11月24日
結局彼女からの連絡はなかった。
土日を掃除に費やして月曜日。休日の度にこまめに整理していたのもあって決して散らかっているという程ではなかったが、それなりに不必要な物は残っていた。それらをこの機会に一掃できてさっぱりとした気分で仕事に出かける。
予定の他に先週キャンセルしてしまった会社にも足を伸ばす。ちょっとした菓子折りを手渡して頭を下げるとどこも快く許してくれた。そうして自分の失態の尻拭いをしている内に日が落ちる。暖房の効いたフロアの一角にある自分の机で事務作業をしていると聞き慣れた電子音が鳴った。
営業の悲しい性か、反射的に携帯に手が伸びる。確認してみると未登録の番号のようで、数字の羅列が表示されていた。だが営業をやっていると知らない番号からかかってくることはよくあることで、特に不信に思うこともなく電話に出た。
「はい。○○営業所の小野田です」
「…………」
「もしもし?」
沈黙に眉を寄せる。間違い電話だろうか。しかしそれにしては無言が長いように思える。耳を澄ませて電話越しに相手の出方をうかがっていると、しばらくして小馬鹿にしたような女の声が聞こえた。
「ふーん、オジサンって仕事してるときはそんな話し方なんだ」
「……お前か」
相手を察して呟く。腕時計を確認すると時刻は二十二時。手元の書類をぱらりとめくって枚数も確認する。
「まだ仕事が残ってるからそっちに着くのは零時過ぎるぞ」
「えー」
「しょうがないだろ。まだ仕事が残ってんだよ」
「……はぁ、大人って仕事を理由にしておけば何でも許されると思ってるよね」
「んなこと知るかよ。お前の予定に合わせてやる義理なんかこっちにはないっての」
「……それもそっか。まぁいいや、こっち着いたら一応連絡して。気が向いたら泊まってあげるから。それじゃ」
「あ、おいこら」
慌てて怒鳴ってみても既にスピーカーは規則正しい電子音を流すだけだった。隣で同じく書類を書いている後輩が好奇の視線を向けてくる。
「先輩にもようやく春が来たんすか?」
そうならどれだけ気が楽だろう。しかし実際はただただ面倒くさいだけの女子高生である。
二年前に結婚し、近々第一子が生まれるという後輩。幸せ絶頂期のそいつの頭を八つ当たりぎみに叩き、携帯の着信履歴を開く。一番上の番号を選択し、名前の欄に小娘と登録してやった。
◆◆◆
終電間際の電車に飛び乗り、最寄り駅に着いて電話をかけると彼女はすぐに現れた。近くのコンビニで立ち読みしていたらしい。
補導される危険があるからか既に着替えている。言い方は悪いが制服を着るのはきっと女子高生というブランドをアピールするためなのだろう。つまり既にカモを捕まえている今日はその必要がないわけだ。もっともその方がこちらとしても助かる。警察に見つかって問い詰められたらうまい言い訳が思いつかない気がした。
「飯は?」
「もう食べたに決まってんじゃん。こんな時間まで待ってられないよ」
それもそうか、と呟いて歩き出す。煌びやかな繁華街とは対照的に薄暗い住宅街へと足を進める。ぽつぽつと点在する街灯の心許ない明かりを踏み、途中にあるコンビニで自分用の弁当を買った。
「侘しい夕食だねえ」
人におごらせてばかりの人間に言われたくない。
程なくして見えてきたボロアパートの階段を登り、タイルにヒビの入った廊下を進む。鍵を開けて立てつけの悪い金属扉を引き開けると1DKの見慣れた部屋が家主を待っていた。先行して電灯の明かりをつけると背後から感心したような声が聞こえた。
「意外と綺麗にしてんだね」
「まあな」
なに見栄を張っているんだろうとネクタイを外しながら思う。エアコンの暖房を入れ、キッチンの冷蔵庫を引き開ける。中にはお茶のパックと缶ビール、酒のつまみぐらいしか入っていなかった。男の一人暮らしなんてこんなものである。
「お茶しかないんだがいいか?」
「ビールでもいいよ」
冷蔵庫から取り出した缶ビールを指すのを無視してコップにお茶を注ぐ。ダイニングに戻ると上着を脱いでベッドに腰掛けた彼女が物珍しそうに周囲を見渡していた。
「エロ本は?」
「んなもんねぇよ」
麦茶を手渡しながら素っ気なく言ってやると不満そうに頬を膨らませる。
「えー、そんなわけないじゃん。どっか隠してんでしょ」
そう言いながらベッドの下を漁りだす。別に探られて痛いところなどないので構わず放置することにした。折り畳み式の小さなテーブルの前に腰を下ろし、弁当を引っ張り出す。
時刻は零時二十分。普段ならばもう寝ているような時間である。しかしどういうわけかまったく眠気はなかった。この状況にそれなりに緊張しているのかもしれない。こうなるとアルコールの力に頼るほかなさそうだった。
明日の仕事のことを考えながら機械的に弁当を口に運ぶ。本棚や書籍の裏まで探し終えた彼女が不服そうに頬を膨らます。
「ねぇ、ないんだけど」
「だからないって言ってんだろ。あー、ところでお前風呂入るなら俺の先と後、どっちがいいんだ?」
「別にどっちでもいいけど」
「だったら今のうちに入れ。タオルはこれ使っていいから」
背もたれにしていた小タンスから一枚バスタオルを取り出して手渡す。我が家はユニットバスだが、人の家に泊まり慣れている彼女には一々注意するようなことでもないだろう。
キッチンへと消えた彼女を確認してテレビのリモコンを引き寄せる。電源を入れると大して面白くもない深夜番組の下卑た笑い声が室内に響いた。缶ビールを傾け、一向に訪れる気配のない睡魔を見限るようにため息をついた。
これでいいのだろうか。
たとえ一切手を出す気がなかろうと、この状況を誰かに見咎められれば自分は破滅である。そのリスクを負ってまで彼女に関わる義理があるのか。そんなこと考えるまでもなくわかることだ。
けれど他にやりようがあったのかというと、そうとも思えなかった。これが彼女に対して自分にできる最小にして最大の援助。これ以上は踏み込みすぎで彼女が逃げてしまうだろうし、金を渡せば見返りを提示してくるだろう。それは自分の望むところではない。
まったくもって面倒くさい小娘だと頭をガリガリ掻いているとキッチンから風呂上がりの彼女が顔を出す。リュックに寝間着も入っていたのか、半袖ハーフパンツのずいぶんとラフな格好だった。
空になった缶ビールを握り潰して立ち上がる。カラスの行水のように雑に入浴を済ませ、ダイニングに戻るとベッドに横になって携帯をいじっていた。今どきの子供のイメージと違わないその姿に呆れ半分、感心半分。あれやこれやと手をかけないで済むのは助かるが、何とも妙な気分であった。ジェネレーションギャップというやつかもしれない。
テーブルを壁に立てかけ、押入れから引っ張り出した予備の毛布を床に敷いて自分の寝床を確保する。
「電気消すぞ」
問いというよりは確認のために言ったのだが彼女は不満そうな声を上げた。
「んだよ、もう一時過ぎてんだぞ。お前も寝ないと学校に間に合わないだろう?」
「別に行かないから関係ないし」
なるほど、先週喫茶店にいたのは学校をさぼったからなのだろう。しかしだからと言って俺まで起きている必要はない。
「じゃお前は起きてていいから。明日も仕事があるから俺は寝るぞ」
返答を待たずに消灯する。暗くなった部屋に彼女の携帯だけがぼんやりと光っていた。
「ふぅーん、ほんとに手出さないんだ……」
しばらくしてようやく訪れた微睡みの中で彼女の声が聞こえた気がした。