11月22日
翌日の金曜日。
休日前ということで普段ならば高揚する気分が今日ばかりは沈んでいた。それというのも全てあの小娘のせいである。
あれから足取り重く帰宅した俺は風呂に入る気力もなく、スーツを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。もぞもぞと足元の掛布団を手繰り寄せ、どうにか寝ようと試みる。けれど瞼を重くしていたはずの眠気は既に霧散してしまっていて、さっぱり眠りにつけなかった。耳の奥でずっと拒絶混じりの彼女の声が木霊していた。まんじりともしない時間を天井を眺めてやり過ごした。
そうして気が付けば朝になっていた。何度かうたた寝することはできたようだが、どうにも体が重い。のそのそと起き上がり、昨夜脱ぎ散らかしたスーツをまた着込んでいく。玄関を開けると冬の弱々しい日差しに瞳を焼かれ、鈍い痛みにたまらず目を細めた。
油の切れたロボットのように緩慢な動作で黙々と足を動かす。いつもより遅れて出社し、約束のあった一社を尋ねた。寝不足でよほど酷い顔色だったのだろう。先方が気を使って早々に話を切り上げてくれた。おかげで次のアポイントまでしばらく時間が空いたが、まるで行く気が起きなかった。なけなしの気力が尽きたのだと悟る。
先方には悪いけれど今日は早引けさせてもらおう。
オフィス街に造られた小さな公園のベンチに腰かけ、中天に差し掛かった太陽を見上げる。これまでも熱を出しながら仕事をしたことはあったが、それとはまったく別種の辛さだった。寝不足ではあるが、眠気はあまり感じない。単に体が重く、気力が湧かないだけだ。軽度のうつ病のようなものなのかもしれない。
携帯を取り出し、今日約束していた相手と上司に連絡する。平身低頭しながら謝るとどの会社も快くキャンセルに応じてくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいになるのと同時に、これまで地道に築き上げてきた信頼関係の大きさを噛みしめる。上司も今朝出勤した時点で顔色を心配してくれていたようで、こちらで退勤を押しといてやるから気にせずそのまま帰れと二つ返事で応じてくれた。
頭が下がる思いを胸に携帯をしまい、仕事鞄を手に立ち上がる。駅へと続く道を歩く足は相変わらず遅かった。
地元の駅に着いたのは十三時過ぎだった。改札を通り抜け、左右どちらに行くか迷う。まっすぐ自宅に向かうなら右だが、繁華街に寄って何か腹ごしらえした方がいいかもしれない。食欲はないけれど、どういうわけか空腹は自己主張していた。料理をしない男なのでアパートに戻っても食料の備蓄は皆無である。少し考えて結局は左に向かうことにした。この時間に帰ったところで寝る以外に時間を潰す方法もないだろう。
スーツをかっちり着込んで足早に通り過ぎていくサラリーマンを尻目に繁華街に辿り着く。料理店をいくつか覗いてみるが、どれも胃に重そうでとてもではないが食べきれる気がしなかった。軽食もあって比較的時間の潰せる喫茶店に向かうことにする。
近くの書店で適当に本を見繕って店内に入ると、昼を過ぎたこともあってずいぶんと空いていた。ホットコーヒーとサンドイッチをトレーに載せて、さてどこに座ろうかと禁煙席をざっと見渡していると、ふと記憶にある姿が視界の隅に映った。
昨夜見たのと同じ制服、おさげにしている黒髪。派手さはないものの、男受けしそうな容姿は間違いなく彼女であった。どうやらまだこちらに気づいていないようで、壁際の角席に座りながらいかにもつまらなさそうに携帯をいじっている。
「…………」
顔をしかめながら逡巡する。昨夜あんな別れ方をした手前話しかけるのは気まずい。だがあの後どうしたのか聞くチャンスだとも思えた。
もしかしたら別の男をつかまえて……。
そう考えると居てもたってもいられず、思考がまとまる前に勝手に足が動き出す。彼女の隣の席にトレーを置くと硬いツバを飲み下した。
「あー、あの後どうしたんだ?」
意志とは関係なく無遠慮な質問が口から飛び出してドキリとする。他に何か切り出し方はなかったのかと心中で自分を責めるが、一度出てしまった言葉は引っ込められない。彼女はいぶかしげに顔を上げ、俺を確認すると嫌そうに眉間に皺を寄せた。中空に浮いた質問は黙殺され、彼女の視線がまた手元の携帯に向けられる。
予想はしていたがやはり長期戦になるらしい。だがまあいいだろうと嘆息する。時間の有り余っている俺としてもそれは望むところだった。
質問を投げた以上、こちらの手番は済んでいる。あとはじっと相手の返答を待てばいい。別にカードゲームのようにターンがあるわけじゃないが、矢継早に言葉を重ねても彼女が逃げてしまうような気がした。なんとなく気難しい猫を相手にしているような気分である。
隣の席に腰を下ろし、書店で購入した本を開く。ちらりと隣から視線を感じた気がしたが、意趣返しとばかりに無視してやった。そうした沈黙の中でサンドイッチを平らげ、しばし店内の静かな音楽に紙をめくる音が微かに響く。
文字を目で追うこと十ページ。物語の導入部分も終わらない内に反応があった。隣に聞こえる程度の小声で彼女が呟く。
「……他の席も空いてんだけど」
意外と堪え性がないんだなと隣を盗み見ると視線は携帯に向けられたままだった。あくまで他人の体で話を進めるらしい。けれどそれも間違っていないだろう。なにせいまだにお互い名乗ってすらいないのだから。
彼女にならって手元のページをめくりながら応える。
「どこに座ろうと俺の勝手だろ」
「……ストーカーですか。警察呼びますよ」
「呼ばれて困るのはお前も同じじゃないのか?」
「……別に。証拠がないでしょ」
「そういえば昨日のファミレス何てとこだったかな。あそこのカメラをチェックされたらどうなるかな」
「っ……。でもそれだけでバレるわけないじゃん。第一あたし昨日は売ってないし……」
「こいつ……」
悪びれもせずにさらっとのたまう辺り本当にいけ好かない。しかしこれで気がかりの一つが消えた。おそらくカラオケにでも泊まったのだろう。
「まぁどのみち警察を呼べばお前の親も来るんだ。そうなりゃ捕まらないまでも困りはするだろう」
「……まぁね」
それで追い返すのを諦めたのか、会話が途切れて沈黙が流れる。きっと彼女からしてみれば俺は偶然出くわしただけの男であって、興味もないし特別聞きたいこともないのだろう。だがこちらはそうもいかなかった。今日も彼女が売りをするのかと思うと暗澹たる気分になる。このままだとまた眠れない夜を過ごすハメになりそうだった。
黙っていたところで何も解決しない。少し温くなったホットコーヒーに口をつけ、静かに踏み込む意思を固める。
「……なぁ、そこまでして金が欲しいのか?」
「…………」
「どんな事情があるのか知らないけどさ――」
「別に、あんたには関係ないでしょ」
「……ところがそうでもないんだよ」
「は?」
少し意表を突かれた様子で彼女が振り向く。
「実は昨日の夜寝れなくてね。今日寝不足で仕事を早退したぐらいなんだ」
「なに? 同情したっての?」
吐き捨てるように言った彼女の瞳に暗い光が灯る。
「今までにも何人かそう言ってくる人いたんだけどさ。そうやって良い人ぶればあたしが好きになるとでも思ってんの? ほんとキモイから近づかないで」
淡々とした口調だが内容は辛辣である。できるだけ距離を取るように体を壁に寄せて視線で威嚇してくる。どうやら完全に嫌われてしまったようで、手を出せば冗談抜きに引っ掛かれそうだった。俺は仕切り直しのために手元に視線を向ける。読んでもいないページをめくり、彼女が落ち着くのを待った。
数分経って、警戒する気配が消えたのを確認して思い出したように弁明する。
「あー、一応誤解のないように言っておくと、さすがに女子高生に手を出したいとは思わないぞ。第一それなら昨日あんなことになってないだろう?」
「……そういえば、あれは痛かったなぁ」
「……すまん。あの時は頭に血がのぼってて、つい……」
「へぇー、一応悪いと思ってるんだ。なら言葉だけじゃなく態度で示してもらいたいんだけど」
「また何かおごれってか? 調子に乗んなよ。たしかに叩いた俺も悪いが、叩かれるようなことしてるお前も悪いだろうが。大体バレたらどうするつもりだよ。親の説教で済むような問題じゃないんだぞ?」
「あー、そういうの聞きたくないから」
「おい……」
「ってかさ、子供だと思って馬鹿にしてない? あたしだって自分がどんなことしてるかぐらいわかってるっての。それを親が悲しむとか、人生を棒に振るなとかさあ。偉そうに説教してくれんだけど、聞いてるこっちはいまさら何言ってんのって感じなんだよねぇ」
「ああ……」
たしかに彼女ぐらいの年齢になればある程度物事の分別はついているものだ。もちろん大人からしてみればまだまだ想定が甘いと言わざるを得ないが、それを指摘したところで到底納得などできないだろう。人は他人から教わる真実より自分で見つけた答えを信じるものである。
ふと母親の小言を聞き流す自分とダブって見えた。
「それもそうだな。わかった、もうこの話はやめよう」
あっさり引き下がったのがよほど意外だったのか、彼女が俺を見つめて目をしばたく。
「なに? 今度は物わかりのいい振りをして気を引こうっての?」
「お前は本当に捻くれてんなぁ。単に説得が無理そうだから諦めるってだけだ」
「あ、そう……」
「何か不満でも?」
「別に……。ちょっと不気味だなーってだけ……」
「さいですか」
呆れたように呟き、ずいぶんと冷めてしまったコーヒーを一気に煽る。ボールペンとメモ帳を取り出し、名前と携帯番号を書きなぐった。それを一方的に彼女のテーブルに残して立ち上がる。
「もし泊まるところがないようだったら電話してくれ。狭いボロアパートで良ければ泊めてやるから」
「……偽善者だね」
「なんとでも言え」
捨て台詞のように言って足早に歩き出す。外に出るとまだ日は高く、結局あまり時間を潰せなかったことに気づいた。
「まあいいか」
言いたいことは大体言ったように思う。
一仕事終えたようなさっぱりとした面持ちで顔を上げた。家に帰ったらまずは掃除しないといけないだろう。まさか本当に連絡があるとは思っていないが、万が一ということもある。子供とはいえ、曲がりなりにも女を家にあげると考えるとわずかに動悸が早くなった。
部屋の光景を思い出しながら家路を辿る足取りは昨夜に比べてずっと軽かった。




