、家は何ともなかったのよね。あ、でも苗床にする土に目の出方が、普通じゃなかったか。でもあれは日が当ったのかもしれないし。そにかく、村のある方角から、広がってきているのか、移動してきているのか。麓の様子はどうなのかした……」
そして、しばらく思案した後、
「ねえ、フラーボ。昨日か、今日あたり、見慣れない旅人が村に来ていたとかって話、誰かから聞いたりしていない?」
不意に別のことを言った。
「さあ、宿屋の方にはいかなかったから」
「そお?」
さして残念でもなさそうに頷くと、
「さあ、家に入るとしましょうか?」
腕まくりをして、家に近づいた。
「どうするの?」
「どうするも何も、家に入って、夕食にして、寝るのよ」
腕まくりしたのは、植物がからまった戸口を開けるためで、それ以上の事はする気はないようだ。
「よかった、思ったほど散らかっていないわ」
中に入ったエフェルはそう言ってため息を吐いた。
それでも、椅子を枝先に絡めて、天井のオブジェにしていたり、元の状態を考えれば、ひどい有様だった。
フラーボが見つけたその椅子を、エフェルも見上げて、
「すさまじい速度で成長したのね」
と感心した。
「普通あいうものは、よけて成長するものなのよ。若い芽は柔らかいから。重いものを持ち上げることが出来ると言うけど、それはあくまで芽を出す場所が限定されている時の話ですもの。枝が椅子を絡めて、落とす間もなく他の枝が伸びてきて、椅子を支えちゃったのね」
それから、台所に向かって、
「火を熾すわけにはいかなそうだわ」
と、またため息をついた。
「フラーボ、申し訳ないけれど、今晩はお昼の残りの冷めたシチューと、パンで我慢してね。それとピクルスと果物があるわ。姉ちゃんの目が悪くなければ、外で下草だけ刈って、たき火でもするんだけど…」
「十分だよ」
フラーボは答えた。
そろそろ夕闇が迫っていて、姉の目が一番見えづらい時刻であることに、フラーボは気付いた。
黄昏時の、中途半端な赤や黄色の明るさの中は、一番見えづらいらしい。夜に入りきってしまえば、少し落ち着くようなのだが。
そういえば、配置さえ判っているはずの家の中なのに、植物の枝や荒らされた家具のせいで、足元はわずかだけど不安にふらつき、障害物を捉えようと手がさまよっている。
自分がしっかりしなきゃと、フラーボは強く思ったが、何していいかすらわからない。
とりあえず、夕食の支度という仕事を奪い取る。
「このまま、寝るの?」
フラーボは台所と同じく、植物だらけの寝室のことを聞いた。
「そうよ」
「でも、……危険かもしれないじゃない」
「朝になるまでどうしようもないわ。成長も夜に入って一段落したようだし、大丈夫よ。まだ若芽だから、枝が体に刺さることもないわ。さすがに別途ごと天井に吊るされることもないでしょう」
「でも…」
「枝を折ったりしたほうが、危険よ。明かりをつけて火事になっても困るし。切れば切り口が固くなるし、樹液が大量に出てくる可能性もあるでしょ。姉ちゃん、残念ながらこの植物が何なのかわからないのよ。よく見えないし、柔らかくて若いから、手触りから判断できないのよ。大きさは尋常でないようだから、判断の材料にもならないし、わかるのは葉の形とか、交互に出ている事からわかる本当に些細な分類だけ。だから明るくなるまで我慢して?」
けれどその夜、フラーボはほんのかすかな音まで、植物の伸びる音かと危惧して、遅くまで寝付けなかった。
「あらまあ!」
朝の光がやわらかさを取り戻した頃、ひと目で植物の種を判断したエフェルケアは、珍しく大きな声を上げた。
それは、直したはずの床の割れ目を押し割って、枝を広げていた。
フラーボがキリオからもらった種に思い至る。
「そうなのよ。キリオさんが日陰を少し作った方が、花の種類も広がるって、いただくのを約束していた種だわ」
それは垣根などを作る低木で、形を作るのが楽で、村でもよく見かける種類の植物だった。
フラーボも名前は知らないが、よく見かける。早春に白い花を付ける。しかし、フラーボの知っているそれとは、はるかに大きさが異なるが…。
「昨夜は思い至らなかったけど、これ、トゲがあるのよ。何にもなくて良かったわ」
あっさりとそういう姉に、
「姉ちゃ~ん」
フラーボは情けない声を上げた。
「平気よ。トゲだって、まだやわらかいもの」
エフェルは弟の頭に優しく手を置く。
ゆうべ思った以上に、被害は甚大だった。
近くで見ても、緑の小山のようで、屋根の色がわずかに見える程度。
「違うわ。昨夜より成長しているようね」
フラーボの考えを、エフェルは真剣に否定した。
「三日は保つと思ったけれど、思ったより成長が早いわ。これじゃあ、今日は村の方を手伝うどころじゃないわね」
「三日って?」
「若くてやわらかい枝が、硬い枝になるまで。硬くなってからじゃ、私たちじゃ手に負えなくなるわ。家も傷つくしね」
そしてエフェルはフラーボに、村へ行って釘抜きを借りてくるように頼んだ。
「くぎぬき?」
「そう、村でも道具は必要だろうから、それだけでいいわ。後は家にあるので何とかするから。家の釘抜きは錆びさせて曲がってしまったのよ」
それと…と、エフェルは付け加える。
「今日だけは道草を我慢してちょうだい」
そして、果物を簡単にはさんだサンドイッチで朝食をすませ、フラーボは村へ向かった。
「それとね、フラーボ。もしね、もしもだけれど、村や、村に行く途中、途方に暮れたような村人以外の男の人がいたら、ここに連れてらっしゃい」
意味深な姉の言葉の、意味を聞いても、もし会ったらわかるからと笑うだけ。
フラーボは、「村にお客はいなかった?」という、昨日の姉の言葉を思い出した。
「うん、探してみるよ」
「探さなくてもいいのよ。偶然見つけたら、で。必ずいるとは限らないから」
にっこりとエフェルは笑い、小道を走って行く弟を見送った。
フラーボから、釘抜きを受け取ったエフェルは、修理したばかりの床板をはがし、そこから生えた茎の周りの床をさらにはがして、大きな穴を開けた。
そして、釘抜きを大ぶりの園芸バサミに持ち替えると、その穴から床下へ上半身を突っ込んだ。
「ね、姉ちゃん?」
その作業を見守っていたフラーボは、姉が何をしているかわからずに、間の抜けた声を上げる。
作業を見守っているのは、フラーボだけじゃない。村へ行く途中出会った青年も一緒だ。
村人以外の男の人。
それも言っていた通りに、途方に暮れた顔をしてうろうろしていた。
この人に間違いない!
そう思って連れてきたのに、エフェルはフラーボに「おかえり」、その人に「いらっしゃい」を言っただけで、釘抜きを受け取り作業を始めだした。
いぶかしがる青年を、「来ればわかるから」と連れてきたのに、説明なしでは、この人でよかったかすら、わからない。
説明を求めたがっていた青年が、エフェルの作業を見守ったまま、何も問うてこないのは、助かるけれども。
それにしても、フラーボが村に釘抜きを取りに行っていた時間は、ほんの一刻ほどだというのに、周りの植物はさらに成長していた。
「すごいや」
フラーボはつぶやく。
家の中だけじゃない。もう屋根はすっかり広げた葉で見えないし、家庭菜園の野菜たちも、軽くフラーボの背を越えていた。
まだ、食べるに日数がかかるはずだった実も、熟れに熟れ、土に落ちたものの中には、中の種がさらに芽を出しているのもあった。
「フラーボ!」
エフェルが弟を呼んだ。
「手がふさがっていて…、起き上がるのを手伝って欲しいの」
もごもごとした声なのは、まだ床下に顔を入れたままだから。
フラーボはあわてて姉のそばにより、腰に手をかけた。
青年にも手を貸してもらい、顔を上げたエフェルの手には、枝と細かい根を丁寧に切られた、切り株のような形の大きな苗があった。
「姉ちゃん、顔が真っ黒だ」
「ふふ」
エフェルが笑った。
「どうして、そんな面倒な事をするの? 床をはがしてまで」
「せっかく、キリオさんにいただいたんですもの。こうすれば植え替えられるでしょう。これはあまり水を吸わない植物だから、普通こんなに枝や根を払ってしまうと、なかなか根付かないのだけれども、今はとても生命力が強いから大丈夫だと思って。後は、切り離した枝を引きずりだして、床を直せば、家のほうは大丈夫そうよ。はい」
エフェルは手に持った大きな苗を、差し出した。
弟に、ではなくて、弟の連れてきた、青年に向かって。
「エフェルケア…」
青年はまじまじとエフェルを見た後、おずおずとそれを受け取った。
「姉ちゃん?」
フラーボは紹介もなしに青年が姉の名前を知っている事に、まず驚く。
「あなたが植えれば、すぐ根付くと思って」
にっこりと笑う。
反対に青年はため息をついた。
「君は…何でもお見通しなんだね」
「ううん、あなたじゃないかと思っただけ。確率は高かったけれど。久しぶりね。クオーリッシュ」
「???」
フラーボは訳がわからなくて、困った。
わかるのは二人が、知り合いらしいとういことだけ。
「姉ちゃん?」
「ああ、ごめんね、フラーボ。紹介は後でしましょう。夕方までにこの状態を何とかしてしまいたいわ」
それもそうだと思って、フラーボは姉に支持を仰いだ。
家の中に入って、外から枝をを引き抜くエフェルを助ける役目を言いつかって、作業を進める。
姉が引き抜く枝を、絡みがないか、家具をまき込まないか、見ながら邪魔な枝を払うのだ。
「まだ、やわらいけど、トゲには気をつけてね。そうね手袋をしましょう。絡まっているのは後回しにして、動きそうなのから引いて行くから。合図するから、引く時は壁を背にしてホント気をつけてね。相乗効果でどんな動きをするかわからないんだから」
姉が引きずりだしている枝が、小枝で他の枝をまき込んだり、窓枠ではねたりして、先がのたうつのだ。すばしっこくてまだ体の小さなフラーボでないと対応出来ない。
そして、当然のように青年にも指示をだす。
「クォーリッシュ。その苗は、その辺りで。そしたら、そのまま戻ってくるんじゃなくて、裏の道具小屋までの道を、草を倒しながら踏みならしてちょうだい」
フラーボはそれを見て、不思議に思った。
「仲、いいんだね」
「え?」
「姉ちゃん、楽しそう。村の人にもあんまり親しげに話さないのに。…言葉づかいも違うし、なんか、あの人には…えらそう」
「えらそう? …かしら?」
エフェルは首を傾げた。
「でも、一番の友達だったのよ」
やっぱり楽しげに言う。
「それより、あの木で生垣を作るのは、あそこでいいと思う?」
「姉ちゃんの好きなところで……!?」
フラーボは、苗を植え終えた青年を目で追って、その光景にギョッとした。
固められた土の所から、異常繁殖した植物の方に足を踏み入れたとたん、青年の周りの草がぐんと伸びて、胸のあたりまでだった植物が青年の姿を隠した。
まるで青年を取り囲むかのように、足を踏み出したところが、足を囲むように、丈を伸ばす。しかも、青年はそれを気にする様子がない。
「説明は後でさせて、フラーボ」
エフェルは弟の頭に手を置いた。
「それから、彼をあまり奇異の目で見ないであげてほしいの」
フラーボは、手を置かれたまま上目づかいで姉を見た。
「姉ちゃんが平気なら、僕も平気」
「ありがとう」
「切った枝、どうする?」
「どうしましょうか?」
さりげない話題の展開に小さくほほ笑んだ。
「村の方ではどうするか聞いて、よかったら便乗してしまいましょう」
そして、エフェルも作業を再開した。
夕刻までに、家の中と周りだけは何とかして、三人は家に入った。
「フラーボがもっと小さかった時、私が都の学校へ行っていた事は、聞いている?」
「うん、母ちゃんから…」
フラーボはよく覚えていないが、幼いころの家族の記憶の中には、姉がいないシーンはけっこう多い。
「その時の友人なの。クォーリッシュ、この子は弟のフラーボ」
「君に、こんな年の離れた弟がいたなんて、知らなかったよ」
「そりゃあ、言っていないもの」
いたずらっぽくくすくす笑う。
「こんにちは、クオー……リッシュさん」
「リッシュのが言いやすくないかい?」
「じゃあ、リッシュ」
そして、肝心の話に移行する。
「リッシュが、この騒ぎの原因なの?」
「うーん…」
リッシュが困った顔をする横で、エフェルはうれしげに言った。
「原因というのかしら。ねえ、フラーボ。『みどりのゆび』というお話は憶えているかしら?」
「おぼえているよ」
幼いフラーボが、まだもう少し幼かった頃、エフェルが話してあげた物語の一つ。
『みどりのゆび』
主人公の少年は、素晴らしい特技を持っていて、熟練の庭師が手間をかけてようやく咲かせる花を、一晩で咲かせることができるのだ。
土にはたくさん種が隠れていて、下の方に埋まっていた土が、掘り起こされて空気に触れ、木狩りを浴びただけで芽を出すものがいる。それを『光発芽種子』というのだけれど、その光発芽種子が太陽の光を浴びたかのように、『みどりのゆび』に触れた植物は、芽を出し、大きくならずにはいられない。
『みどりのゆび』の持ち主が、石垣に触れただけで、次の日には石垣のすきまから、蔓薔薇が伸び出す。
もう花をつけることが難しい、年老いた木も、その指が触れただけで、まるで栄養状態の良い土に入れ替えられたかのように、蕾を付け始めるのだ。
「リッシュは『みどりのゆび』を持っているの!?」
それはとてもすばらしいことだ!
エフェルの庭いじりだって、見事に花をさかせ、おいしい実をつけさせる。『みどりのゆび』の持ち主ではないのかと、何度も感心した事があるのだけれど、そのたび彼女は『みどりのゆび』はこんなものではないと言って笑うのだ。
「いいえ、『みどりのゆび』とは違うかもしれないわ。あえて言うのなら、『みどりの気配』とでもいいましょうか」
「『みどりのけはい』!!」
そうだ、クォーリッシュは土に触れたりしていない。それなのに彼の周りは途端に植物に覆われるのだ。
「クォーリッシュの出す、オーラとでも言いましょうか。彼の立てる足音、切る空気、吐息、そのすべてを植物は取り込んで、愛さずにはいられないのよ」
「かっこいい!」
フラーボは称賛の瞳でリッシュを見た。
それに曖昧に笑い返して、
「そんなに、良いものではないんだよ」
ためらいがちにリッシュは言う。
「あ…」
その悲しげな様子に、フラーボはしゅんとする。
前に同じ事があったと、村ごと焼いてしまったと、エフェルは言っていた。その原因もきっとリッシュであろうから。
「ごめんなさい」
「謝ることではないよ」
リッシュは、フラーボの肩に、一瞬手を置いた。
「一時期、ひどかったけれど、その後は落ち着いていたんだよ」
エフェルに向かい、リッシュは話し始めた。
「ところが、最近特にひどくなって…」
そして、言い淀む。
住んでいたのは周りに何もない、一軒家。けれど近くの町が植物にのまれる。
噂。焼かれる植物の悲鳴。
耐えられなくなって、家を捨てた。
けれど、行く先々での騒ぎ。
知らず人との距離を置くようになり、人の通らない道を選ぶ。人の少ない村を選んで泊まり、人とふれあうことなく、朝一番に宿を出る。
何より心が荒んでいく。
「植物がないところに住めばいいのに。種がなければ、芽を出さないよ」
世の中にはそんな枯れ果てた土地もあるという。砂だらけ、岩だらけ、そして、そんなところにも人は住んでいるのだ。
「ああ、そんな所に住むことは出来ないよ。心が死んでしまう」
「それにね、フラーボ。どんな場所にも植物は存在するの。水の一滴もない、乾いた砂漠でもよ」
エフェルが、クォーリッシュの言葉を引き取った。
「土の中に種は存在するの。雨季の最初のひと雨で芽を出し、花を咲かせ、種を落とすの。そして種は次の雨期までじっと待つの。芽を出せる条件がそろうまで。一週間の短い雨季の中でも必死で次の世代の為に生きているのよ。クォーリッシュが雨季でもない時期に芽を出させてしまったら、それは一週間と生きていられないでしょう。生物のサイクルはね、フラーボにはまだ難しいかな、生態系と言うんだけれども、まるで奇跡のような、人から見たら信じられないような絶妙なバランスの上に成り立っていることもあって、一度崩してしまうと、取り返しがつかないことの方が多いのよ」
フラーボは、エフェルの言葉を聞いて考える。
「でも、リッシュがずっとそこにいたら?」
「ああ、それならステキ」
エフェルは、喜んで言った。
「砂漠も草原に出来てよ、あなたなら」
「……考えておくよ」
「そのかわり、とても時間がかかるわ。芽吹いて、毎日水をあげて、きちんと根付かせることの繰り返し。そのうち、土が少しずつ生命を取り戻して、肥えていくわ」
「何年もかかるよ、姉ちゃん」
「それではすまないわね。たとえクォーリッシュでも、何十年、もしかしたら、孫のそのまた孫の代まで」
エフェルは軽い調子で言うので、フラーボは冗談だと思って聞いていたけれど、
「それが、僕のやるべきことだと言うのなら、……やるよ」
リッシュが、ぼそりと真面目に答えた。
「この力が、僕にとって納得できるものなら、抵抗はないよ。一人でやるには心許ないけどね」
言って、思わせぶりにエフェルの方を見たけれど、エフェルはそれに気づいたふうもなく、けれど、何か言いたいことがあるような感じで眉根を寄せて、クォーリッシュを見返した。
首をかしげるフラーボを差し置いて、
「遅くなるから、食事にしましょう」
の一言で、会話は打ち切られた。
大体は片づけたけれど、移動した家具まではすべて元に戻し切れていなくて、足元の不確かなエフェルを手伝って、二人は食事を運ぶ。
一度、エフェルが転がしたジャガイモを、クォーリッシュが拾ったとたん、しゅるしゅると芽が伸び始め、外へ植えに行くというハプニングが起きたが、エフェルが用意しながら片付けもするという手際の良さで、食べ終わる頃にはすっかり、台所も綺麗になっていた。
そうして、夜は更けていく。
「どうしたの?」
後ろから声をかけられて、ハッとする。
「エフェルケア…」
フラーボにおやすみの挨拶をして、家が寝静まっても寝付けなかったクォーリッシュは、フラフラと外に出てきていたのだ。
それに気付いたエフェルが、戸口から声をかけてきた。
「エフェルケア、危ない」
月明かりの中を、歩いてくるエフェルに、クォーリッシュは心配して声をかけた。
けれど、エフェルの足取りは食事時よりずっと確かで、ためらいも見えない。
「見えないと言ったって、全くではないんですもの。庭は片づけたし、平気よ」
そして近くまで来たエフェルは、
「どうしたの?」
と、再び問うた。
「眠れないんだ」
エフェルはくすりと笑った。
「無理もないわね。うちは夜が早いもの。朝もその分早いわよ。起きられると言うのなら、村まで降りるといいわ。この時間なら、まだどこかしら店がやっていると思うわ。片づけも終わっていると思うし。ただし、帰ってくるときうるさくしないでね。フラーボが起きてしまっては、かわいそうだもの」
「…いや」
エフェルの勧めを断ってから、クォーリッシュは聞いた。
「君が目が悪かったなんて、知らなかったな。いつからだい?」
「だいぶ前よ。もう気にもならなくなったくらい」
「卒業はしてからだよね?」
「ええ」
それから二人はしばらく黙った。
夜風に、エフェルの髪がゆれる。ひんやりとしたその風に、エフェルは肩掛けを併せなおした。
「言いたいことがあるなら、言ってしまった方がいいわよ。私、お客様を長く止めるのは好きではないの。村には宿屋もあることだし」
「何故? そう見える?」
それがすこし冷たげな言い方だったので、クォーリッシュは不思議に思う。
「さあ、何となくよ。以前より無口になった気はするけど」
「人と…会話してないんだよ。さっきも言ったけれど」
「周りを見て、クォーリッシュ」
けれども、エフェルは違うことを言った。
「今は落ち着いていると思わない? 夜というのもあると思うけど」
生命力に満ちているのは相変わらずだが、確かにエフェルが言うように、音を立てて伸びるほどの異常繁殖はおさまっている。
「噂に惑わされるのはお終いにして、もっと人とかかわるべきよ。心の歪みは力の暴走にもつながるから。あなたの心の乱れは、植物の暴走を呼ぶでしょう。きっかけは何かわからないけど、心を穏やかに持ちましょう。人は一人では生きていけないのよ。もっと、人とふれあって自信を持つべきよ」
エフェルは数歩踏み出して、夜風に髪をなびかせた。
周囲の植物の生命力に身を任せるように、目を閉じる。
「種は、祝福なのよ。クォーリッシュ。すべての種が目を出す幸運には恵まれていないもの。もし、全ての種が芽をを出す事があったなら、それころ、この世界は緑に覆い尽くされてしまうことでしょうね。あなたはその幸運を持っている。祝福を与えることができる。どうして悲観するのかわからないわ」
「…君は何を知っている? いや、何をしたかと聞くべきだろうか」
「……物事は順序立てて話すものよ」
「あの少年に連れられてきて、君を見たとき、やっぱりかと思った。多分、君が植物の異常を見て、僕かと思ったように。僕は、植物に導かれてここに来た。いつだって、植物が求めるように向く方向がある。まるで太陽に向かう新芽のように。僕はそれを追って来た。そこに…君がいた」
エフェルは黙ったままなので、続ける。
「君は昔から何でも良く知っていたけれど、こんな不思議な現象すら、まるて大したことではないかのように話す。…何を知っている? いや、僕は君が原因ですらないかと思っている」
そして、クォーリッシュは大きく息を吐いた。
「僕はずっと君を探していたんだ」




